○松澤(一)委員 大變抽象的で、だれも
畜産局長になれば、そのくらいのことを言わないと
畜産局長に見えないのでありましようけれども、こう私はあなたに御
質問します。
日本の農業經營で、一戸の農家として牛を五十頭も三十頭も飼える農家は、
日本にはありません。もちろん北海道とか、その他特殊な地方へ行けば、牧畜專業の地方も多少あるのでありましようが、
日本の農山村において、一戸の家で牛五匹、十匹すら飼う家はない。大
家畜を農家に
當然一匹ぐらい飼わしたいと思いますが、これも不可能である。場所によ
つては一村で指を折るぐらいしか、大
家畜は飼
つておりません。その大
家畜を飼う農家は、大概自給
飼料でや
つております。この
飼料公團は、都會で鷄を飼
つたり、あるいは特殊の牧畜業者、あるいは特殊の酪農、百姓をしないで乳牛だけ飼
つておる、こういう人たちに
飼料を
配給する
公團だ。八分
通りこう
考えていいか。もちろんほかのところへもやるのでありましようが、そういう
公團と見ても差支えないと私は思うのでありまするが、あなたは
日本の將來の有畜農業は、こと重大で
農林大臣でなければ
答辯できないと言われる。いやしくも
日本の農林省の
畜産局長が、
大臣でなければ
答辯のできぬような畜産行政をも
つていて、よく今まで勤められたと思
つておる。私の同僚は今豚に砂をくれる研究をしております。砂と草をくれると、普通の
飼料より三倍の目方をもち、三箇月にして少くとも五十貫の豚ができ上るという研究をしている者がある。民間では今日の
日本の
食糧事情、畜料
事情の窮迫について、このくらい
考えて、有畜農業について非常な關心をも
つておるときに、莫大なる豫算や、莫大な職員がいて、今日まだ
日本の農業
家畜行政が成り立たぬと言
つたのでは、私は一體今日の
日本の
食糧事情や、將來の
日本をどうも
つていくのか、農林省を疑わざるを得ない。もう
一つ言いますが、
日本では全體を通じて大
家畜、牛や馬を飼う農家は、ほとんど指を折るほどすらないと見て差支えありません。それで一般農家はみんな
家畜を飼
つておるかというと、あなたの方の統計はどうかしらぬが、われわれの推定の統計によると、もちろん杜撰極まるものでありましようが、その七割は一羽の鷄すら飼
つていない農家が多いと私は見ております。この農家にめんようが一匹、やぎ一匹、あるいは鷄一羽を飼わせるという畜産行政が、ここになければならぬ。ただそう思
つておるということでなくて、實行は農水省にあるのでありまして、われわれ農民は今日では化學肥料にのみ頼
つていられない。ちようど戦争中から戦争後における
日本の化學肥料の
不足は、農家をして非常に有畜農業熱を高めて來た。御
承知の
通り、めんようが一匹子で五千圓、七千圓、あるいはやぎが三千圓、四千圓、あるいは小さな牛が一萬圓、二萬圓もしている現情を見るときに、いかに農家が有畜農業に關心をもち出してきているかということがわかると思います。私はこの
飼料の問題で、有畜農業に關連しているから言うのでありますが、今まで
飼料の
統制組合は、御
承知の
通り酪農組合という大資本家がこれを經營したり、
統制したりしていたのでありますが、
飼料のリンク制で、農民が一生懸命に牛を飼
つて乳を搾れば、みんなそういう人たちに搾取されてしまう。いろいろなやみ取引でも
つて飼料を手に入れる。
政府はこういう商人に公定でものを渡しておきながら、われわれ消費者の手に渡るときは、やみ價格で渡
つてくる。また姿は變り、形は變
つてもきても、そういうやみ
公團をおつくりになることを思うと、何という農林省というところは資本家の巣窟で
ほんとうに農林行政のできないところだと、私は思
つておるのでありまして、今現に小
家畜に鹽の
一つまみも
配給してないじやありませんか。せめて自家
飼料で飼
つておるところの農家に鹽の
一つまみも時に
家畜のために
配給するのなら、まだ深切心があるのだけれども、二、三年このかた、小
家畜に對する鹽の
配給すらもしてくれないという
現状がよくわか
つておる。その一方、大
家畜の乳牛、酪農等には、多少でも
飼料がはい
つてくる。そうしてそれからバターがとられ、いろいろなものがとられておるのでありましようが、そのバターやその他が、われわれの手に少しもはい
つてきたことはありません。もちろん生産も少量でありましようが、それでも一村に一ポンドぐらいのバターが
配給されたというようなことを、まだ承
つておりません。但しやみで買えばどうにか手にはい
つてくる。こういう
現状を見るとき、どうか農林省は
飼料公團をつくる上に、少くとともあなたは
畜産局長として、
日本の將來の農業經營の、畜産という問題に重大な關心をも
つてもらいたい。ただいま申し上げた
通り、
日本の農家は多くは小農で、大
家畜を自家
飼料で買うだけの力はありません。從
つて小
家畜の分散飼育以外に、多量の
家畜を飼うということはできない。もう
一つのめんように至
つては、農村工業の一助にもなる。五百戸の村で一戸が一匹ずつめんようを飼う。もちろんめんようというものは群棲するので、一匹ずつ飼うことがいいか惡いかは別として、一匹飼うこととして、五百頭のめんようを飼うことができる。その
家畜から出る毛が、農閑期の農村工業としていかに役立ちになるかということは、私が言うまでもないと思うのでありまして、もし一人が三百頭、二百頭という
家畜を牧畜するとしたら重大なことで、なかなかでき得ることではありません。今日では私たちはむしろ
飼料公團などというものを無視しております。
政府はなぜこんな無用の長物のものをつくるのに、國會にこれだけの人を集めて、こんな
議論をしなければならぬか。もし一
部分の特殊な酪農、あるいは牧畜業の人、あるいは都會における鷄を飼
つておる人に、
飼料をやるというならば、農村に全部
飼料をまわして、そうして基本的經營の人に農村から高く賣
つてあげる。そういう仕組にするのならば、私も納得いくけれども、
局長のおつしやるように、全體の
飼料などはとうてい思いも及ばぬ。一部特殊な人に
配給する以外にない。あるいは一部特殊の大
家畜に、重點的な
家畜に
配給する以外にない。それすらも今日では
飼料に自信がないと申しております。それとも外國から
飼料を輸入するようなお
考えであろうか。この點も
一つこの際聽いておきたいと思います。