○
萩原説明員 對日平和條約がいつごろできるだろうか。またどういう
手續によ
つてできるだろうか。どういう
内容のものができ上るだろうかという點につきましては、なかなか豫測が困難でございます。その
意味は
平和條約と申しますものは、元
來戰勝國がその意思によ
つて決定いたすもののように考えられますので、結局
連合國側がどういうふうに考えているであろうかという、いわば人の氣持を豫測する問題に歸著いたすからであります。そこで多分こうだろうというように、勝手に申し上げれば申し上げられなくもございませんが、それよりも今までの
平和條約の
前例その他を申し上げまして、
客觀的な事實からそういうことが判斷できないであろうかという
意味の材料を提供いたしまして、何らか御
参考に供したいと考えます
もちろん
平和條約の
前例と申しましても、二國間だけで、
戰爭をして、
戰爭が
終つた場合それがいわゆる
講和談判になる、つまり
日露戰爭か
日清戰争のような
講和條約等はあまり
前例にならないように思います。そういたしますと、やはり
ドイツに對します
ヴエルサイユ條約、その他オストリア、その他に對する條約をつくりました第一次
歐洲戰爭後の
パーリ會談と、それから今次
世界戰爭の後に今までのところできました
イタリア、
ルーマニア、ハンガリア、ブルガリア、フインランドとの
平和條約との問題、その
二つが
参考になる
前例であろうと思います。
この
二つを比較してみますと、私ども感じますことは大體三つの點があるのでございますが、
一つはこの前の第一次
歐洲戰爭のときは、
戰爭のすんだのち非常に早く
平和條約ができた。しかし今度の
世界戰爭の場合には、
平和條約は、
戰爭が終わ
つてから
イタリアの場合でも約二年近くかか
つてでき、
ドイツ及び
日本に對する條約はまだできておらないという點でございます。つまり割合にゆつくり長くかか
つておる。この點は第一次
歐洲戰爭の
あとであまり急にあわてて條約をつくつたのでいけなかつた。そして今度は
ドイツ及び
日本のごとき國は相當長期にわた
つて占領して、
占領期間中に十分
民主主義的な
國家につくりかえて、そしてそれから
平和條約をつくるのだという
考え方が根底にあつたからだと考えられるのであります。そして
終戰當時はそういうような
意味におきまして、五年や十年
平和條約をつくらずに、相當長い間おいてから
平和條約をつくつた方がいいという
意見も
連合國の新聞その他にも現れたようでありますが、しかしやはり
戰鬪行為がすんでみて、論理的には、法律的には、
戰爭状態があるという状態であ
つては、どうもやはり
世界が安定しない。そういうような
意味でもうかれこれ二年以上も
占領を續けてきたのであ
つて、その
占領の所期の目的は大體達したのだから、むしろ
世界の安定の基礎をつくるという
意味においてもうそろそろ
對獨平和條約ないし
對日平和條約をつく
つていいだろうというような機運が、漸次
連合國の間にも起きてまいりまして、最近においてはいよいよその時機に來たというような
考え方が多いように、新聞その他から見受けられるのでございます。しかしとにかく第一次
歐洲戰爭に比べまして、今度の
世界戰爭は、よほど
平和條約をつくるのがゆつくりしておるというのが
一つの特徴だろうと思います。
それから第二の點といたしまして、先年
平和條約によ
つて國際連盟をつく
つて、御
承知のように
ドイツとの
ヴエルサイユ條約その他
オーストリア、
ハンガリー、等と結びました
サンジエルマン條約、
ヌイイー條約の一番はじめに
國際連盟の規約がはい
つております。
從つて平和條約ができましたときには、
国際連盟というのはまだ紙の上でできるだけで、それからしばらく經ちまして、
国際連盟の第一
囘總會を開き、そうして漸次
國際連盟というものは動き出すようにな
つてまいつたわけであります。それに反しまして、今度は
ドイツの屈伏いたします前、すなわち一九四五年の三月にはすでに
サンフランシスコ會議を開き、そこに
連合國の各國の代表が集まりまして、
國際連合の
憲章をつくりました。その
會議の最中に、
ドイツの屈伏の報道が
會議に傳わりました。その
會議において、
連合憲章が確立いたし、その
あとで
日本が降伏いたしたわけでありますから、
戰鬪行為がすむ前にすでに
国際連合というものができており、そうして
平和條約ができるまでには、すでにもう第一
囘總會を去年、最近は
ニューヨークで第二囘の總會が開かれておるわけであります。
この點が同時にこれから申し上げようと思います第三點と關係いたしてまいるのですが、それは
ヴエルサイユ條約は御
承知のように四百四十條というような非常に
厖大な條約でありまして、いろいろの事情がありまして、所期の
目的通りには必ずしもできなかつた點もあるかもしれませんが、しかし當時の
平和會議の條約の
起草者たちの考えでは、これは
ドイツとの
戰爭の結末をつけるための對獨條件だけを記載するものではなくて、
世界戰爭の
跡始末をつけて、さらにそれから後の平和を建設していくための
規定を
平和條約の中に盛
つていくのだという
考え方が多分にはい
つておるように思われるのであります。從いまして
ヴエルサイユ條約の中に、ただいま申しました
國際連盟の規約もはい
つておりますし、
國際航空の問題とか、
國際勞働の問題とか、
國際河川の問題とか、いろいろなそういう必ずしも
ドイツに對するだけの條件という問題でないものも
平和條約の中にたくさん盛られておるよう思われるのであります。
それに比べまして、今般できました
對イタリアその他の條約を見ますると、條約は對伊條約が約九十條くらいの條約でありまして、その他の
ルーマニア、
ハンガリーなどに對する條約は約三十七、八條から四十條前後の割合に簡單な條約であります。これはその國に對する
戰爭の
跡始末的の問題をそれに記載する。そうしてそれとは別に
國際連合の方はもう發足してお
つて、將來の平和建設という問題は
國際連合が擔當していく。從いまして
平和條約にはあまり長い先のことや、
世界の平和をどういうふうにしていくかというような問題には全然はい
つておりませんし、同時にまた
國際連合の
憲章の方には、
國際連合は今度の
戰爭の
跡始末の
部分にはあまり關係しないのだという
趣旨の
規定もはい
つておりまして、その點が
二つにわかれておるわけであります。これらの點が主な違いのように思われます。
そういうような違いはございますが、やはり
ヴエルサイユ條約と
對伊平和條約と言うものが、われわれの
具體的な
参考資料になるように思われる點が多々あるのでございまして、今それを中心にいたしまして
平和條約の時期、
平和條約の
起草手續、
平和條約の
内容というような問題について、若干敷衍して申し述べたと思います。
平和條約の時期につきましては、ただいま申し上げましたように今度の
戰爭の後では少しゆつくりしておるわけでありますが、それでは
イタリアの
平和條約がどういう
手續きで、どれくらいの時間がかか
つてできたかということを申し上げますと、一九四五年の八月、つまり
日本が降伏いたす直前にいわゆる
ポツダム宣言を發しました
ポツダム會議というのが開かれました際に、
ポツダム會議の決定といたしまして
外相會議をつくる。そうして
外相會議の
さしあたりの任務として、
イタリアその他に對する
平和條約も
起草して、さらに將來は
ドイツに對する
平和條約も考慮するという
趣旨がきまつたわけでございます。それからその九月に、ロンドンで
外務大臣の
會議が開かれまして、
イタリアに對する
平和條約の
起草に著手しようとしたのでありますが、そのときは
意見がまとまりませんで、その年の暮れに
モスコーで
會議を開きまして、
モスコーの
外相會議で大體の條約の
起草の
手續が決定いたしました。
それからその決定した
手續と申しますのは、
外相會議で條約を
起草して、それからもう少し多數の國を入れた
會議を開いて、つまり
イタリアとの
戰爭にある程度積極的に参加した二十
箇國ばかりの國を集めて
會議を開いて、
外相會議でできた案をその
會議に諮問する。その
會議の
意見はあくまで
参考意見で、諮問に對する答申のような
意味に
扱つて、そうしてそれを
参考としてもう一度
最後に
外相會議で條約の
内容を決定する。こいう三段で條約を
起草するするという方針をきめたわけであります。
そのきまつたところに
從つて昨年の春四
國外相會議が開かれまして、
平和條約の大體の案ができたのでありますが、その案というのはもちろんある程度の案でありまして、大
體條約の體栽をなして、なを第
一條云々、第
二條云々と書いてございますが、第何條かのところに來ると、その
條文について、たとえばトリエスト問題ならトリエスト問題について
アメリカと
イギリスと
ロシヤの
意見が違
つていれば、第何條のところに
イギリス案はこうだ、
アメリカ案はこうだ、
ロシア案はこうだというような、
意見の
最後にまとまらないところはまとまらないままで、
違つた案を掲げた案をつくりまして、それを去年の七月の末から十月中旬にわた
つて開かれました二十一
箇國の
パリにおける
平和會議、普通
平和會議と言われておる
會議にその案をかけて、そうしてその案についての
意見を各國から求めたのであります。そうして去年の十一月に
ニューヨークで
最後の
外相會議が開かれまして、その前の小國をも含めた
パリ會議で出た
参考意見を参酌して
最後の案が決定し、今年の二月に
調印されたわけです。そうして
イタリアの場合には英、米、ソ、沸の
四箇國が
批准すれば
效力を發生することにな
つておりますが、その
批准が
ロシヤの分が遲れまして、ごく最近至に
つて四國の
批准を終わ
つて效力が發生したわけでございます。
そういたしますと、一昨年の八月の
ポツダム會議から、もしくは一昨年の暮の
モスコー會談から、今年の二月に條約の
調印を終わ
つて九月に
效力が發生した全
手續は約ニ箇年近くかか
つておりますし、條約の
起草手續が決定してから
調印されるまででも一年二箇月くらいの時間がかか
つております。そういうようなかなり長い時間がかかり、かなり愼重に、しかも
ヴエルサイユ會議のときのように、一堂に
連合國側全部が會して、そこで
大急ぎに條約をきめてしまうという形でなく、三つか四つの
會議を經て條約が出来上るという
手續をと
つております。
もちろんただいま申しましたのは、いわゆる
ポツダム方式、つまり四
大國が主として
起草にあたり、四
大國が
最後的決定をするという
方式でありまして、御
承知のように
對日平和條約については、
ポツダム方式によらずして、
アメリカの提案では、
對日戰爭に積極的に参加した十一
箇國でまず
起草するというような新しい
方式を提案しておりますし、それに對しまして、
ロシヤは今のところやはり
ポツダム方式を
對日平和條約にも適用したいという意向を明らかにしております。
アメリカは、
ポツダム方式は歐州の問題についてはそういう
方式を約束したのだが、
對日平和條約の問題については、その
方式を適用するということを約束したことはない、そうして
對日條約については、やはり
對日戰爭に積極的に参加し、また
對日平和、
從つて太平洋の平和ということについて特別な關心をも
つてゐる十一
箇國を初めから入れてや
つていきたいという立場をと
つておるわけであります。そのどういう
手續きによるかということは、これはあるいは近くきまるでありましようが、いずれにいたしましても、
ベルサイユ條約のように、全部の國が集ま
つて、一度の
會議で
大急ぎでつくり上げるというような
方式ではなくて、十一
箇國の
會議という
方式がとられても、
最初に
豫備會議を開く、それからまた專門家の
會議に問題を移すとか、あるいは
外相の
會議を開いて
意見のまとまらぬところをまとめるというような、いろいろな段階を經て
對日條約案が
起草されるものと想像されるわけであります。
ただいま申し上げましたようなことで、
對日平和條約の
手續について、どういう
手續によるかということがきま
つても、それから
平和條約ができ上が
つて調印するまでには若干の時間がかかる。それから、もちろん
平和條約の
效力を發生するのは、
主要國の
批准が行われた上で
效力が發生するのでありますから、そこにもまた若干の時間がかかる。それで、一番早くいつた場合に、およそどのくらいになるかといつたような點も御想像がつくだろうと存ずる次第であります。
それから、こういう條約の
起草手續をと
つておる間に、
戰敗國である
日本の
意見というものは一
體聽くものであろうかという點でございますが、この點につきましては、
連合國がどういうふうに考えておりますか、もちろんよくわかりませんが、
前例を申し上げれば
ベルサイユ條約の場合はこういうような
手續を
とつたのでございます。御
承知のように一九一八年の十一月十一日に第一次
歐洲戰爭の停
戰協定ができて、それから約二箇月ばかり經ちました一九一八年の一月十八日に
パリ平和會議が始まりました。そこには
ドイツに對して
戰爭を布告しました四十
箇國近くの國が集ま
つて本
會議のようなものを開きまして、それから、そういう本
會議みたいな大きな
會議だけでも條約の
實際の
起草が進まないというので、
五大國の
會議であるとか、ときには四
大國、三
大國というような
會議を
—會議と申しますか、
委員会のようなものを本
會議の間に開きながら、だんだん條約案が
起草されてまいりまして、四月ごろにな
つて大
體條約案がまとまり、そうして
ドイツに對しまして
平和條約の案を内示するから全權を
パリに派遣しろということを要求いたしたのであります。それまでの
會議は、もちろん
ドイツその他の
戰敗國は全然はい
つておりませんで、
戰勝國である當時の
連合國だけの
會議でありました。そうして案ができ上がつたところで、
ドイツに案を内示するから全權を派遣しろという要求を出したわけであります。それに對しまして
ドイツは、
口頭で商議することが許されるのか、つまりオーラル・ネコシエーシヨンが許されるのかという質問をいたしましたところが、
會議は
口頭の論議を許さないという
囘答をしたので、
ドイツは、それでは全權を派遣する必要がないから書記官を二名派遣して案をいただいて歸ることにしようという提案をしたのに對して、
連合國が、
戰敗國の
ぶんさいでそういう態度はけしからぬ、ぜひ全權をよこさなければいけないというので、四月三十日にランツアウという
ドイツの
外務大臣が
パリに到著いたしまして、五月七日に
平和條約の案を
受取つたのであります。そうして五月二十九日まで約二十日間で
ドイツ側ではこれに對して對案を出した。要するに
厖大な
意見書を提出したのであります。餘談でありますが、多分
ドイツ語で提出したので、後世の
歴史家が、
連合國の心理を
一つも解しない
ドイツ人らしいやり方だと批評しておる
文書であります。非常に
ドイツらしい理窟つぽい
法律論を長々と掲げた
文書でありまして、
最初に、今度の
戰爭はウイルソンフオーティーン・ポインツを受諾したから
戰爭が濟んだ。それをあくまで條約の基礎にしなければならない、しかるに今度受領した案を見ると、十四箇條に非常に違
つておる、こういう點が違う、か
つてウイルソンはこういうことを
言つたのに條約はこうな
つておる、そういうふうな理窟を述べて、領土であるとか賠償であるとかいうようないろいろな
條項についても一々
意見を述べた
文書を提出した。それに對して六月十六日に
連合國側の
囘答というのがありまして、これは、一番初めに、
ドイツは
ドイツがいかなる地位に現在立
つておるかということを全然自覺していないことくである、念のために申すのだが、今度の
戰爭を起こしたのは
ドイツであ
つて、
ドイツは平和は正義に基かなければならないと言うが、犯罪を犯したものが罰せられるということが正義である、という
趣旨の書き出して、
ドイツの申し出を一々反駁して、ただ、ごく技術的な點につきまして、數箇所、たとえば、初めの案では、ある領土を
ドイツから奪うということにな
つていたのを、そこを、それじやそれを
人民投票に問うた上で決定しようというふうに、一、二箇所直したところがあります。そういう一、二箇所直すことには同意いたしましたが、その他の點についてはことごとく
ドイツの主張を反駁したこれまた相當強硬な
厖大な
文書を
連合國の回答として出した。その
囘答の
最後は、數箇所直したその案を
ドイツが受諾するか否かを五日以内に
囘答しろ、五日目までに
囘答が來なかつた場合には、停
戰協定が無效にな
つて戰爭状態が續くのだという
最後通牒的な回答を出した。その
會議の
囘答を受取りました
ドイツの
内閣がこの條約にはとても
調印できないというので
内閣が瓦解してしまい、後
繼内閣が非常にもめまして、五日間に後
繼内閣ができずに二日間猶豫をもら
つて、新しい
内閣ができて、七日目にその條約を受諾するという
囘答をいたしました。その
囘答をいたしましたのは六月二十三日で、すぐそれから
ベルサイユで
調印式を行うというので、早速準備をして六月二十八日に
ベルサイユ條約が
調印されたという事情でございます。
これをみましても、
平和會議というものは、
戰勝國がその
仲間同士における意思を決定するための
會議であ
つて、
ベルサイユ條約の場合においては
ドイツには
口頭の辯論を許さなかつた、一囘を
限つて書面による
意見の開陳を許したという形であります。今度の
戰爭後の
イタリアの場合につきましては、これは若干趣を異にしておりまして、御
承知のように、
イタリヤにいたしましても、
ルーマニヤ、ブルガリヤ、
ハンガリー等にいたしましても、
戰爭の終わりごろからは國内の政變の結果もありまして、むしろ
連合國に味方して、
ドイツに對しては
戰爭している立場でございます。
従つて戰爭の前半は敵であつたが、これはその關係で
平和條約ができていないから法律的には
敵國であるが、途中からは
連合國の味方をしていたという特別な地位もあつたためかと思いますが、先ほど申しました
イタリアとの
平和條約の
起草手續は、
最初に
外相會議を開いて案をつく
つて、途中で二十一
箇國の
會議を開いて
参考意見を求めるという場合に、そのときに
戰敗國である
イタリヤなり、
ルーマニヤなりの代表に、やはり一應の
参考意見を
口頭で述べさせるという
手續をと
つております。しかし、その
あとで
最後に條約を決定するのは四
大國の
外相會議で、そうしてその案を
イタリヤ側に渡して、それに
調印を求めるという形をと
つております。またたとえば
對伊平和條約では條約の
批准の問題につきましても、一旦
調印した上はこの條約は四
大國の
批准があれば
效力を發生する、
イタリアも
批准しなければならないが、
イタリヤの
批准は
效力發生の要件でないというような建前をと
つて、あくまで
戰勝國がその
意見を
戰敗國にインポーズするという建前はやはり崩していないようであります。
對平和條約について、どういう
手續がその邊の點につきましてとられますかということは、想像がつきませんが、ただいま申し上げました
前例をお考えくだされば、ある程度のことがわかるだろうと思われます。
もう
一つの餘談のようでありますが、
イタリアの
平和條約は今年の二月十日の
調印式が
パリーで行われたのでありますが、そのときに
イタリアの全權が條約を
調印するときに、こういうような演説ををいたしております。
イタリア政府は、
イタリア平和條約の作成に何らの役割を與えられなかつた、しかも今ここにこの條約にやむなく從わなければならない、今日こそは
イタリアにと
つて悲しみの日である。自分のここで
調印する條約は眞の條約ではなく、
イタリアに一方的に課する
條項を
規定しておるものである。
イタリアの
國際連合加入が認められる場合は、經濟的な諸
條項は
國際連合の
憲章の
規定によ
つて將來緩和されることを期待する。それからわれわれは
イタリアの
民主主義が過重なる
經濟負擔によ
つて崩壊するのを救うために、
連合國が理解と同情とをも
つてイタリアに今後臨まれることを期待するという
趣旨の、非常に悲壯な演説をいたしておりまして、同じ條約を
調印する時間に、
イタリアの
スフオルツア外務大臣も
ラヂオ放送をいたし、そして
平和條約が
パリーで
調印される時間
イタリア全國にわた
つて十分間の沈黙を
守つて、
イタリア國民の
悲しみの意を表するというようなことを
イタリア政府はいたしたようであります。以上申しましたのは
平和條約の時期及び
手續というような點に關して何らか御
参考になるかと思
つて申し上げた次第であります。
條約の
内容につきましては、これもいろいろな點がございますが、
對日平和條約の
内容というものはすでに
ポツダム宣言によ
つて、もしくは
降服文書によ
つて、もしくは
占領以來の
占領政策によ
つて、ほぼ明らかにな
つておるように思われますが、條約の形式として、どういうかつこうにまとめ上げられるであろうかという點に、何らか御
参考になると思いますから、
イタリアの
平和條約の
内容についてごく簡單にここに申し上げておきます。
イタリアの
平和條約は全
體九十條、十一部から成
つておりまして、第一部が
領土條項というので、
イタリアがフランスに割讓する
地域、
イタリアがユーゴースラビヤに割譲する
地域、
オーストリアに割譲する
地域、ギリシヤに割譲する島というようなのが掲けられております。
それから第二部が政治
條項というのでありまして、これは少し詳しく申し上げますが、政治
條項というのがまた九つの目にわかれております。第一目が一般的
條項その中に
イタリアは人種、性別、言語、宗教に基いて
イタリア國の主權内にある人を差別待遇してはいけない。それから停戰以來
連合國に協力した
イタリア人をそのかどによ
つて迫害してはいけない。停
戰協定によ
つてフアシスト組織を解消させることに同意したのであるが、さらに
イタリア國内において將來政治的、軍事的、もしくは半軍事的なこの種の組織が復活してくることを許してはならないというような、政治的な一般的な原則、ある
意味においては憲法に當然保障されるような
條項が
規定されております、それから第二日、これは國籍の問題で、主として割譲
地域の住民の國籍の問題であります。第三日としてトリエストの自由
地域の問題であります。これは政治的には大問題に
なつたトリエストを特別な自由市にする
趣旨であります。第四日は
イタリアの植民地、
イタリアの植民地は
連合國の間でまだ
意見がまとま
つておりませんので、條約には
平和條約が
效力が發生してから一年間に
イタリアの領土の處分を決定する。それまでの間は現在の情勢を續けるという
規定にな
つております。第五日は支那における特殊利益、これは團匪議定書に基く特權とかあるいは天津にある
イタリア祖界、それから上海及び厦門の共同祖界に對する
イタリアの權利というものを放棄するという
規定が書いてあります。それから第六日と第七日はアルバニアとエチオピアでありまして、これは
イタリアが
戰爭前併合していた
地域であります。これにつきましては、新しくできたアルバニア、エチオピアなりの政府が
イタリアが併合していた間に
とつたあらゆる處置を無效にするためにとる處置を、
イタリア側は承認する義務があるという
趣旨で、むしろ割譲という觀念よりも現状囘復というような觀念で、これが
領土條項にはいらずに政治
條項にはい
つております。それから第八目が國際協定、これは多數國間の協定につきまして、政治的なものにつきましては、
イタリアが
從來参加していた條約でも、
イタリアを除いた殘りの國でその條約を改訂していいというような
趣旨が、特別の條約をあげて、たとえばアフリカのタンジールの地位に關する條約とか、それからベルギー領コンゴーに關する條約とか、いわゆる政治條約についてそういう
規定を設けておりますが、ここにはつきり書かれておりませんが、この
條文の裏面から申しますと。技術的な條約、つまり郵便條約、電信、電話條約、赤十字條約でありますとか、そういう種類のいわゆる技術的協力に關する條約が
平和條約によ
つて效力が妨げられないで、
イタリアがはい
つていたものはそのまま
イタリアがはいつた形において復活するという前提をと
つておるわけです。それから第九日に二
箇國間の條約、つまり
連合國の一
箇國と
イタリアとの間に通商條約とかいろいろな二
箇國間の條約があつた場合に、
連合國側の方でその條約を復活させたければ六箇月以内に通告すればよろしい。たとえば、
イギリスと
イタリアの間にたくさんの條約があつたとすれば、その條約のどれを無効にしてどれを生かすかということは
戰勝國である
イギリスの方が選擇權をもつという
規定であります。以上が政治
條項という第二部であります。
第三部が
戰爭犯罪人、これはごく簡單に、今後も
連合國側から要求があつた場合には
戰爭犯罪人の容疑者を
連合國に引渡さねばならないという
趣旨で
規定されております。御
承知のように、
イタリアにつきましては、丁度横濱で今開かれておりますような、交戰法規違反の
戰爭犯罪人の處罰だけがありまして、市ヶ谷で行われておりますような政治的なと申しますか、いわゆるA級の裁判に相當するものは行われていないので、
規定が非常に簡單であります。
第四部は海陸空軍
條項というのでありまして、これは
イタリアのある地方の非武裝、要塞をつく
つてはいけないとか、海軍、陸軍、空軍をそれぞれ制限するというような
趣旨の
規定があります。御
承知のように、
イタリアは全然非武裝化されるというわけではなくごく限られた陸海空軍をもつことを許されておりますので、このところはあまり
参考になりませんが、とにかくそういう軍事
條項というものがはい
つております。
第五部に連合軍の撤兵というものがありまして、條約の
效力を發生してから九十日以内に
イタリアにいる連合軍が撤兵するという
規定があります。これも條約でどういうふうにでも自由にきめれれますので、
あと五年いると
規定しようが、百年いると
規定しようが、どうにでも
規定のしかた次第でありまして、ただそういう問題があるという
意味で御
参考になると思います。
第六部が、
戰爭によ
つて發生する請求權という題で、ここに三つの問題が取上げられております。その第一が賠償でありまして、
イタリアは
ロシヤとアルバニア、エチオピア。ギリシヤ、ユーゴースラビアに合計三億六千萬米ドルばかりの賠償を拂うことにな
つておりまして、これは金額が決定していること、そしてその金額に對して
イタリアの軍備の縮小に伴
つて、不必要に
なつた軍需工場等の施設によ
つて賠償を拂い、さらに年々の生産物から賠償を拂うという建前がとられておりまして、たとえば年生産の賠償物資の原料の供給の問題とか、こういうふうに金額がきま
つておりますと、
一つ一つの工場なり生産物をやる場合に、價格を決定しなければなりませんので、その價格の決定の
手續というようなことが
規定されているわけです。
それから第二に
イタリアによる返還の
規定がございまして、ここでは
イタリアが
戰爭中
連合國の
地域を
占領したりなんかいたしまして、そこから奪
つてきた財産は、
連合國に返さなければならない。その奪
つてきた財産がなくな
つてしまつたことが立證されれば、その現物を返すという形での義務は終る。但し金塊及び金貨については、そのと
つてきた金貨なり金塊がなくても、同じ額を拂わなければならぬという
趣旨の
規定があります。
それから第三に、今度は
イタリアの請求權、
イタリア側が
連合國に對する請求權は一切放棄するという
趣旨の
規定がはい
つております。これは
戰爭中にいろいろ
連合國に對して
イタリアが請求權を獲得していても、それは放棄する。あるいは停戰後
イタリアの國内に
連合國がいたために、いろいろな損害が起きた。あるいは
戰爭に基かないろいろな事故、たとえば交通事故などで
イタリア國民が
連合國に對して請求權が發生している場合でも、その請求權は認めないという
趣旨の
規定がはい
つております。それが第六部の
戰爭に基く請求權という部でありまして、第七部には、財産權利及び利益という題目で、この中に四つの問題が取上げられております。
第一に、
イタリア内にある
連合國の財産、これは
連合國政府もしくは
連合國の個人の財産が、
イタリア國内にあ
つて、それを
イタリアが没收その他の措置を
とつた場合には、原状に囘復しなければならないし、それがたとえ
戰爭の結果爆撃で燒けてしまつたというような場合には、新たにそれと同じものを取得するために必要な金額の三分の二に相當する額をリラ貨で、
イタリア國内において
連合國もしくは
連合國人に拂わなければならないという
規定と、その
規定の適用の細目の問題がはい
つております。それが第七部の第一目でありまして、第七部の第二日が
イタリア政府及
イタリア國人の財産が
連合國の領土内にある場合でありまして、これはたとえば
イタリア人もしくは
イタリア政府の財産が
イギリスにあれば、
イギリスの政府がこれを押收し、精算し、その他いかなる措置をと
つても差支えない。そうしてそれによ
つてイギリス人が
イタリアに對して請求權をも
つているものをコンペンセートする、補償する。そしてもし餘つた
部分があればそれを
イタリアに返却するという
規定でありまして、これに關するいろいろな
手續規定が載
つております。第三日が
連合國の請求權に關する宣言というのでありまして、これはこの條約できまつた解決方法によ
つて連合國の
イタリアに對する請求權はすべてカヴアーせらるるので、その他のものについては新しく要求することをしないという
連合國側の宣言であります。第四に債務という目がございまして、これは
戰爭前に發生した債權債務關係は、金銭債務であれば
戰爭によ
つて影響を受けないという
規定でありまして、たとえば
イタリアが戰前に
イギリスなり
アメリカなりに對して外債を負
つていたとすれば、その債務はこの條約とは別に昔の通りに拂わなければならないという
規定であります。
第八部は一般經濟
條項というものでありまして、これには
平和條約の
效力が發生してから十八箇月以内に、
イタリアと
連合國とは通商條約をつくるように努力する、その十八箇月間は
イタリアは
連合國に對して最惠國待遇及びある種のものについては内國民待遇を與えるというような
規定であります。
第九は、この條約について、紛爭、つまり
意見の相違が起きた場合の調停
手續があげてあります。
第十部に、その他の經濟
條項というものがございまして、これはごく簡單な
條文で附屬書をたくさんつけて、いろいろなこの附屬書が條約と同等の
效力を有するというだけの
規定が書いてございますが、その附屬書というのを見ますと、工業所有權であるとか、著作權であるとか、それから
戰爭前からの手形とか有價證券とか、そういう經濟上のこまかい問題が非常にこまかく
規定されてあります。
第十一部が、最終
條項というので、英、米、ソ、佛、の四
大國大使がこの條約の履行に關して
イタリア政府に指導及び援助を與えるというような
規定であります。條約の解釋に問題が起きた場合に、
連合國の四國の大使
會議で決定する。それからごく普通の、この條約はいつから
效力を發生するというような
規定がはい
つております。先ほどちよつと申しましたように、
最後の九十條という
批准の
效力發生の
條項は、この條約は
連合國によ
つて批准せられ、
イタリアによ
つてもまた
批准される。しかしこの條約はソビエト、
イギリス、
アメリカ及びフランス
四箇國の
批准が寄託されればただちに
效力を發生する。その他の
連合國についてはその國が
批准を寄託したときから
效力がその國に對して發生することにな
つています。それから
イタリアと理論的に
戰爭の關係にある國は、四十
箇國くらいあるだろうと思います。つまり宣戰を布告しただけの國です。しかし
イタリアに
戰爭に積極的に参加した國はさつき申しました二十
箇國ばかりでありまして、この條約を
調印しているのは二十
箇國、この公約を
調印してない、つまり南米の諸國あたりで、ただ
イタリアに對して宣戰だけ布告していたという國については、
あとからこの條約に参加することができるというようないろいろの
手續規定がはい
つております。
以上が大體
イタリア條約の
内容についてでございまして、冗長になりましたが、
イタリアと
日本というものは現在おかれている立場も根本的に違
つておりまして、それからまた
イタリアの問題も多分にございますが、ただそういう形式によ
つて條約がまとめられているという點で、御
参考になるだろうと思いまして、條約の
内容として豫想されることという
意味で御
説明い申し上げました。