○國務大臣(鈴木義男君) 基本的の問題は
只今総理大臣からお答えいたした
通りでありまして、もしこの表現が十分でないということてありまするならば、これはある
意味において日本語の言葉の使い方のむずかしいという問題に帰すると思うのでありまするが、併しほぼ世界的に定ま
つておる
解釈の基準というものがありまして、
法律の社会化或いは
権利の社会化ということは、曾ての絶対
私権尊重
主義の時代から近代
國家に移りまして、殆どどこの國でも、決して社会
主義の
國家に限ると申すわけではありませんが、資本
主義の國でありましても、
修正資本
主義であれば尚更、
私権絶対
主義を維持しておる
ところは先ずないと申して
差支えないと思うのであります。その
意味においてこの第
一條の
私権は「総テ
公共ノ
福祉ノ爲メニ存ス」という表現を、ただ單に全体
主義の考え方であり、そういう表現であると解することは万なかろうと存ずるのであります。
私権自体は
権利者の利益のために認められるものであることは勿論であります。
権利者の利益を離れて
私権はないのであります。併しその
私権がいかに
行使されるかということは、例えばその最も基本的な制度でありまする財産制度というようなものを考えてみまするならば、是認される
根本的
理由の
一つは、それが
公共の
福祉のためになるからであると考えられるからであります。そして
私権は常に
公共の
福祉のために利用されなければならないということは
憲法十二條の明示しておる
ところでありまして、
私権という言葉の持つ感じと、在來の
権利思想と相俟ちまして、とかく從來自己中心的に、利己的に考えられ易か
つたわけであります。財産権というものは神聖不可侵な
権利であり、フランス革命が謳
つた財産権というものは確かにそういうものであ
つたのであります。かるが故に
私権というものは絶対であ
つて、冒すべからざるものである、自分の
権利である以上は、それを
行使しようが
行使すまいが自由である。故に非常に人口が多くして耕作面積が少くて困
つてお
つても、何十町歩、何百町歩の土地でも、先祖から讓り受けて自分が持
つておる土地である、なぜそれを開墾もせず、或いは耕作もせず、放
つて置くかと言われても、
私権の城壁に立籠
つて余計な干渉は要らん、
行使することも
行使せざることも自由であるというような
趣旨に從來解せられてお
つたことは申すまでもないのであります。これがやはり引続いてそういう
解釈が行われる。新
憲法の下におきましては断じてそういう
解釈はいかなる
私権につきましても許されないと私共は考えるのでありまするが、間違
つたそういう
解釈をとる者がありますれば困るのでありまするから、
民法第一篇、第二篇、第三篇は物権、
債権等につきまして、まだ
根本的な
改正を行な
つておらない現状におきましては、古い考え方の下に
解釈をやるという虞れがあると思うのでありまして、これを避けまするために、全体を通じて流れる
根本観念といたしまして、司法の基
本法でありまする
民法の劈頭に
規定を設けまして、
私権を認める
根本的な
趣旨を明らかにしたのがこの第
一條の
意味であるのであります。
勿論経過的には、これは
司法法制審議会におきまして、新
憲法の
精神に副うて、いかにこの
私権の
規定を定むべきかという
審議を重ねられました結果、かくのごとき表現を用いて
私権の
意味を明らかにして置くことが正しいということに決したのでありまして、
政府もこの点に同感であります。賛成をいたしましたるが故に、この
審議会の原案を採択いたしまして、提案をいたした次第であるのであります。
全体
主義であるかどうかという問題は、やや概念の爭いになる虞れがありまするので、私は避けたいと思うのでありまするが、
私権というものを認めておることそれ
自身が、すでに
個人の
権利を十分に尊重しておるのでありまして、ドイツのワイマル
憲法においてその
民法の
原則を採入れられましたが、所有権は
義務付けられる、アイゲン・チューム・セルフフリッヒテットという
規定が設けられたときに、人々は奇異の眼を瞠
つたのでありますが、所有権は即ち
義務である、
権利は即ち
義務であると、簡潔な言葉によ
つて言い直せば申すことができるのであります。
義務付けられたと申せば一層適切でありますが、そういう表現がどうにも取れるようなものでありますけれども、この
規定を以て、所有権は
義務そのものであると受取る人は決してないのでありまして、先ず非常に強力な所有権というものが尊重されておることが前提にな
つて、これを
行使するには常に
公共の
福祉に副うように
行使されなければならないということを、セルフフリッヒテットという簡單な言葉で表現したものと思われるのでありまして、ここにおきましても
私権がすべて
公共の
福祉のために存するということは、
解釈いたします場合には、
私権の絶対的な尊さを先ず認めて置いて、併しこれが常に
公共の
福祉のために
行使せられることを期待する、こういうことを
意味することは何人が
解釈をいたしましても、しかく誤解が生じないのではないか、こう
政府といたしましては考える次第でありまして、この
通りの表現で
差支えないのではないか、
從つて見逃がしたというわけではないのでありまして、私は
司法法制審議会以來の
審議の経過、
憲法の
精神、言葉の持ちまする
意味を十分に考えた上で、これは適当な表現であると信じて御提案いたした次第であります。御了承を願いたいと思います。