○
柳田公述人 この
法律案に對しては私は反對はないのであります。ただ御決定に先だ
つて若干の準備期間、研究期間というべきものがあつた方がいいとは思
つたのでありますけれども、これも情勢でありますし、
政治上の
理由もありましようし、今日とな
つては延期説はも
つておりません。ただ順序が逆になりますけれども、これが確立しますると同時に、ぜひともこれに伴うて必要なる準備
方法をした方がほんとうならばよかつたということも、今からもお
考え願いたいと思うのであります。その項目もいろいろございましようけれども、私どもの殊に気にしておりますのは、この
問題に對する社會教育の不十分、いま
一つは社會機關とでも名づくべきものの不完全なことであります。この二つは少くともこの際これを御考慮にお入れにな
つて審議をなさいませんと、
法律はできたが精神は貫徹しないというおそれがなしとしないのであります。
社會教育と申しますと言葉は非常に広うございまして、必ずしも
國會みずからの管掌しておられることばかりではないとは存じまするが、まずも
つてどういう點においてわれわれの
民法が
改正せられるかということは、家はほとんど全部の人間の、全部の
國民の
問題でありますゆえに、すみずみまで、いかなるクラスの
生活をしております人人までも徹底するようにしなければならぬのであります。現在では遺憾ながらどういう
改正が行われたかということを、はつきりとのみこんでおる人は非常に少いように
感じます。ひ
とつはもちろん表現のむずかしいためでありまして、これは國語の改良が前提でありますから、一朝一夕にはいくまいと思いますし、殊に今回の法案は、拝見してみますと、實に穏健な表現
方法であるし、委曲を盡しておりまして、先ず注文としてはよい方に屬すると存じますにもかかわらず、われわれのごとく多少經驗ある者が拝見いたしましても、そつくり頭に入れるためには、かなりの
努力がかかるのであります。ましてやいわゆる素人がどの點が變
つたのか
考えるときには、法案についてそれを知ろうとするものはないのであります。多くの場合は人がこれを紹介する。要點を人から話されのに基いて知るのでありますから、これが今日まで數箇月間、
問題の起
つてから數箇月間、新聞、雜誌その他公の機會において話されておるのを聽いておりますにもかかわらず、言い方が非常に強すぎるのであります。詳しく法文を見たならば、かなりの用意をも
つて書かれておるような條項までも、要點を摘んで話そうとなると、親の承知を得ないで
結婚してよいのだと、それだけならばよいのでありますが、ときのよると、親の意に反して、もしくは親とは全然没交渉に、
結婚の約束をしてよいというふうな
感じを人に與えております。家の
問題といえども同じでありまして、しばしば家が
廢止せられるという言葉を聞くのであります。この家というものが全體どういうものであるかということは、實はまだ
國民多數の者の頭には、はい
つておらないのであります。もちろんいかなる素人といえども、家がなくな
つてしまうと思うのは絶對にありませんけれども、これは今日までの
民法の、いわゆる
法律上の家というものの概念は改まるのであ
つて、新しい概念が起るのだというふうに解釈するものは少ないのであります。今日も午前より若干その
問題が出たように拝聽しておりますが、われわれのも
つております常識の家というものが、一片の
法律によ
つて、なくなるという性質のものではないのであります。ただ
法律をも
つてきめた形、いわば
一つのリミツトであります。そこから行
つてはいけないという垣根が變わ
つてくるのであります。人間があ
つて家がなかつた時代というのは、原始時代にさかのぼれば、あるいはあるかもしれませんが、それからこの方、なんらかの
法制のなかつた時代といえども、おそらく今後といえども、家というものがなくなることはあり得ないのであります。家ということは、要するに、人が集ま
つて同じところに住んで、
生活を共にするということであります。いやしくも夫婦ができる以上は、必然的に
子供ができる。
子供は親が育てるのがほとんど唯一の
方法。現在はほとんど唯一の
方法とい
つてよろしいのであります。親、夫婦が
子供を養うところがなくな
つてしまう気づかいはない、もしくは病、患いをしたとき、怪我をしたとき、疲れて帰
つてきて寝る場所がないという気づかいがない。こういうときは自然
家族というものが集まる。これはあたりまえのことなのでありまして、今度の
民法によ
つて家がなく
なつたということは、家に伴うところの種々なる煩雜なる法規の束縛が解けた、制約がなく
なつたというか、もしくはぜひともしなければならないような義務がなく
なつただけでありまして、大きな改革には違いありませんけれども、この改革がただそれだけのものであ
つて、われわれはこれから新たなる家を興すものであるという
考えを
國民にもたすには、今の社會教育の程度では、たしかに足りないのであります。どうしてかえなければならなかつたかという、目前の立法
理由も説明しなければなりませんが、
法律の
制度が變るたびに變るもの、變り得ないものがあることだけは教育しておかなければなりません。
それからいま
一つは主として新しく今日は家事審判所の
問題になりますが、これと重要さにおいて該當すべき種々なる機關が今日まで足らないために、非常に弊害があつたけれども、とにかく今日まではあるいはなくてもよかつたかもしれないところの、いくつかの機關が必要にな
つてくるのであります。私は
婚姻の
要件という
問題について
お話しようと思いますので、主として實例をそちらにとりますが、かりに親たちが今度の
法制の改革の精神に鑑みて、お前たち
結婚しなさい。お前たちで選擇して
結婚しなさいとかりに言つたとする。
子供は當然である。義務であるといつたような
考えをも
つて、自由に選擇をしようとしましても、現在はたしてその選擇ができるでありましようか、どうか。これから
考えていかなければならない。現在としましては、ほどんどこれを世話するような機會は何もないのであります。數百萬人の
結婚適齢期の男子と女子とがおりながら、そういう行き違い行き違いをしておりまして、結局選ぶ時には、目の前の
自分らの接觸するところにいる五人か七人の中からしか、お互いに選ぶことができない。大きな團體に屬しておれば、あるいはもう少し大きな選擇
範圍があるかもしれませんが、これが最上のものだというような安心をも
つて選擇し得る設備は、何ひ
とつ現在はないのであります。もつといいのがありそうなものだと思
つておりますと、皆婚期を失してしまいます。殊に女子の方は從前からの長い引續きがありまして、自ら進んで聲をかけるということをいたしませんがために、もう機既に熟しているにかかわらず、良縁がなくてまごまごしている者がいくらもあるのであります。かりに、親たちの相談は全然要らない。もしくは親たちが不
同意であ
つてもよろしいということに
輿論までがきま
つていましたところで、どういう選擇をするかというと、ある場合には失敗の選擇をするばかりでありましよう。と申しますのは、現在の世相におきましては、誘惑が必ずしも男子の側ばかりからではないのでありまして、女子の側からも非常にたくさんの誘惑があります。誘惑ということは最上のものがほかにあることを隠すことなのであります。
自分は永久に一番
適當なものだという形をも
つて、自ら推薦する形であります。その形が非常に多いのでございまして、しかも悲しいことには、十中七八までの未婚の青年男女は、それを判斷するところの能力においてたいへん缺けているものがある。何も今まで判斷する機會を與えられておらなか
つたのであります。
從つてよんどころなく、初めは世話ずきのただ
結婚をさせてやりたいというだけの親切で一生の間に二百組の夫婦をつくつたという老人がいくらもあ
つたのでありまして、そういう人たちはもはや金のわらじをはいて探してもないのであります。多くの場合はその動機なるものは中には単に
自分らの世話した者を多くしたいというような精神的の者もありましようが、物質的の意欲に基いて世話をする者も非常にたくさんありますことは、われわれの最近の經驗であります。終戦後再び復活する機會はまだないようでありますが、一時弊害のはなはだしか
つたのは、高砂社と称する式の営業媒妁所であります。これがかなり弊害を流していることは、しばしば新聞等でみるところであります。それを見ましても、いかに選擇の機會に恵まれておらぬかということを感ぜざるを得ないのであります。今日まで多數の若者は——女はもとよりのこと、男までが
自分でそれができない。
自分にその能力が缺けているということを意識しまして、これを親たちに任せよう。もしくは先輩に任せようとした形跡が非常にたくさんあるのでありますが、實はこれは
結婚自由の制限でもなんでもないのであります。もしもお前勝手にきめなさいと言われたなら、まごつくような場合が一番多いのであります。私は長い間にはいろいろの不幸の實例を知
つています。母親がなく、しかも父親があまり世間體のことに慣れなか
つた家庭におきまして、娘が非常に悲しんでいる實例をたくさん知
つております。中には自殺した者も二つも知
つております。それくらいまで女の煩悶、つまり判斷力が缺けていた。この必然の論理の結果といたしましては、ぜひともまずも
つて個々の人間の判斷力を養わなければならないのであります。
私は少しく勇敢にすぎましようけれども、これを性教育という言葉をつか
つておりますが、性教育と申しますと、常に生理學上の現象ばかりを取扱うように
考えて、中にはその言葉を聽いてニヤリと笑つたりするものがあります。以前の性教育はそういうものではないのであります。
自分らが一番
適當なる
婚姻をするには、どういう人を選べばよいかということの判斷の基準になるべきものであります、それが以前には備わ
つておりましたが、近來は非常になく
なつた。もしくはなく
なつたがために、新しいいろいろの拘束、しばしば干渉と見えたり、強壓とも見えるような父兄の干渉、いわゆる
戸主權の活動があ
つたのだろうと思
つております。
實際最近五十年間、七十年間の實例を見ますと、これが普通になりかけていたことはたしかであります。
自分のごく親しい者の間に結納の日にな
つてから、お前はどこそこに行くのだと言われてきたという女があつたりしました。これが實は
日本の普通の状態であると思
つて、以前から
日本はそういう
結婚しかや
つていなかつたと思う人がありましたから、これは大間違いであります。そんな
結婚は實はもうそれ自身不自然でありまして、今日の
法律改廢をまたずして、早から訂正さるべきものであります。どうしてこれが起つたかということが
一つの社會史上、文化史上の
問題でありますが、やはり一番何と申しましても、遠方の
婚姻というと、
自分と居住地を同じうせざる者と
婚姻するという風習が始ま
つたのがもとでありまして、それをし始めたのはやはり武士であります。ですから平たく申せば多くの
婚姻方法が幾分か女の利害を無視して——無視してでなかつたかもしれませんが、無視に近い代行をしまして、そうして若い當人たちは唯々諾々として親の指定に基いたということが、
一つの上品なる
日本人の
生活標準のごとくな
つたのがいけなか
つたのであります。一番大きな原因は、村と
婚姻の
關係を
考えても、決して村は
婚姻制度の上から無
意味なものでありませんけれども、妙に今日まで重んじられておりましたところの少數の
家庭というものは、
自分の同村人で
自分らより歴史も少く、資産も少いような者からもらうことを、たいへんいやがりまして、遠くからいでもいいからして、
自分らと同じくらいな格式の者からもらうということをやりまして、まず村外
結婚というものが一番最初に始まりました。
地方で申せば舊家とか何とかいうところから始まつた。それもわれわれの見ておりますところでは、所によりましては、かなり自由に、長男の嫁だけは遠くからもらうけれど、
あとの
子供は自由に村内で
結婚させるというのも、ずいぶんたくさんあるのであります。これは
明治以前からではございますまい。
明治の後からだんだんはやりまして、それが普通の
婚姻とな
つて、
從つて現行法の
民法というものも、それを基準にしてつくりましたがために、
婚姻常識というものが、
外國にも傳わり、國内でもこれだと思
つているものが、非常に新しいものだということを忘れてしま
つたのであります。話が長くなりますから、ほんのかいつまんで申しますが、たとえば嫁入をも
つて開始するところの
結婚、女の身柄を婿の家に移すことをも
つて開始する嫁入というもので始まる
結婚というものは、遠方にあ
つて初めてそれが起るのでありまして、村におきましては
婚姻の時期と、それから家を引き移る嫁入の時期というものは、いつでも違
つてお
つたのであります。つまり夫婦が別々の家にいる。もしくは嫁の家に婿が泊
つておる。婿がそこに通
つてくるという昔からの形の
婚姻というものは、百年前まではごく普通でありましたのみならず、現在でもまだ行れている所もいくらでも指摘することができるのであります。この場合におきましては、父母の意思というものはほとんど働いておりません。そんなことはあるまいとお思いになるかもしれないけれども、事實父母は知らずにおりまして、當人たちの
結婚は、いわゆる自由
結婚というものがごく普通の状態であつた。それをすると困るようになりましたのは、ここにはいろいろの方がおいでになるからして、私立入つたことまでは申しかねますけれども、必ず人間が最初の試みで
結婚しなければならないというふうの、一種の倫理が始まりました結果でありまして、そのためにけがのないうちに、過ちのないうちに早く
結婚しなければならないとい
つて、早婚が起りました。早婚だけならいいけども、早期の嫁入というものが起りました。まだ娘とも言えないような年齢の少い女を人の家にや
つてしま
つて、そこで初めて教育して、男女の間柄でも一旦夫婦にな
つて、その間におのずから戀愛が發生することを待つように
なつた。全體ほかのすべての生物を通じまして、初めに妻戀いというものがなくて、
結婚が成り立
つているという實例はないのでありますけれども、
日本の近世の
婚姻は社會上の動機がほかにも手傳
つておりましたために、
婚姻をしてから後に、おのずから愛情の
發達するような、そんな逆な方式をと
つたのであります。こんなものが長く續いているわけはないし、將來長く續くわけもないので、私はもう
改正されるのが當然とすら實は思
つてお
つたのであります。以前からの、千何百年來の古い習慣をここで改めたなんと思うのは大間違いであります。現在のごとき奇抜な、變つた、ほとんど本人の意思を無視するような、われわれの王昭君式などと名づけておりますような種類の
婚姻が普通になりましたのは、ほとんど現行
民法と同時だと言
つてもいいくらいのものであります。しかしながらこれを必要としました
理由はよく分か
つているのであります。というのは、村内だけでお互いが
子供の時から知り合
つているものだけの間で選擇して、この中で一番いい人を探そうという選擇の
方法が行われなく
なつたからであります。それの一番もとになりましたのは、われわれの記憶しておりますのでは、まず最初には男子の村外旅行、その次は工場などが始まりまして、若い娘が村から出ていくということに
なつた。盛りの年にお互いに觀察することも、知り合うこともできなくな
つて、
結婚ができなくな
つたのであります。選擇ができなくな
つたのであります。
もう
一つわれわれどもの非常に心を動かしておりますことは、若者の團體、娘の團體というものが、以前はあつたやつが潰されてしま
つたのであります。娘の團體の方は比較的早く潰れたように思います。今でも絶無ではありませんが、非常に少くなりまして、今探すのは非常に骨が折れます。若者の團體は近年までありまして、青年會が盛んになりましてから、若者の團體は、ああいいうものは潰してしまえということになりまして青年會に合流してしまいました。また青年會は
婚姻の
問題に觸れないのが本筋にな
つております。
婚姻の選擇機關として使うことがなくな
つたのであります。長崎縣のある
一つの島でありますが、その島にちやうど今から十四五年前まであつたところの、娘宿の組織を改めて、若者宿を潰してしまえというので若者宿の組織を改造してしまいましたときに、一番嘆いたのは娘たちであります。そうすれば私たちはどうしてお嫁さんになるのか、どうして婿さんをもらうのかということを、彼らは大ぜいの前で明言しておるのであります。代りのものをつく
つてやらなかつたという非難はたしかにあるのであります。村外の
結婚が多くなると、つくりたくてもそういうものはつくれないし、そうかと言
つて、今後再び村に戻
つて、村の
子供の時からの知合いの人の中から選べと言
つても、できることではありませんし、殊に
都會においてはそういう選擇をすることが絶對にできませんがために、もはやそんなことを言
つても、ただ昔の
生活を繰返すにすぎないという非難がありますが、私はそこにおいてこれに代るべきものを
考えなければならぬと思います。これはどういうふうにかして、ちつとでも多くの中から、少しでもたくさんいる者の中から
自分に適し、また
自分を適すると見ておるところの人間を選ぶ。これはほんとうに戀愛というものを物質的に見た、社會學的に見た言い方ではありますが、なるたけ広い
範圍で、もつとよさそうなのがあつたかもしれないのにというような後悔を残さないように、まず
自分の能力の許す限りにおいては最上の警戒をし、最上の判斷をして、それから選んだのだというように、お互い思われるようなものをつくらなければならぬ。それには現在の
結婚機關では足りないのであります。今までは完全、というよりは、あるいは働き過ぎておつたかもしれないが、その村々における
結婚機關があつたが、その村村自身のものまでも失
つてしま
つて、仲人に頼むとか、もしくは時によるとよそから勝手に連れてくるとか、いろいろの非常に不完全な、はなはだ間違いやすい——全部が間違
つていない證據には、そうたくさん離婚はありませんから、間違
つていないかもしれないが、とにかく非常に不完全な形をも
つて婚姻する
方法にかえてしま
つたのであります。ですからして、かりに今度の
民法が、當事者自身に
自分の相手方を勝手に選ばせる
制度であるといたしましても、選ぶ
方法がなかつたら、やはり行あたりばつたりにくつつくより仕方がない。
自分の前に現われた二三人をも
つて、良縁とか何とかいうような、こういう勝手放題な名をつけて、それとくつついてしまうよりほかはないことになる。これは今まではそれでもよかつた。それでもよかつた場合があるというのは、實は
婚姻してからの戀愛の
發達がなかなか大きかつた。けれども、現在のような状態でありますと、必ず失望する場合が多くて、おそらく離婚
問題というものは、數においてこれから著しく殖えるであろうと思う。殖えさせないようにしなければならないが、殖えるであろうし、悪くすると、もうすでに最初から離婚所期の
婚姻、すなわち離婚を豫想した
婚姻をするようなものが殖えてくるかもしれない。そういたしますれば、
夫婦財産制その他の上に大きな影響を與えることは疑いなし、
子供の幸福というものもたいへん減ることはたしかであります。いかなる
方法を盡しても、この
法律の
改正を機會として、私は
婚姻の
適當なる機關をつくらなければならぬ。それから今
一つは職業的の、ためにするところのある媒妁人に、あまりたくさんの信頼をおくという今までの
制度をやめなければならぬ。今度の
改正案を拝見すると、保證人二名という
制度が残
つております。この保證人という
意味は、今度は
意味が變るのであろうと私は豫期しております。今までの保證人というのはたいてい先輩であります。田舎におきましてはたね親と申しましたり、もしくは親分と申したり、大抵親の列に屬する者を二人保證人に頼み、それをこれから先の相談相手にする。親だけでは足りないから、つつかい棒にするというような形式でありましたけれども、おそらくこれから先の保證人は同列の者がな
つて、だんだん男の友人が一人と、女の友人が一人というふうなことにな
つてい
つて、保證するようになるであろうと思います。彼らをしてほんとうに一時的の気まぐれでなくして、心の底から
婚姻を保證させようとするがためには、彼らの安心するような
方法を講じなければならぬ。どうかして選擇する手段を設けなければならない。これは實は
結婚の自由が與えられてからこの方、たいへん大きい
問題だろうと思います。田舎ならばなるべく村のうちで、もしくは近村の交際のできる
部分だけでということもありますが、
都會に來て住んでおる者は、朝から晩まで何人かの異性に接しておるのでありますけれども、この中に
自分らの未來の配偶者があるかどうかということをきめるのには、あまりにぼんやりしておる。この連中に何とか
適當なる相手の心持を、相手がどんな人間であるかということを知る機會を與えなければいかぬ。ないなりに
一つ、二つの
方法がある。一方においては、性教育、いかなる者を選ぶのが最も正しい
婚姻の配偶選抜であるかということを
考える。他の一方においては選ぶ機會を與え、少しでも多くの中から自由に
自分らの心をも
つて、これならいい、いいということだけじやいけない。
自分だけがそうと思
つてもいけない。向うからも
自分を選抜してくるであろうと思われる者を探さなければならない。國際連盟のまだ始まりのころに、私はしばらくゼネバに行
つてお
つたのですが、あそこでは一番はやるのはテニスであります。そのときにある
婦人が私に話すのには、あなたどうしてああいうテニスがはやるか知
つておるか、あれはお互いに探しておる。
とつさの間に擧動と性格の現われるのには、テニスが一番いいのだという
お話でありました。私は
ちようど日本でもそれに當るものがある。
日本では歌がるたを正月だけやるのだが、正月に歌がるたをやる人間は、たいてい
結婚してもいいような娘と息子とをよせ集めておいて、お互いに見せ合う。ふだんはおとなしくしておる人間が、しばしばお手つきをしたり、男の方でもいやなごまかしをしたりする者がすぐ現われる。ああいうふうに無心に闘
つておる。ゲームをや
つておる間には、自然にわかると申しましたけれども、これはわずかなもので、よほどの世話やきのおぢいさん、おばあさんのある家でも集めるのはせいぜい五人か六人の娘、息子であります。これがもう少し自然に青天白日の下においてお互いの気性がわかり、いやな人だということのわかるような
方法があれば、それに越したことはない。ダンスがよいというが、ダンスではだめだ。おおよそダンスに行くようなものは相手がきま
つてしま
つて、それだけの人間から選ぶのですから、もうすでに最初にくぎづけせられておる。だからしてきまじめな、そんなことに引込み思案な
考えをも
つておる者はいかぬ。これから先は、一方においてあまり若い男女が
婚姻の前に、
自分のところから離れて、
結婚もできないようなところに行く機會をだんだん少くし、もしくは出先においてはなるべく
適當なる配偶者を選ばせるような機關もつくらなければなりませんが、やはり出發點としては、そうゆう目的をもつた友だちのグループをしつかり定めて、それに對するアドバイザーというか、相談役のようなものをつくるよりほかなかろうと思います。悪いことばかり傳わ
つていて、またいやなことばかり世間の評判にな
つているために、若者組にしても娘組にしても、もはや再びあんなものをつくろうという人は、だれもありませんけれども、これははなはだおもしろくない。固苦しい親なんかから見ると、おもしろくないことに違いないが、こそこそ集ま
つては男のうわさをしておる。男がまたこそこそ集ま
つては女のうわさをしておるということも、何だかいやなことに見えるけれども、實はああいうことをや
つておる間に、およそ理想的の夫とはどういうものか、理想的な女房とはどういうものであるかという教育を受けておるのであ
つて、これはあるいは性教育という言葉を使わないで、もう少し別の言葉を使
つてもいいかもしれませんが、ぜひとも若い者の教育機關の中に入れなければならなかつた。私は性教育という言葉でたくさんであると思う。つまり性
問題と
關係しないことは
一つもないのであります。病気がないということ、丈夫であるということは、なんでもかんでも皆それである。容貌のきれいであるということもそれであります。病身でないということもそれでありますから、私はこれは性教育という言葉で非常にいいと思います。その代りに今日まで花嫁
學校や女
學校において與えておるような、あんな遠慮深いことではだめだ。殊に教えておる
先生が、皆そう言
つては悪いが、不完全な
結婚をしておる人であつたり、戀愛
生活に成功していなかつた人であつたりするだけに、
婚姻に對して妙な
考え方をも
つておる人ばかりであるから、ごく普通な常識でも
つて、夫婦
問題を
考えることのできる人にや
つてもらう。むずかしいことではありますけれども、この
問題をもう少し
考えてからでないと、せつかく
民法において與えられた
婚姻の自由というものを、十分利用することができなくなる。このままで世の中に突き出したということになると、どういう結果になりますか。私は豫言してしばしばはずれたことがあるから大きいことは言わないが、むろん離婚率はうんと殖えます。殖えるのみならず、不幸な
婚姻が非常に殖えるであろう。どちらか一方が悔いてしまう婚婚が殖えるであろう。それ見てごらんなさい、もう一遍
民法に戻した方が、いいという、皮肉なことを言う人が出てこないとも限らない。そういうことのないようにするがためには、この
法律の附帯決議というわけにはまいりますまいが、これができると同時に、この
問題に對して攻撃なさる諸君は、この
問題と同時に、ぜひ今のことを
考えてもらわなければならぬ。現在の性教育及び
婚姻觀というものに對する教育は、極度に不完全であるということをお認めにならなければならぬ。この不完全は、おそらくは今日までのやや陰欝な、やや拘束の多い
婚姻制度が、いつまでもいつまでも、だらだらと續いたのがもとではないかしらと私らは思
つております。私はいま
一つの事例として
婚姻を引きましたけれども、
民法の到るところに行きわた
つておるのでありまして、必ずしも
婚姻の
問題だけではないのでありまして、
家族の
問題にしましても、
分割相續の
問題にしましても、現在
法制だけかえて、
法制によ
つて世の中が變ると思つたら樂觀の局であります。これをするがためには、一方に施設がなければならぬ。われわれの
考え方が變らなければからぬ。指導者はもう一段と謹粛しなければならぬ。これをしませんと、おそらく弊害の方が多くなるであらうと思います。
もう
一つだけ例を加えさしていただきますならば、たとえば
家族の
制度を止めて、家に餘裕を残させて、一年の病みわずらいですぐ破産するような状態にしておいて、一方において何らの設備もしなかつたらどうなるか。単に
農場の再
分割、細小農の發生というだけでは弊害は止まらないのであります。今こそやや平和、幸福を
感じておりますけれども、農村のみじめになるということは、もう目に見えておることなのであります。これをほんとうに安全にするがためには、どういう形であるかは知りませんが、あるいは遺言の
制度をもう少し
發達させるとか、その他人間の
考え方をかえるとかいうことをしなければならないかもしれない。とにかく最小限度の自然
家族、親と
子供というものが一緒に住めるように、半月や二十日の病みわずらいのために、すぐに養老院や養育院の手をわずらわさないようにするだけの
努力を、將來はしていかなければならない。せつかく與えられたところの自由を、ほんとうに樂しむことができない。
自分らも實驗しておりますが、夫婦がそろ
つて自分の
子供の前途を
考えるくらいによく
考えることはない。殊に
子供を大きくする場合によく
考える。育兒院などというものはちよつと今想像はつきません。それをしようと思つたならば、育兒院
制度だけでも、根本的にもう少し
考える必要がある。現在の育兒院みたいに、
子供を使
つて小間物や、筆、すずりを賣りにやつたりするような、あんなものがあ
つたのでは、これは家の代りにも何にもならない。かりに家が分裂して人間がもう一人一人の人間に
なつたらどうなるか。あひるとか、すずめとか、ああいうふうなものは、親が一生懸命ごく短かい期間だけ育てる。あれから見ますと、とにかく人間は乳離れしたからとい
つて、すぐ
生活ができるものではありません。もとは十年くらいで濟んだかもしれないが、今では十五年なり二十年なりの間、両親が巣におるひなを育くむような態度をも
つてやらなければ大きくならない。この世話をする機關はどこにあるか。ですからして現在の
民法にいわゆる家というものを壊したということが、家が
日本になくなることのみならず、その前提ですらもないということは
考えていかなければならない。われわれは新しい
生活に最も必要な家というものを、これから案出する義務をも
つておる。必要を感ずる。全然家というものがなくなる時代が、あるいは千年とか二千年とか後に來ぬということまでは言い切ることはできませんけれども、それまでの間のつなぎとしましては、やはり病気したら
子供から看護せられ、赤ん坊は親から乳を飲まされるという形を續けなければならない。それが安全に續くかどうかということが、今日
日本の大きな
問題なのであります。優秀なる教育を受けて
自分だけは自由なる
意見をもち、理解のある主人をも
つて、勝手にどんなことでも言えるというような人たちが言
つておる手本は、手本ではないのであります。この家の
問題はごく小さな、いわゆる口から手というような、しがない
生活をしておる者にもかかわ
つておる
問題であります。われわれの
考えなければならないのは、そういうおえら方の人たちのためではなくして、むしろ
自分自身の力では、正しく
考えることのできない人のために、この
民法の善用ということを
考えなければならないのであります。この
法律が今年通るということは、おそらくはもう豫言していいだろうと思いますが、逆にはなりますけれども、この
實質はそういう小さいことではないということを
考えて、これに伴うところの必要なる社會教育、必要なる社會
制度の設立ということは、今までのようにのんきな、いつかはつくるというような気持ではなくして、大急ぎにとりかからなければならない。あなた方のお手の届くところは、あなた方でや
つていただきたい。あなた方のお手の届かぬところ、むしろわれわれどもの方がかえ
つて適任であるというところは、われわれでやるつもりでありますが、世の中が變つたからそういう具體的な準備を要する。研究を要する。考察を要するということをお
考えの上で、どうかこの法案の
審査に從事していただきたいものであります。はなはだくどいことばかりで、要點に觸れなかつたような
感じがいたしまするが、私はこれで御免をこうむります。(拍手)