○
松村眞一郎君 私は原案に對しまして、
修正意見を持
つておるものであります。それは原案には、第百八十三
條削除とありますが、それを修正いたしたいというのであります。文句を讀みます。
第百八十三
條削除とあるのを次のように改める。
第百八十三條第一項中「有夫ノ婦」を「
配偶者アル者」に、「二年以下の懲役」を「三月以下ノ懲役又ハ五千圓以下ノ罰金」に、同條第二項中「前項」を「第一項」に、「本夫」を「
配偶者」に改め、同條第一項の次に次の一項を加える。前項ノ
罰ヲ犯シタル者ハ情状ニ因リ其刑ヲ
免除スルコトヲ得
こういうように修正をいたしたいと考えるのであります。
大體私の考えておりますことの概要を申述べたいと存じます。
この問題は、
公聽會でもいろいろ論議がありましたので、
専門家の
學識經驗のある方々の御説明を承り、
國民一般の聲も
公聽會において
伺つたのであります。從いまして内容が非常に豐富にあります。一々それに對しまする私の意見を述べるのも非常に煩わしいと思いますが、大
體纒めてそれに對して意見を述べてみたいと思います。
第一は、初めから大きな問題を揚げての御意見でありましたが、それは憲法で戰爭を放棄するということまでいたしたのであるから、
姦通罪というような問題についても、その線に副うような意味において革新的な考慮を拂わなければならんじやないか、こういうような意味の意見があ
つたのであります。それは結局
姦通罪とい問題について思い切つた考えをしなければならないではないかという意味と私は了解いたします。烈らば
戰爭放棄はどういうような工合にそれを釣合いを取るようにするのかということを私は先に考をて見ましたが、どうも方法として甚だ明瞭を缺くのであります。憲法において戰爭を放棄したというのはどういうことを言うておるかというと、戰爭というものは非常に
惡いものであるということを先ず
規定しております。そういうことを述べております。そうしてその次に戰爭を放棄するのであるということを述べて、然る後今度は
刑法の方において
戰爭行爲を放棄したけれども、それに違反して
戰爭行爲をなすようなことに援助する者があつたならば、努力する者があつたならば、それは處罰するということが今度の
改正案の中に入
つておる。それならば、
姦通の方についてはどういうことになりますか。
姦通を放棄するのであるということを天下に宣言しようとするならば、
姦通を放棄するのであるということをこのどこかに宣言しなければならない。宣言するということは、
姦通行爲を放棄する、こういうことになる。
姦通行爲を放棄するという裏に、それは
姦通行爲をしたならば罰するという
規定が要るわけで、それに
姦通罪を處罰する、こういうことになる。戰爭を放棄した、そうして戰爭を誘發した者は處罰する。こういうのでありますから、
姦通行爲を放棄した。然らば
姦通行爲をする者に對して、
姦通する者は處罰する。これは結局
戰爭放棄の論理で行けば、
姦通というものの
行爲をやつた者は處罰するということの
規定を置かなければならん。こういうふうに私は結論がなると思います。
その次には、どうも
刑法の關係からいうと、
姦通罪といものは
將來日本の
罪刑法の中からなくなるのが當然であるというような前提の議論から出發しておるようであります。そこで今日
姦通罪を廢止するのは尚早であるというような議論がある。尚早ということになる議論があるならば、今や
つてもいいじやないかという者があるわけであります。その前提は凡そ
姦通罪というものは世界の
刑法から影を没するのが當然であるという前提から出發しておる。その前提がなければならん。
今果してどこの國がや
つておりましようか。今日
文明國において
姦通罪がない國というのは
ロシヤと
イギリスであります。
イギリスについて考えて見ますると、
イギリスは
宗教が非常に盛んな國でありますから、その
キリスト教の信念から、神の合せたところの
婚姻は破つちやいけないということが原則にな
つておるわけであります。どうしても
離婚は許さない。こういうことになる。
離婚を許さないということが鐵則であります。だから
姦通ということは行われない。
離婚というものについてどうしたらよいかという處理がむつかしい。
婚姻そのものが意思によ
つて起
つておるものだから、
姦通とか
離婚という問題は
宗教の方に廻すという意味において、私は
宗教裁判でこれが取扱われるべきものであると考えます。
その次は
ロシヤであります。
ロシヤはどうであるかというと、これは新らしい國でありまして、いろいろな關係から新らしい試みをされておる國であると思います。それでは
ロシヤはどういう國かと申しますと、これは
キリスト教國であります。私は
ロシヤを自分で實見したのでありますが、それを申上げますというと、私のモスコーにお
つたのは、これはトロツキーとスターリンの爭いの時代であります。その際に
宗教は阿片であるというような思想があ
つて、そうして
政教分離ということをやかましく
言つておつた。併しながら
國民全體は非常に
キリスト教を信じております。そうして全體に
キリスト教の信仰が浸潤しておるのであります。
復活祭について申しますと、その日は、夕方から翌朝にかけて祭をする。私は私と同行いたしました
事務官と一緒に殆ど十以上の教會を巡禮して視察した。非常に熱烈なものであります。ところが或る意味において申しますと、
ロシヤは
キリスト教一色として、一つの色に染られているものであると私は信じます。そうして
事實一夫一婦制というものが行われておる。それで
法律の方ではともかく犯罪にしておりませんけれども、
事實一夫一婦制ということが行われておる。その點についてはあとから詳しく申上げます。事情が違うのであります。
そうしますと、世界の
文明國というものは、
宗教の方からであるか、
法律の方であるか、とにかく
姦通罪というものを
罪惡と認めているのは明瞭であります。
ところが、日本ではそういう状態でない。世界はどうかというと、大多數の國は
姦通罪は
有罪です。いつそれが無罪になるのでありますか、無罪になるということが決ま
つておれば、
戰爭放棄をや
つたのであるから、先廻りして、率先して
姦通罪を廢しようじやないかという、第一その前提が甚だ薄弱でありますから、そういう説は取るに足らんと思います。
それからこんなようなことがあります。その子供には罪がないのであるが、罪の子になるということは氣の毒であるから、
姦通罪は廢したらよかろう、そういう議論があります。それは初めから
姦通をしなければいいのですから、本當に親が子供を愛するならば罪な子供ができないように初めから
姦通しなければいい。その方が前提です。
その方からいろいろの御議論がありますけれども、要するにそういつたような感情的と申しますか、そういう問題について一々私が申述べるのはどうかと思いますが、尚こういう問題があります。私は
男女平等だということは、
法律の上から申し得ますけれども、何としても生理上
男女は違
つておる。これによ
つて適當に
法律の
規定をすることが、眞の平等であると私は考える。それは一つの例を申しますというと、婦人には妊娠ということがある。ところが男には妊娠ということはありませんから、そこは
姦通罪の現象としてこういうことになります。夫あるところの妻が
姦通をしますというと、必ず懷胎をするという虞れがあるということを斷定しなければ
いかん。ところが妻のある夫が
姦通した場合は、相手方は未婚の人もあります。それから結婚した人もあります。そうすると未婚の人の場合と、結婚した人の場合と違うということをいわなければならん。なぜかというと、妻の場合は必ず
婚姻契約に決まつたところの血統の子供ができるべき運命を持
つておるのを、他の男と
姦通すれば、その男が單身の者であろうが、
配偶者を持
つておる者であろうが、同じ結果を婦人に起しますけれども、男の場合は先に申したように違います。そんなことがありますから
墮胎罪というのがある。
墮胎罪は女の犯罪である。そういうことを考えましたならば、女と男というものを同じように見なければならんという
出發點は餘程考慮を要すると思います。何故かというと、こういうことを申上げられます。從來妻の
姦通の場合は、子供を生まないことを豫定としておりましよう。ところが日本の男が妾を置くという場合には、子供を儲けることを目的にしておるということが事實であります。親の血統を絶やさぬがために、子供を儲けんがために妾を置く。當然妻の場合と違います。
そういう場合がありますから、いろいろ考えて適當な立法をしなければならんと思います。その意味は刑の盛り方において融通の效くような廣い範圍の
規定をするということにおいてこれは救われると思います。私の案はあとで説明する意味において、そういう用意をして提出したのであります。
それから、こういうことも考えなければならんと思います。
男女平等にすればいいのであるから、兩方とも無罪にしても、兩方とも
有罪にしてもどつちでもいいじやないか。これは大變な議論の間違いであると思います。一つが正しければ一つが間違いである、そう輕く取扱うべき問題でないと思います。
有罪が正しければ、これは無罪が惡いのであります。どつちでもいいという輕い問題でないということを眞劍に考えざるを得ない。
そこで新憲法は
權利義務を非常に強く認識せよということを要望しておる。今日どういう状態であるかと申しますと、妻が
姦通をすることがないという意味において貞操の
義務を持
つておるわけです。それから
相姦者たる
第三者、それは人の妻を犯し
ちやいかんという
義務を持
つております。それから今度夫の方は自己の權利を
侵害をされたというので
賠償請求權を持
つております。この状態が今日の状態であります。それを私の主張するのには、妻にも
告訴權を持たせよう。民法上の
請求權を持たせよう。そうして夫にも
貞操義務を持たせよう。
第三者たる女性にも
貞操義務を持たせよう。こういうことを言うのでありますから積極平等を主張するのであります。若し
姦通罪を無罪にしたなれば消極平等であ
つて、何人も權利を有せず、
義務を有せないという消極平等になるわけであ
つて、今まで持
つておつたところの
權利義務がなくな
つてしまう。大變なことであります。ところが、私の要求するのは、積極的平等にしなければならんというのであ
つて、從來持
つておる
權利義務はそのまま守る。その上に女にも權利を與える。男にも
義務を負わせる。尚
第三者たる女にも
義務を有せしめるというようにして、
男女等しく權利を有し
義務を負うということの積極的平等でありますから、全然本質は異にしております。
これを前提といたしましていろいろ項目を分けて申述べたいと存じます。
第一は
婚姻というものが從來は因襲的に行われておつたことがあります。そういうような
因襲婚姻であ
つて、どうも本心で結婚が行われておらなかつたから
姦通の行われるという事實があるのは止むを得ないじやないかというような、
公聽會でもそういう説があつた。それは
舊憲法時代の話であります。新憲法は
自由結婚の成立することを初めから要望しておるのであります。
男女兩性の合意のみに基いて成立する結婚を要望しておるのでありますから、そういう結婚の下には從來の因襲的の結婚から生ずる姦淫というものを議論にする必要はない。そういう問題は私は考えなくてよろしいと思います。
公聽會の中にもそういうことはあつた。そこで
婚姻はそういうことに今日以後はなりますから、
因襲婚姻に基く
姦通というものを何とか大目に考えなければならんというような事情のないことを前提とするのみならず、今後
因襲的結婚をする者があつたなれば、それこそ憲法の要望に違反しておるのであります。憲法が要望しておるのであるから、兩性の合意のみによる
婚姻をなすような工合に行かなければならんのであ
つて、その第一歩を誤まつた場合において、今度はそれを
姦通で自分の慰めを得ようということは二重の
罪惡を重ねるということになりますから、そういうことは今後心配する必要はないということになるのであります。
そうして
婚姻によりまして夫婦は協力をして
社會公共のために働くのであります。そうしてこの
婚姻の届出によりまして公認せられたる、それから制約せられたる血統の生殖によりまして民族の
存續繁榮が行われるのであります。それでありますから
婚姻は
國民生活、
國家秩序の基礎であると私は考えます。この制約せられたる血統ということは、これは
證人訊問のときに
安藤博士の述べた言葉を私はここに
使つたのであります。民法で届出をする、それによ
つて公に認められる、そうしてこの
男女の間に
婚姻が結ばれて子供が生まれるということに、制約された血統が定ま
つて、こういうようなことが基礎にな
つて國家が繁榮し、
國家の秩序がそれでできる。
そこで妻の
姦通は性慾のためであります。生殖を欲しないのであります。若し妊娠となれば、今申上げました
公認制約の血統を紊るのであります。夫婦間に子供があれば、その子の教育、名譽を害することは當然であります。
相姦者も又妻を持
つておつたときのことを考えたら、これはいわゆるダブル・アダルタリーということになりますれば、二つの家庭に亙りまして害惡が生ずるのであります。こういう場合において姦婦と本夫と
相姦者と三人だけの問題ではありません。
社會風教を害することは明瞭であります。
民法が不
貞行爲を姦婦と本夫との間の
離婚原因としております。今度の
改正の民法にはそう書いております。不
貞行爲のあつたときには
離婚原因にする。ところが、
離婚原因にする理由はどこにあるか。それはそういう
姦通が行われるような場合においては、夫婦の間に愛がなくな
つておる、和合がなくな
つておる、だから
離婚原因にする。こういうわけであ
つて、決して
罪惡観から來ておるのじやない。それは夫が
姦通罪でない他の犯罪を犯しても、妻の方で我慢をしておればちよつとも結婚は破れませんので、なぜ
姦通のときに
離婚の原因になつたかといえば、すでに愛が缺乏しておる、和合が缺乏しておるからである。それは民法の關係であ
つて、その不
貞行爲が
罪惡なりや否やということはこれは
刑法が定める、これは
刑法の責任です。
第二に、
相姦者の
侵害行爲のことを考えます。
夫婦關係の外から
侵害するところの
相姦者の破壊
行爲、それを考えなければならんというのが私の要點であります。妻の
姦通というのは、内から妻が貞操の
裏切り行爲があるわけです。それは契約違反的の
行爲と申してよろしい。外から犯す
行爲はこれは
不法行爲であります。全然本筋が違う。
そこで
宗教上の
姦淫罪について考えて見ます。
宗教上の
姦淫罪には、色情を懐きて女を見るとき姦淫したるなりというキリストの言葉があります。佛教の戒律にパーラーヂカー(
邪淫戒)ということがあります。これによりますれば、むしろ單に男性が
女性一般に對して、况んや人妻に對しては勿論のことであります、不浄の想いを懸けてはならいという戒めであります。それはすべて
相姦者の側から見ておる、外から犯す人間を戒めておる言葉であります。それから
萬葉集の巻一、ひつぎのみこのみ歌に
「人妻ゆゑに吾戀ひめやも」
という言葉もあります。これもやはり外から人妻故というところの思いを述べておる。併しながら精神的な戀というものと肉慾的な
姦通というものは全然區別しなければなりません。ともかくも妻の
姦通罪というものは外から犯すところの
相姦者たる男性の
婚姻破壞、ドイツではエーヘ・プルフとい
つております。これが
侵害行爲であ
つて それが
不法行爲であります。これい重點を置かなければなりません。
第三に、
對世權侵害と風俗を害する罪、こういうことで申述べて見たいと思います。それは只今申しましたことを
法律學的に説明するとどういうことになるかと申しますと、
婚姻は契約であります。併し
婚姻成立によりて生ずる
貞操義務は
法律上當然の
相互義務即ち
相互權利であります。この
相互關係は
第三者の介入を排除する
絶對權であります。即ち
對世權であります。
刑法は物權とか
身體權とかの
對世權侵害を犯罪としておるのであります。それでありますから、
第三者たる
姦通相姦者の
侵害は
對世權の
侵害でありまして、民法上でも
不法行爲の性質であります。これを
罪刑法から申しましたなれば、
社會風俗を
侵害するのであります。だからこれを風俗を害する罪として
規定するのが當然である。それ場合には
侵害者は男性たると
女性たるとを問わず
男女平等に罪と考えることが眞の
一夫一婦制であります。
そこで昭和二年の
刑法改正豫備草案というものを見ましても、昭和十五年
刑法改正假案におきましても、
姦通罪を
姦淫罪から區別して定めております。
現行刑法は
姦淫罪の中に
姦通罪を入れておる。ところが今申しました昭和二年の案も昭和十五年の案も
姦淫罪から分離しておる。
姦通罪は風俗を害する罪として定めております。これは適當なことであります。今申しましたような工合に
法律的根據に私は合するものと考えます。
第四に、夫の
貞操観というものと
一夫一婦制ということについて述べて見たいと思います。今までは妻の
姦通のことを申しました。ところが男の立場から考えなければならんと思います。これで
多妻制度(ポリガミー)、多
夫制度(ポリアンドリー)、これは現代の
國家では
國民生活の秩序として許されません。
歐米諸國は
キリスト教の
一夫一婦制であります。
ソ聯邦は
姦通を犯罪としておりません。併し
一夫一婦の國で
キリスト教國であります。いかに
國民一般に
キリスト教の
宗教信念が浸透しておるかということは、先程申しました
復活祭パスハの場合に私自身が實見したことで十分御了解できると思います。
英國はやはり
一夫一婦の國であります。曾ては
離婚は許されなかつたことは先程申した通りであります。コモン・ローでは
姦通を犯罪としておりませんけれども、併しながら
イギリスは政治と
宗教の合體した國でありまして、
宗教上は
姦通を
罪惡としておる。ロード・コークの述べておるところによりますれば、昔は
姦通は
法律上犯罪としておつた。コモン・ウエルスのときに
男女平等有罪の
成文規定があります。これはレストレーシヨンに時の行われなくな
つたのであります。
それから佛、獨、伊、
スイス等の國、又
北米合衆國の諸州は一般に
一夫一婦制男女平等有罪制であります。
ところが、アジアの囘教國、
儒教國中華民國は
一夫多妻制の國でありまして、
中華民國は書經の堯典を見ますと、堯が二人の娘を舜に嫁せしめるという記事があります。これは
一夫多妻制であります。禮記の曲禮には、天子に后あり、夫人、世婦、嬪、妻、妾あり、公侯は夫人、世婦、妻、妾ありとありまして、
一夫多妻制であります。ところが今日の
中華民國の
刑法には、
姦通を
男女平等有罪としております。
一夫一婦制を確立しておりまして、全然
性道徳は革新をいたしております。
取殘されておるのは日本だけであります。日本の古事記にある
伊弉諾、
伊弉册尊は
一夫一婦制であります。ところがその後久しきに亙りまして儒教を道徳の基準として來た、そのために、
一夫多妻制であります。殊に日本は男系の男子を相續人とする
法規慣例がありましたから、
一夫多妻制が段々行われてお
つたのであります。
そこで
刑法の沿革を調べて見ますというと、明治三年の新
律綱領に五
等親圖というものが掲れられております。一等親は夫、子。二等親は妻、妾。三等親は庶子とあります。これは明瞭に
多妻制であります。又
犯姦律には、凡そ和姦は各各杖七十、夫ある者は各各徒三年、夫ある者というのは妻と妾であります。又明治六年の
改定律例の犯姦の
規定第二百六十條には、凡そ和姦、夫ある者は各懲役一年、妾は一等を減ずとあり、
一夫多妻制であります。又明治十三年の
刑法即ち舊
刑法では、妻の
姦通罪の
規定はありますけれども、妾の
姦通罪の
規定はありません。そこで明治四十年の
刑法即ち
現行刑法では、妻に對する夫の
貞操義務を定めていない。妻だけは
姦通罪があり、夫の
貞操義務は
法律上定めていない。
義務はないのであります。これは
法律上のことを申すのでありまして、道徳のことを言うのじやありません。
大正天皇崩御のときに、米國の雑誌、カーレント・ヒストリーと思いますが、それに崩御せられた
大正天皇は曾てなき
一夫一婦の天皇であつたという記事がありました。私はそれを讀んだとき或る感に打たれました。
新憲法に伴いまして、先ず
皇室典範は
改正せられました。皇位を繼がせられるのは嫡出に限ると定めたのであります。これは
開闢以來の
改正であります。皇室においても
嫡出本位ということで純潔ということに力が入れられておる。これは議會を
通つたのであります。
衆議院、
貴族院みなこの趣旨に贊成し私は
皇室典範の
贊成演説に、
貴族院本會議においてその點については力を入れて申述べております。新憲法は民法、
刑法の
改正につきましては
性道徳の
革新一夫一婦制の確立を要望しておると思います。これはどうしたらいいかというと、
刑法を
改正しまして、
姦通男女平等有罪制とする外に適切な方法はない。これが一番適切な方法であります。
第五に、
一夫一婦の根據について考えて見ましよう。ショペンハウエルの
婦人論(イーバー・デイ・ワイバー)にこういうことを
言つております。自然が男性を體格、
理性等で女性よりも優れたものにしておるから
一夫多妻となる、又それが正しいのであると
言つております。併しながら今日の遺傳學の教えるところでは、
男女の遺傳子は同數であります。遺
傳現象に優性、劣性という正別はありますけれども、遺傳力は
男女平等であります。
男女は大體に於て同數でありますから、數を基礎とする
民主主義の政治においては
一夫一婦制が正しいと思います。
第六に、罪と罰との意義と
姦通罪存置の價値を考えて見たいと思います。
罪と罰とを
規定しておる
法律を日本では
刑法と
言つております。何故それを罪法と言わないのかというのが私の疑問であります。フランスではコード、ペナル、ドイツではストラーフ・ゲゼツ、(
刑法)と言います。併しながら元來罪を掲げて、罪の認識、反省によ
つて、實際は犯罪のないようになる、刑に處せられないというのが目的でありますから、私はむしろ英米のごとく罪法といつた方がいいと思う。クルミナル・ロー、クリミナル・コードと稱する方が適當と思う。尤もアメリカでもカリフオルニア州ではクリミナル・コード(
刑法)という文字を使
つておりますが、これは例外的と見ております。
それからロシアでは罪「プレストウプレーニエ)と罰(ナカザーニエ)というものを
規定する法典をウゴローヴヌイ・コーデクスと
言つております。ウゴローヴヌイ・コーデスクというのは罪法ということであります。罪に對しましては社會防衞手段というものによ
つて罪を排斥することにな
つておる。そうして刑罰というものが社會防衞の一つの手段であるとしておる。
ところが、先程申しました日本の
刑法の假案とか豫備草案というものはこの思想を採り入れてお
つて、いろいろなことが書いてありますことは、これは皆さん御承知の通りであります。これは
刑法の立て方としては、ロシアの
刑法が一番進んでおると思います。日本の假案にもこういうのがあります。第十五章に百二十六條というのがありまして、これは假案でありますが、「保案處分ハ左ノ四種トシ裁判所之ヲ言渡ス、一監護處分、二矯正處分、三勞作處分、四豫防處分」、こういうことが書いてあります。これは全くロシアの
刑法と形を大體同じくするようなものであります。これは餘程進歩した考え方であります。一々監護處分をする場合には監護所というものに入れる。それから矯正處分をするときには矯正所というものに入れる。勞作處分をするときには勞作所に入れる。豫防處分をするときには豫防所というものに入れるという工合に、非常に進んだことを日本の假案なり豫備草案に書いてございます。ですから私はロシアの
刑法の立て方というものは參考になる價値があると思います
そこで日本の大祓の祝詞にはどういうことが書いてあるかといいますと、「天津罪、國津罪」「祓ひ給ひ。清め給ふ」ということが書いてありますけれども、罰に處するということはありません。刑罰は過去の反社會性の不正
行爲、それに對する糺彈制裁ということになると共に、將來起るところの不正
行爲のないようにということ、それに對する威嚇的の力、鎭壓的な力、それから社會がこれからいろいろな犯罪などが起るということになる惡傾向を防止するという意味においての社會防衞手段、これはロシアの民法に書いてあることと同じであります。刑罰はやはり社會防衞手段であります。
ところが、刑のみを見てはまだ足りないというのが私の議論である。更に
刑法というものをみますと、その
刑法に罪が書いてあるということだけを見て、刑の有無、輕重まで考えない。
刑法の罰と書いてあるということだけを顧みて、反省警戒して、これを犯さないということが、私は犯罪の
規定の道徳上の法として考えられる效果であると思います。それを
姦通については考えなければならんというのが私の考え方であります。
そういうわけでありますから、誤
つて罪を犯しても、改悛すれば、刑罰は無用であります。だから現在の
刑法でも刑の免除、執行猶豫などの制度のあるゆえんであります。凡そ
國家秩序を破壊する作爲、不作爲は、罪として網羅して掲げるのが整つた
罪刑法であります。
罪刑法というものを作る以上は、罪というものを數えてそれを網羅するのが整
つて刑法であります。かかる
行爲は犯さない。こういうような工合に罪として掲げられておるが、かかる
行爲は犯さない。たとい
刑法では罪としない
行爲があ
つても、
罪惡感が非常に浸透してお
つて反省するということが、道徳標準を高くする所以であり、それは私は歐洲のいろいろな深く考えた小説などにおいてそういうことを考えさせられます。例えば、僅かな罪に對する過大な刑罰の影響をユーゴーはレ・ミゼラブルで説いております。ジヤンバルジヤンにおいて説いております。いかに罪刑の關係について考えたかということを我々は考えさせられます。それからドストエフスキーの「罪と罰」(プレストプレーニエ・イ・ナカザーニエ)というものは、罪と罰との複雑深刻なる關係を書いております。それからトルストイの「復活」(ヴオスクレセーニエ)、これは
罪惡の反省を教えております。こういうわけでありますから、以上の趣旨によりまして、
刑法に
姦通罪の
規定を存置しなければならんと私は思います。
それで、貞操について
罪惡感を深刻にし、反省警戒することを私は願うのであります。そうして誤
つて犯しても、刑罰は輕くする。情状によ
つては刑は免除するということにしなければならんということを主張するものであります。
第七に、
姦通罪廢止の社會的影響というものを考えてみたい。我が國の社會現象を直視しますときに、
姦通行爲を
刑法から取除いてしま
つて解放してしまうという理由を私は發見することができません。憲法と異りまして、
刑法は現下の實情に適切なる
規定を必要とするところの、日常の現實法であると私は考えます。理想を掲げるものではありません。憲法は理想でもよろしい。併し必要に應じて
改正すればいいだろうとい
つて輕率に
規定することはよくありません。愼重に書くけれども、時の變遷によ
つて變える。これが
刑法であります。一番初めに申上げましたごとく、戰爭の放棄とこれを一緒に考えるとか、將來はすつかり
刑法はなくな
つてしまうのだから一足飛びに
刑法も止めてしまおうじやないか、というような議論をしたらこれは笑うでしよう。
刑法というものがないことは人間の理想でしよう。併しながら現實は許しません。現實を見なければならないと私は思う。
刑法を論ずる場合に、空のことを考えてお
つてはいけない。現實を見なければならん。これが私の要望するところであります。
日本は從來
一夫多妻制であつたことは、先程申上げた通りであります。漸く眞に
一夫一婦制確立に到達せんとしておる大事なときであります。一方において妻の
姦通は古から
法律上の犯罪であります。今これを
刑法から解放してしまう。これは
法律的に見ますと放任
行爲ということになる。
刑法の學問をする者は有責不法の
行爲、放任
行爲、權利
行爲と三つに分ける。今度は放任
行爲になる。
法律上の放任
行爲である。そした場合に、日本の現状では世間にどういう影響があるかということを深く考えなければならん。これは私は政治家の責任であると考えます。輕率にやるべき問題ではない。若しこれが放任
行爲になつたときにどういうことになるかというと、道徳上でも……、
法律じやありませんよ、道徳上でも、
姦通勝手次第になつたような感を一般社會に與える虞れがあります。なぜかと申しますと、
法律の
規定は同時に道徳
規定として尊重されておるのでありますから、餘程これは考えなければならん。
それからその次には
宗教的制裁が日本にどのくらい行われておるかということを靜かに考えなければなりません。先程申上げましたごとく、英米のことを申上げますと、私共がアメリカにおつたときの經驗を申しましても、國會の開かれるときに儀式がある。それは祈祷で始まる。始終
キリスト教というものと一致しております。政教は分離しておりますけれども、必ず神の信仰ということが伴な
つておる。新教、舊教といろいろ派はありますけれども、一つの
キリスト教というものに一致しておる、だから
法律がなくても道徳で
姦通のごときものは制裁することができます。
併し日本はどうでありますか。
宗教的制裁としても、
一夫一婦制の貞操觀念が英米のごとく一般的に存するに至
つておりません。例えば佛教で申しますと、僧侶の戒律、先程申しました
邪淫戒というものは僧侶の書いたものであります。それは前述の通りでありますが、俗人の
邪淫戒というものを字引などを引いて見ればすぐ分りますが、
邪淫戒というのは夫又は妻妾でないものと淫事を行なつたはいけないというような戒めであるということが書いておる。すでに
一夫多妻を佛教の字引それ自身が認めておるのであります。こういう状態であります。その上に、日本には
キリスト教もあればその他多くの
宗教がありまして、
性道徳に對する
宗教的制裁というものは歸一しておりません。
國民道徳はもう
刑法を基礎にする外ありません。
尚考えなければならん問題があります。それは敗戰後道徳低下、風紀弛緩を我々は憂えておるのであります。その今日に
姦通罪を廃止するということは、
國民の
性道徳の低下を助長することになるのではないかということを私は非常に憂えるのであります。
第八、
男女平等有罪性と刑の量定と、いうことについて申上げて見たいと思います。
現行刑法は妻の
姦通行爲と
相姦者の相姦
行爲を犯罪とするが、私は夫の
姦通行爲も、
相姦者たる女性の相姦
行爲も共に犯罪としようとすることを主張する者であります。而して刑罰は、現行
規定は二年以下の懲役とありますが、これを三月以下の懲役又は五千圓以下の罰金に處せんとする者である。そうして「情状ニ因リ其刑ヲ
免除スルコトヲ得」とするのであります。そうして親告罪といたします。そうして
婚姻の解消又は
離婚訴訟提起後たるべきことは
刑事訴訟法第二百六十四條に
規定してあります。それはやはり明文が存在するのでありますから、この
姦通について列法上の親告をするときには
婚姻がなくな
つてしま
つているわけです。それは前提條件です。これは現行の
刑法には書いてありませんが、
刑事訴訟法にはある。そこで
姦通を縦容したるときは告訴することを得ざることとする。これも現行の通り。
そこで
罰金刑をなぜ選擇刑として加えたかということをお考えを願いたい。それは男と女は違います。いろいろ事情に即した差違を設けなければならん。そこで夫の
姦通の場合には、どうも今までは妾を置くということが一つも犯罪でない。妾になるということも犯罪じやない。ですから今度は
刑法がここに改ま
つて、
性道徳の革新を叫ぶのであるというときに、それが直ぐ徹底するかどうかということも考えなければならん。そこで夫の
姦通には、場合によ
つては事情もよく考えて、そうして從來はいろいろな因習もあるから、輕微なものがあるということも考えなければならん。それでありますから、
罰金刑というものを入れるのであります。それじや
罰金刑だけでいいじやないか、幾らか金を積めばよろしいというような人が出て來るから、そこにやはり懲役を附けておいて、そうして裁判官の方でよく事情を見て判断すべき筈であるから、それで罰金は二十圓から科することは一向差支えない。それは先程申しましたように、罪ということを認識することが大事である。非常に大切である。それのみならず、「刑ヲ
免除スルコトヲ得」と書いてありますが、なぜこういうことを書いたか、これはむしろ妻に關して考えなければならん。何とい
つても妻の經濟力は十分でない。幾ら憲法で平等にしても、婦人にはそう男通りのことはできません。それでありますから、妻が
配偶者から遺棄されるようなことがあつたり、その他いろいろな事情で夫婦が別居している。もう殆ど離れているというようなことがあります。それで夫が死んだかも知れないということがある。それはこういうことが
公聽會の際にも事例として話された。夫がないものと思
つて、新らしい男を聟に取つたが、今度は夫が歸
つて來て、いろいろなむつかしいことでやかましくなつたということもあります。そんなようなことで、事實上
夫婦關係が斷絶しておつたというような後に、いわゆる
法律上の
姦通というものを考えることも必要だと思います。そこで只今申上げましたような場合は、これは犯罪にはならんと思います。これは事實の認識がないから、夫が死んでしまつたと思
つて、確信している。それはいろいろの場合があると思います。獨身の人と考えてやつたということもありますから、これはそのときの模樣で、刑の量刑の範圍を廣くして置けばよろしい。これは新らしい
刑法では、刑の量定の範圍を廣くして、裁判官に適當な判決をして貰う。今度の
改正法にはこういうことが澤山あります。この思想で私の案はできております。これは適當であると思います。そこで
罰金刑は五千圓以下と決めておりますが、今度の
改正の
規定によりまして、五千圓以下の罰金は執行猶豫になる。それから刑の免除の言渡しをすると、その言渡しを二年經過するときは言渡しが效力を失うということになる。親告罪としたのは、これは
男女の貞操觀の問題でありまして、自分の方が却
つて姦通罪の適用によ
つて困るというような場合がありますから、貞操罪に對してこの點をはつきりした。これは現行法と變りありません。
それで第九には、告訴の成行きがどういうことになるかということを考えて見ますと、
離婚の訴えをすると、裁判所は一切の事情を斟酌して、
婚姻の繼續を相當と認めるときは
離婚の請求を却下するということが今度の民法の
改正規定八百十三條の第三項にありますが、できるだけ
婚姻の繼續を希望するという態度を裁判所がとるわけであります。それだから、結局
姦通罪の告訴の事實が行われないで解決するだろうということも考えられるのであります。それから親告があ
つても檢察官は不起訴とすることができます。そこで檢察官、判事の介在によりまして、時の經過によ
つて、冷靜な事態に落ち著きますか、或いは
公聽會で述べられておりました、執念深い變態心理的の告訴をする者があるから、そのために
法律を
規定する、
姦通罪の
規定を置く必要がないじやないかという御議論がありますが、そんなことで
國家機關が愚弄されるということはありません。今申したように、冷靜にな
つて靜まるということ、
國家議關はそんなことでどうこうされることはありません。それで恐喝などに濫用されることは防ぐことができます。それでありますから、
法律が愚弄されるということはありません。ところが、よくこういうことを言う人がある。どうも
姦通の問題は、折角骨を折
つてや
つて見たけれども、途中で取下げられる。それならそれで結構である。そのときまでの
國家機關の介在というものは決して無駄でない。自分が關係したから、それをはつきり決めなければならんというようなことで裁判官が仕事をしているということは、これは採るべきことでない。裁判官が中に介在して、冷靜になつたときに任務は終つたものと私は考えております。
第十に、個人の尊嚴と、
刑法尊嚴ということについて考えて見ましよう。こういう議論があるわけです。
姦通罪の
規定というものは、個人の尊嚴を傷つける。そんな
規定を置いたら個人を侮辱するものである。
國民侮辱である。こういう議論が果して正しいか。そういう議論をしたならば、強姦罪とか、親殺しの罪とか、窃盜罪等もいかにするか。
國民の尊嚴を害するであろう。
國民がそういうことをやるものであるということ、そういうことがあるかも知れないということを書いてあるわけですから、それは個人尊嚴の問題でない。
刑法そのものを否認するものである。先程申しましたように、
刑法はどうしても存在をしなければならん。
刑法そのものを否認するという議論は、
法律論として成立たない。元來
刑法というものは何かというと、個人の尊嚴を傷つける
行爲を犯罪として
刑法が掲げている。それが
刑法である、それはむしろ目的である。それを書いたから、個人尊嚴を害するというようなことは、これは
法律論でない、乃至は常識論でもありません。
それから
性道徳については、
刑法の
規定が勵行されない憾みがあるから、却
つて刑法の尊嚴を害するという議論がある、折角書いた以上は勵行されなければならんじやないかということを申しますけれども、
國民行爲の規律として一般的に遵守されれば、法の目的は達せられるのであります。それは先程來申しましたごとく、罪ということの認識を深刻にすることが要點であります。それでなければ
國民は反省しない。我々がよくないということを考えるのは、我々が
罪惡觀念が深刻であるからである。それだから、遵守されなくても、反省があればそれで
法律の目的は達成できる、こう思います。
第十に
宗教と
法律と道徳ということについて考えて見ましよう。簡單に私は考へます。完教道徳というのは何を戒めておるかというと、物慾、性慾、名譽慾を貧るのが
罪惡であるということを戒めておる。そこで凡そ
男女の存する以上、
宗教上の
姦淫罪、キリストの言われておるように、
宗教上の
姦淫罪というものは、これは人間社會からなくなるということはないでありましよう。併しながら貞操純潔を尊ぶ觀念は永久に人類が有すべきものであると考えます。それですから
罪刑法律の中に
姦通罪の
規定を置いて、それは
國民反省の道徳のものとして考えなければならんと思います。
國民おのづからその法を超えない。醇風美俗、道義日本の確立を期せられんことを私は念願するのであります。
これが私の大體の趣旨であります。
その他いろいろなことを私は想像をせしめられるのであります。經過現象としてこういうことも私は想像しております。
第一として經過現象、
男女平等、無罪制となりまして、
刑法上の
姦通が公認
行爲であつた場合にどうなるかということを考えて見ると、今度の民法が
改正案の通り通りますというと、民法の第七百六十八條というものは削除されております。これは昔から
姦通をした後にはその
相姦者の間の結婚はいけないということは昔からの掟です。
姦通をした後の結婚を禁ずる、姦後禁婚の掟というものはなくな
つてしまう。それは私はなくな
つてもいいか知れませんけれども、併し
姦通罪がなくなつたという場合には、妻の
姦通の
相姦者は、妻の
離婚後は適法に結婚することができるのです。私は
姦通の反社會性というものがこれは薄弱になると思います。これは私は考えなければならんと思います。
次に
男女平等有罪制とする場合にどうなるかという問題ですが、これは從來妾を持
つておつた男性がありましよう。それはやはり妻を持ちましよう。妾を持つ男性、妾となる女性、これはどういうふうになるだろう。これは私は極く簡單に無事に解決するのじやないかと思います。それは妻の縱容を、承認を得ればよろしい。恐らく私は日本の
一夫一婦制にな
つておるというところは、そういうところで別に私は經過の歩みができておると思います。
もう一つの問題は、民法で庶子の認知ということがある。これは私は民法の
改正案のときにも質問したのでありますが、認知というのは一體何かということを考えますと、これは子供を生むために妾を置くということです。大體の目的は繼續して子供を生むということでありますから、その生れたということと、認知するということは、これは
姦通を自白しておるものです。繼續
姦通の自白であります。ところが、默
つておればそれは犯罪であるから、それでは大變ですから、そこで認知するときには必ず妻と想談しましよう。それは民法の
規定にもあります。認知の場合には妻と相談してやるのでありますから、相談するということは、これで妻の承認を得ております。
法律上認知ということは
姦通罪の自白であります。併しそれは民法自身は認知のときに夫婦相談しろという民法上の
規定でありますから、妻の承認を受けるということで濟んでしまう。結局どうなるかというと、
離婚もありません、告訴もありません、處罰もありません。併しながら妻の承認を得るということそれ自身が、貞操觀念が漸次私は強くなると思います。
第二には實踐標準の向上ということを私は考えて見なければならんと思います。無罪制では
法律上の道徳は低下します。
法律上それはや
つて惡いということにならないのですから、
法律上も道徳上も低下します。
有罪制とすれば高くなる所以です。なぜかといえば、今度は夫に責任を認めるのでありますから、今後は
男女兩性の交際を自由にさせなければいけません。そうして
婚姻は兩性の合意のみに基いて成立するようにしなければいけません。そうして
一夫一婦制を確立するということが必要でありますから、結婚した後の問題です、結婚して
一夫一婦制で固くお互いに協力して行こうじやないかということにどうしてもならなければなりません。そうするにはどうしても
性道徳の實踐ということにならなければならん。
刑法で
姦通を放任して置きながら實踐
行爲の高いことを期するということは無理である。
法律も高めて行
つて、實踐
行爲も上げるということでなければならんと思います。
それからこういうことがあると私は思います。
姦通罪を無罪にするという場合のいろいろな議論の中に想像しなければならんのは、
男女平等有罪制尚早という思想があると思います。今日は妾を置くことも自由である。妾になることも別段
法律上惡いことじやない。ところが今度
有罪になるということになりますと大變である。どうも妻の
姦通はこのままにして置く方がよいように思う。併し夫が罰せられたり、妾になることが罰せられたら、これは大變ですから、現行のままにして置きたいんだが、どうも憲法の建前上いけない。一そのこと無罪にしてしまうという意味の無罪論があると思います。これはどこに濳在しておるかというと、これは男が罰せられ、妾になることが
有罪になるということが尚早であるという思想です。まだ早いと、こう言うんです。その尚早論は、結局或る意味においていうと、當てずつぽという議論になる。道徳は低下します。そういう議論はいけない。そういう頭が濳在しておるということは、これは餘程考えなければならんと思います。
又こういうことを申すのもあります。一體妻の
姦通の場合に、夫に過失がある。夫の愛の缺乏である。夫に
告訴權を認めるのもおかしいじやないかということもあります。併しそれは私は先程申しましたように妻の關係だけ考えます。夫と妻との間がしつくり行
つていないからとい
つて、外から出掛けて來て女を唆かす、そういうときは男が合理的であるが、
相姦者の
侵害行爲というものはどうしても
罪惡であるということを私は深く信ずるのであり、且つこれはどの方面から見ても、その惡いということは誰でも認めておる。
罪惡であるということは誰でも認めておると思います。
罪惡であるけれども、
法律に書かない。どこで
罪惡ということがはつきりいたしますか、そういうことを考えまして、
姦通罪は
男女平等の
有罪にすべきものである。そうしてこれを取扱う場合においては、これの量定についで細心の注意を拂うべきものである。
以上の趣旨を以ちまして修正案を提出したのであります。