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1949-04-08 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 14号 公式Web版

  1. 昭和二十四年四月八日(金曜日)   ―――――――――――――   本日の会議に付した事件 ○証人の欠席に関する件 ○中間報告に関する件 ○ソ連における抑留者の実情に関する  件(右件に関し証人の証言あり) ○議員派遣の件   ―――――――――――――    午後二時二分開会
  2. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) 只今から在外同胞引揚問題に関する特別委員会を開会いたします。本日の議題はソ連における抑留者の実情聽取の件であります。証人といたしまして、赤鹿理氏を御出頭願つております。  それでは証人の宣誓を後に廻しまして、先だつて三月二十四日、五日に亘つて、当委員会が証人として喚問したしました大内浩氏、この方が欠席されましたので、その理由について調査いたしましたところ、これは正当の理由あるものとかように認めましたので、欠席はこのまま認めることにいたしました。
  3. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 正当の理由の内容を公表して貰います。委員長が分らなかつたら、分つた程度で直截簡明におつしやつて頂きたい。
  4. 青木玉吉

    ○事務局員(青木玉吉君) 大内浩氏から参りました手紙の内容をここで読み上げます。
  5. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 読み上げる必要はない。直截簡明に内容さえ言えばよろしい。
  6. 青木玉吉

    ○事務局員(青木玉吉君) それでは本人からの理由書の内容を簡單に申上げます。先ず第一は住所が違つておりました。それから大丙浩の浩という字が次に違つておりましたことと、それから本人はこのとき丁度盛岡の方へ出張しておりまして不在でありまして、前に住所に手紙が届きましたが、それの連絡が不十分なために、本人のところまで行かなかつたわけであります。大体要点は右申上げました通りであります。
  7. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 只今の報告を承わりますと、こちらの調査が不十分であつたということが分りますが、今後の証人の喚問等についてはかようなことのないように氏名、住所を十分調べてそうしてやつて頂くように願います。    〔「同感」と呼ぶ者あり〕
  8. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) 承知いたしました。今後氣を付けることにいたします。
  9. 木下源吾

    ○木下源吾君 あとの措置はどうするのですか。
  10. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) 今それをお諮りしたいと思います。次に只今木下委員からのお尋ねがございましたように、この間の暴行事件に対する後始末をどうするかということでございますが(「違う」と呼ぶ者あり)これは委員会におきましても申上げましたように、これはあらゆる機関を通じて、十三名行方不明三名死亡というような事実無根の噂が流布されたのであるということを國民に知らせる義務がある、こういう意味からいたしまして、これを本会議に中間報告として結果を発表いたしたいと存じますので、これを各委員にお諮りいたします。
  11. 岡元義人

    ○岡元義人君 今木下委員の言われたのはそういう意味でなくて、大丙証人の件をどうするか、こういうことだろうと思います。(「そうです」と呼ぶ者あり)大丙証人の問題でありますが、事情は今我々が聽いたような次第でありまして、すでに英彦丸の問題は相当審議をいたしまして、大体の結論を得た、こういう状態になつておりますから、改めて大丙証人を召喚するという必要はないじやないかと考えられます。これは私一人の考え方でありますが、各委員にお諮り願いたいと思います。
  12. 木下源吾

    ○木下源吾君 今のあれですね、最初から重要じやないというような者は余り喚ばないように、今の分は喚ばなくても大体いいというような何ですから、これでいいと思います。私は岡元君に賛成します。けれども、今後どうしても喚ばんならん者ならば徹底的に喚ぶべし、そうでなくていいと思われる者は成るべく喚ばんようにして貰いたい。
  13. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 私も結論においては岡元委員並びに木下委員のお説に同感であります。ただ併し大丙証人は決して、重要度が少いのでなく、我々は大いに期待をしておる。併し全体としては恐らくもう今後更に一人を喚んでも、全体の今までのことがひつくり返るような問題は起るまいということは予想されますので、もうあの問題については改めて証人を再喚問する必要はないのじやないか。從つて木下委員なり岡元委員の動議に賛成いたします。    〔「賛成」と呼ぶ者あり〕
  14. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) 御異議がないようですから、大丙証人の件はこれなりにいたしたいと思います。   ―――――――――――――
  15. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 委員長が最前諮られたのは、実はどういう意味か存じませんが、本会議にこれを報告するというのは、普通の法規的の手続では何もそれらをやる必要はないのです。書類報告によつて報告を終了すればよろしい。併し何か特別に共産党細川君が質問主意書を出し、或いは本会議において口頭を以て政府に質問をし、又この委員会においてもしばしばそういうことを説明せられて、そうして可成りいろいろな新聞或いはその他の出版によつても十三名行方不明となり、三名死亡したというようなことが、一犬虚に吠えて万犬実を傳うをいうふうにもなつておる向きもあるから、それらの噂を是正するという意味において、法規的の手続である書類報告だけに止めずして、本会議において満天下にこれをはつきりさせるというようなふうな意味であれば、これはむしろ議員の方からそうした動議を提出すべきであつて、委員長自身がこういうものを出すべきではないと思う。若しその意思があるとするならば、今ここで折角出ましたので、他の方からその動議を出して頂いて、委員長が委員会に諮るというように正しく手続に則つた委員会の運営をして頂くように私は希望する次第であります。
  16. 岡元義人

    ○岡元義人君 今の矢野委員のお話御尤もだと思うのです。ただこの委員会が英彦丸暴行事件を取上げるその條件といたしまして、当委員会はあらゆる機関をしてこれを國民に知らしめるという一つの條件があつたわけであります。勿論動議の形を取りまして出してもいいのでありますが、一應委員長はその前からの連絡があつた、こういうふうにまあ解釈してもいいと思うのですが、改めて私はこの問題はできる限りこれを本会議等に中間報告、いわゆる特別委員会の中間報告も溜つておりますので、その機会にそれに関連して報告して頂くという動議をば提出いたします。
  17. 木下源吾

    ○木下源吾君 今の問題はですね、よくもう少し皆と懇談して決められたらいいと思うんです。ここでは本問題に入つてですね、後から一つよく打合せをして、そういうようにお願いしたいと思います。
  18. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) それでは本問題については後程懇談会において決定したいと思います。尚議員派遣の件がございますが、これも懇談会にいたしたいと思います。   ―――――――――――――
  19. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) では本問に入りまして証人の宣誓を行いたいと思います。御起立を願います。    〔総員起立、証人は次のように宣誓を行なつた〕    宣 誓 書  良心に從つて、眞実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。        証人 赤 鹿  理
  20. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) 御本人に相違ございませんか。
  21. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 違いありません。
  22. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) では御署名を願います。
  23. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 一、二証人にお尋ね申上げます。赤鹿さんはソ連に連れて行かれたのがいつで、お帰りになつたのがいつか、又場所はどういうように径路を取つて行かれましたか、その事情を一應承つて置きたいと思います。
  24. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 今矢野委員の御発言がありましたが、ここに質問要綱というのが出ておりますが、これは恐らくこれによつて一應委員長からお尋ねになつて、その結果一つ各自が御質問申上げるというような順序がよいじやないでしようか。如何でしようか。この点を委員長を通じて矢野委員にお懇談申上げます。
  25. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) 矢野委員、草葉委員からそういうお話がございますが、如何でございましようか。
  26. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 もう発言しましたから、一應誰でもしよつぱなに聞きたい問題だろうから、その立場から御返答を願つて、然る後に又御相談の上然るべく進行せしめたらよかろうと存じます。(「異議なし」と呼ぶ者あり)
  27. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) 御異議がなければさよういたします。赤鹿証人。
  28. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 私は二十年の九月七日にソ連に入りました。そうして本年の二月十一日に羽田に帰つて参りました。
  29. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 どの径路を辿つてソ連にお入りになり、どういう径路でお帰りになりましたか。
  30. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 詳しくですか……。分りました。終戰のときは私は満洲に鏡泊湖という湖がありますが、あの傍におりました。そうして、武裝解除を受けましてから、九月五日に牡丹江に連れて行かれ、そこで九月六日に一應の取調べを受けまして、九日七月に飛行機で以てウオロシーロフという所がございますが、あすこに参りました。そこに参りまして、そこの收容所に入りまして約四十日程おりました。そうして十月の十五日にそこを出発をいたしまして、十七日にシベリアのハバロフスクという所に着きまして、ハバロフスクの將官だけの收容所に入りました。そこに昨年の十二月二十一日まで約三年半おりました。それから昨年の十二月二十一日に急に出発を命ぜられまして、九人の者と一緒にナホトカという最終集結地に参りました。そこで約四十日程滯在をいたしまして、本年の一月の三十日にそこを出発しまして、ウラジオの近所の飛行場、これは名前は分りません、その飛行場に到着いたしました。そこで約十日間飛行機を持つておりまして、本年二月十一日の十二時三十分に飛行機で以てそこを出発いたしまして十六時半に羽田に着いたわけであります。
  31. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 鏡泊湖のところでは軍團長をしておりましたか。
  32. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 師團長でございます。
  33. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) それでは議事の整理上、先刻申上げましたように、大体の項目を申上げまして、その線に沿つて各委員から御質問を願いたいと思います。第一にこれは証人自身の経過でございまして、只今はこの問題に触れておつたと思いますが、次には俘虜に関する一般の状況と、この二つについて御質問を願いたいと思います。
  34. 岡元義人

    ○岡元義人君 先ず赤鹿証人から今大体の経歴をお伺いしたのでありますが、尚簡單にその点にお触れになりまして、それから一般のソ連地区におきますところの同胞の現況をばできる限りお述べ頂きたい。特に民主運動の状況だとか或いは実際の現在どういうようなふうに收容されておるか、そういう全体的な問題について証人が御存じの範囲において述べて頂きたい。
  35. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) ハバロフスクというところの收容所は將官だけで、それにいろいろの世話をして呉れる兵隊が三十人ばかりおりましたそれだけでございまして、そこから高塀に囲まれて自由に外出もできませず、尚外に出るのはときどき散歩を許されたときに公園に行くくらいで、そこの收容所以外のことは殆んど分らないのであります。それでハバロフスクに行く前までウウオロシーロフというところでは士官も兵も一緒におりました。そこでは皆一緒に今までと少しも変らずにやつておつたのでありますが、ハバロフスクに参りましてからは今申しましたように、全く一エーカー程の廣さのところに閉じ込められておりましたので、一般の状況は少しも分らないのであります。併し先ず私の知つておる範囲で、自分の隊がどうなつたか、それからウォーロシーロフではどんなふうであつたか、ハバロフスクで見聞しておつたところはどんなところであつたかというようなことについて申上げます。先ず私の隊は山の中で訓練をやつておりまして、そのまま戰爭になりまして停戰になつたのであります。それでその当時私は一般の部隊が皆山の中におりまして、私だけが道路の側に出ておりまして、私うしてソ軍と應接をいたしました。そうして向うの機械化部隊が、八月の二十日にその先頭が参りましたので、それから翌々日向うの師團長、分團長というような人が参りましたので、私はそこでいろいろ話をいたしました。そのまま兵は山の中に入れて置く、そうしてそのまま武裝解除の準備をするがよいかと言うとよろしいということであつたので、こういう命令を下して武裝解除の準備をしておつたところが、八月三十一日に突然にソヴイエトの百八十四師團長というのが参りまして、お前と参謀長と副官と兵隊一人と、これだけは私と一緒に今日東京城というところに來て呉れ、部隊は山から下して我々の方の指揮を受けて呉れ、こういうお話がありましたので直ぐに手配をいたしまして、私は八月三十一日にこの師團長に連れられまして東京城というところに参つたのであります。そういたしましたら翌日この師團長が参りまして、あなたの隊はまだ行動に移らない。師團長の命令が徹底しておらんようだからもう一度命令を出して呉れ、こういうことでありましたので、私は直ぐ命令を書いて残つておりました参謀に軍隊の行動を促進するように命じました。そういたしましたならば、その晩にソヴイエトの方の將校が参りまして、部隊には皆よく傳わつておる。参謀の手紙を持つて來たから見て呉れと言つたので見ますと、部隊は順調に山から下りつつあるということでありました。それで向うの師團長も安心しておりました。そうしますと、九月の三日の日に私の部隊の先頭と覚しきものが、私の入れられておりましたところから前の方の道路百メートルくらいのところをぞくぞく前進しておりました。一部は家族も連れ、住民の一部も連れて子供も馬に乘せ、車に乘せまして兵隊がこれに附き添いまして、どんどん三日の日に通り掛けたのを見ました。四日の日も同樣一日通りました。そうしたら九月五日に向うの参謀將校が参りまして、あなたは今から副官だけを連れて私と一緒に外のところに移ります。参謀長ともう一人の当番は翌日参ります。こういうことでありました。それで「そうですか」と言つて直ぐ司令部に参りまして向うの師團長とお別れをして、そのまま自動車に乘せられて牡丹江に向つて前進しました。その途中に私の部下の一ケ連隊が……連隊長が馬に乘つて武裝解除のまま連れてどこかへどんどん前進しているのを見ました。それから牡丹江に参りましてからは、もう自分の部下とはすつかり離れて、部下はとにかく順調に山から下つたということは確かめました。  大体初めの状況はそんなことでありますが、それ以後は部隊の者には一回も合いませず、ときどき便りがありましたが、一人二人の人が病院へ入つておつたわけですが、こういう者が病院へ入つておつたらよろしく言つて呉れ、又工場へ働きに行つたところが、あなたのところの誰々が働いておつたら師團長がよろしく言つて呉れというような便りを聞いただけであります。  それからウォロシーロフに参りましたときには、大体において東部國境におつた第一方面軍に属する集まつておつた將官が、それには当番も附いており、副官も附いておつて相当賑やかで、毎日賑やかに一緒に暮しておりました。  それからハバロフスクに行つたときは一緒に汽車に乘つて行きました。ハバロフスクの駅に着いてから將官、將校、当番とこういう順序に並べということで並びました。でそのまま前進して或る建物に行つたところが、どうも囲いのある收容所である建物ですが、私共が入つたらぽんと門が締まつて後のものはオミツトされておつた。それから鞄等も頼んだ人があつたので、頼んで入れて貰つて、それから先副官はどこへ行つたか知りませんが、翌日向うの許しを得て「副官達の荷物が一緒に來ておるので届けるようにして呉れ」と言つたところが、承知して向うから副官が一人急に参りました。その後副官や当番がどうなつたか全く分らない状況でありました。  それから次の御質問はその後全般の状況を知つておる範囲に言えというお話でありましたが、その後散歩に出るとき等にはハバロフスクの町には相当の日本兵がありました。公園等へ散歩に出ると、向うの方で建物を壞す作業とか。穴を堀る作業をやつておりました。散歩に二、三十人ずつ行くときには二十人から十人くらい区切つてロシアの兵隊が随いて廻りましたが、皆飛んで來て「私のどこの部隊の者でみんな元氣でやつております」というふうに我々に挨拶した。で「体を大事にせよ」と言つて別れました。そこでそういうような状況しか分らなかつた。そこで建物を大分造つておりましたが、そういうところで働いておりました。元氣よくやつておりましたのを見ましたが、段々段々とその数が少くなりまして、昨年の八月に……盆の七月に亡くなりました友達達のお墓詣りを許して呉れということを申しましたときに、一人について一人ずつ許すというので、私も一緒に参りましたが、そのときには、殆んど自転車で二十キロ程行つたのですが、日本兵の姿は認められませんでした。極く小数の者が道路工事をやつておりました。それから附近の建物の方にも昨年のもう初め頃からは殆んど日本兵の姿が見えません。但し私共のおりました收容所から五百メートル隔たつた所に一つ收容所があつたのであります。そこには、二、三百人の兵隊が毎日労働に出て、労働から帰つて來るという状況は見ておりました。軍歌を歌つて元氣でやつておりました。それからハバロフスクからウラジオの方に向つて輸送されます途中は、よく氣を付けて見ておつたのでありますが、夜が多うございましたけれども、日本兵の姿は見受けませんでした。鉄道沿線にはおりませんでした。それから最終集結のナホトカに参りましたときには、これは日本兵は私共のおりました收容所には、初めに入つた收容所には三百人くらいおつたのじやないかと思われます。その外の建物から毎朝その横を労働のために通つて行くのが、暗いが人員を私計算して見ますと二、三百人はおつたように思われるのでございます。それから鉄道線路の横に材木工場がございましたが、そこでも相当な数が働いておりました。それからあとに小さい收容所には三、四十人ずつおるのを見受けました。以後飛行場へ参りましたけれども、飛行場にはもう全く日本兵はおりませんでした。そんな状況しか分つておりません。
  36. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 赤鹿さんに伺いますが、そうすると、あなたのいられた將校收容所では、幾人くらい將校がいられたか。そういて一般的な待遇ですね、それもときによつて違うでしようが、初めの頃と終りの頃と、感情的でなく具体的にどのくらいの待遇を受けたか、どのくらいの被服が……。
  37. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) ちよつと計算して見ます。名前を私皆んなこつちに帰りましてから記憶を辿つて書き上げたのでございますが、ここに数は延べでこの將官收容所に入りました人が、延べで武官が百六十人ぐらい、それから文官が十八人ぐらい、私の記憶では延べでございますが、その中で途中で他所に出ましたのが武官が十八名、文官が十二名、入院が五名、それから亡くなつた方が十四名で、私が結局出発しますときにおりましたのは、私共十四人を除きますと、あとに日本の武官が百十名、文官が七名、兵隊が百三十名、こういう状況でございました。そうして武官の中には佐官が一人であとは全部將官でございます。但しその將官の中には約二十名程の者は満洲國の將官として勤めておつた人であります。そんな状況でございます。
  38. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 生活の点は御答弁ないのですが。どういう待遇を受けていたか、それも時間によつて違うでしようし、初めの方の終りの方と違うでしようが、具体的にどのくらいの食糧とか、どのくらいの被服を貰つておつたか、煖房装置はどうか……。
  39. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 只今の御質問は待遇でございますか。
  40. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) 証人の方に申上げますが、時間が長うございますから、どうぞお坐りになつて……。
  41. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 失礼いたします。
  42. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) 尚委員の方に申上げますが、次の発言を許すというような関係もありますので、発言中は委員の方は、お立ち頂いたらどうかと思います。(「同感」と呼ぶ者あり)
  43. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 將官と尉官とは、待遇はやはり区別されておるようであります。細かいことは、私の記憶に残つておりませんが、將官は、例えば食糧で申しますと、概略申しますと、黒パンが毎日三百グラム、米が三百グラム、雜穀が百グラム、それから肉、骨附きで百二十グラム、バターが三十グラム、チーズが二十グラム、砂糖が四十グラム、魚肉が五十グラムと思つております。野菜が二百グラムくらいありました。そういうようなわけで、後は食用油とか、そういうようになつておりますが、実際は米は平均しまして一日一回でございます。後は雜穀で、主として、粟、麦、小麦も大麦も入つておりました。それから蕎麦、こういうものをそのまま煮て食べておりました。チーズは初め参りましたときにはございましたが、暫く経つてなくなりまして、後もときどき呉れる程度でございました。それから肉は例の山羊でございます、山羊の塩漬でございました。魚は「さけ」とか、「ます」とか、「にしん」の塩漬でございます。一番困りましたのは野菜でございます。これは生野菜は殆んどございませんで、乾燥野菜を食べておりました。それから兵隊の方は労働をいたします関係がありますので、食物は少し雜穀とか、パンとかいうものは量が多かつたように記憶しております。但しバターとか、チーズはない。併しながら同じ收容所におりますものは、共に苦樂をしなければいかんというので、皆一緒にいたしまして、兵隊も將官も皆一緒にいたしまして、そうして食べておりました。そういうふうに、量で申しますと申分のない量と思いますし、まあ年寄はそう沢山食べられませんが、受取つた……ソ連の政府の示したものが全部我々の口に入れますれば十分でございますけれども、なかなかそういうふうには参らなかつたようでございます。殊に第二年度昭和二十一年度は三月頃から大変一時悪くなりまして、殆んど米がありませんで、粟とか、何かばかり食べさせられて、量も多くなく、バターとかいうような高尚の物は半分きり呉れんという状況で、その年は皆非常に痩せました。二十一年には非常に痩せました。それから食事というものは、ああいう生活におきましては最も大事なものでございますから、これは一つ交渉せなければいかんというので、委員から交渉いたしました。ところがそうか、それは注意せんならんということを上の者は言うておりましたが、実行はなかなかできんで、結局二十二年の二、三月と思いますが、それでは一人日本の將官から委員を出して食糧を受取るときに立会うようにして呉れ、そうしたならば確実に行くだろうという話になりまして、実は私もその役を買つて出まして行つたのであります。参りまして、ソ連の方で我々の準備は女の炊事婦がやつておつたのであります。その炊事婦と二人で立会いまして、そうして米は何グラム、こういうふうに計りまして、そうして渡したのであります。そうしてやつておりまして、少しよくなりました。それでもやはり受取つて参りまして、炊事婦が鍵であけて入れて鍵を掛けて翌月炊爨をするとき鍵であけて出すのでありますが、その間にバターであるとか砂糖というようなものが雲隠れするというようなこともあつたのであります。確証はございませんからはつきり申上げられませんが十分でないことがあつたのでございますが、段々とこちらの監督もやかましいし、ソ連の方もやかましくなつたという状況になりまして、段々よくなりまして昨年二十三年の春頃からは大体軌道に乘つて参りました。現在もそれは続けておりますが、委員が立会つて向うから取つて來るものを貰つて來る委員、その炊事を実行するところを監督する委員というふうにやりまして、私の帰ります時分には大体軌道に乘つて参りました。但し炊事のやり方がロシア式の炊事でございますので、例えば米を炊きましても我々が家庭で食べるような噛んだならば幾らでもうま味が出て來るというような米の炊き方ではなく、ねばねばしたところを棄てまして、その中へバターを入れて攪き混ぜて食べるというようなことであつたのでありますが、段々改良して來ました。けれども釜が日本のような釜がございませんので、結局カーシヤーというお粥でございますが、ぼた餅にするようなべたつとしたようなものを食べておる。日本人の口に調理が伴わないようなことはございました。併し量としてはさつき申しましたように我々には大体において十分であつたと思います。ナホトカが我々が十二名おつたときにそれだけのものを受取つて参りまして十二名のために一人は日本兵を附けて呉れたのであります。その日本兵がそれを調理して本当の日本式のものを食べさして呉れました。ナホトカに四十日いるうちに私も少し肥つたような氣がいたします。それからもう一つ一番苦痛でございましたのは野菜でございます。これは日本人は野菜がないとどうもうまく参りませんので、野菜が欠乏しております関係上老人でございますので足がぶくぶく腫れたりする者が大分出たのでございます。これは向うに談判いたしまして努めてやつておりますが、御承知の通りの土地でございますので、私共の口に野菜が入るのは六月の中頃から九月の終りまでで、後は我々は乾燥のじやが薯だとか大根だとかいうようなものを食べておつたのでありますが、これが一番苦痛でございました。それで老人などが庭の隅つこを小さなこのくらいの小さな家庭用のシヤベルで耕やしたりして自分の貰つたパンを粉にして入れたり、「にしん」を入れたりしまして畑を作りまして畑を作りまして、そこに二十日大根とか用意のいい者の荷物に種が入つておりましたから「とまと」、「きやべつ」を蒔きまして、足の腫れる人は「たんぽぽ」「あかざ」を摘んだりひどいのは「くろーばー」を食べておりました。そういうことでやつておりましたが、昨年の順調になつて來ますと、ソ連の方でもそれを認めまして、「とまと」の苗を呉れたり、大根の種を買うことを斡旋したりして呉れまして、昨年は割合に自分で作つたものを食べたわけでございまして、これは將來日本人に適するような食べ物の調理をやり、それから野菜を食べさせ、庭で作らすようなことをやりましたならば、病人も減るのではないかと思われます。それから佐官とか兵の方は申しましたように少し量が違うのでありますが、皆同じものを食べておりますから、これは同様な状況であると思います。  被服は初め参りましたときは、着のみ着のままの者が相当ありました。自分の行李は持つて参りましたけれども、牡丹江まで届けて呉れますが、牡丹江から飛行機に乘るときに、人員だけにしまして行李は置いて行けと言いますから、そのまま行きましたが、行李が着いたときには、私は二つ行李を持つておりましたが、一つは空つぽで、あとの一つは寢巻のようなものと靴下の古いのが一つ二つ入つていただけで中は空でありました。一番氣の毒なのは奉天の方からの人で、奉天にソ軍の大將が來るから飛行場に迎えに出ろという命令で小隊長以下皆着のみ着のままで行つたところがそのまま飛行機に乘せられて連れて行かれて、これらの人は全く何もなくて洗面道具もないという状況でありました。持つている人もありますが、持つていない人が多かつたので、初めは皆分け合いましてやつておりましたが、なかなか皆古いので直ぐ破けます。靴下の継ぎ、シヤツの継ぎに苦労いたしました。おかげで大分上手になりました。併し二十二年の暮頃から少し補給をして呉れるようになりまして、シヤツ、ズボン下のような下着、タオル等二十二年の暮頃からございました。もう一つは手当を三十ルーブルずつ貰つたのでありますが、初めそれは我々に直接渡さないで、向うで適当にやつておりましたが、二十二年の六月頃から我々に直接三十ルーブル呉れるようになりましたので、それで糸を買いましたり、針を買いましたり、木綿を買いましたりして、褌を作つたりハンカチ、手拭を作つたりしましたのでなくなりました。昨年の春頃は被服の交換が相当よくなりました。余り下着のぼろぼろなものを着いてる者もなくなつたように思います。それからいつでも完全に呉れましたのは防寒具でございました。これはさすがに寒い國でございますから、私の方はウォロシーロフからハバロフスクに参りましたときには外套も帽子も、靴は呉れませんが、シヤツもズボン下も日本軍のものでございますが、それの新らしいのを呉れました。向うへ行きまして靴を呉れましたが防寒具だけは半年に一遍、夏が來て引上げ、冬になると又呉れる。殊に昨年はどういうふうであつたか十月頃に例のロシア式の木綿の綿入れの上と下とを殆んど全部に呉れました。下だけは十五六人に呉れました。私は貰わなかつた一人でありますが、上は全部呉れました。大変暖かい冬が越せたのであります。被服は大体そういうような状況であります。日用品は初め頃は皆少しは持つておりましたが、段々そのうちに皆なくなつて、歯磨粉などは殆んど皆持つていなくなつて、二十一年の春頃から使つたことがございません。石鹸で歯を磨いておりました。それが二十一年の十一月頃の初めに歯磨粉の箱を一つ呉れました。二十二年になりましたら手当を呉れましたので、それで歯磨粉や歯磨用具を買うということで、顏も氣持よく洗えたのであります。石鹸だけは確実に呉れました。これは石鹸だけは使い余る程洗濯石鹸を、こんな石鹸を呉れまして、三年半おりました間に三回は浴用石鹸を呉れました。兵隊も同様であります。もう一つ潤沢に呉れましたのは煙草でありますが、これは必ず初め頃はそうは行きませんでしたけれども、一日二十本、マツチが三つ、ノルマを余り誤らんように、マツチは一つ半か二つのことが多かつたんですけれども、煙草だけは二人二十本ずつ呉れました。但しときどきは半分くらい「かび」が生えておつたこともございましたが、とにかく煙草だけは確実に呉れました。  その外の方は、建物は帝政時代の本建築の建物でございまして、私はその後外の收容所を見ましたところから見ますと、先ず第一流の收容所の建物だと思います。但し部屋が、收容人員が余り多うございますので、例えて申しますと、ここからこちらくらいのところに十五、六人入つておりました。初め來ましたときは八つ寢台がございましたから大体定員が八人乃至十人くらいのところと思いますが、段々殖えましたので、最後には十五、六人入つて参りましたので、寢台と寢台の間が狹くなつて、それに伴う混雜が大変生活を不自由にしたように思います。但しあれから我々がこつちへ帰りまして、余程廣くなつたと思つております。便所も水洗便所が汚いながらございましたし、洗面所もございましたし、断水等はときどきいたしますし、停電もございますけれども、大体收容所の建物はよかつたと思います。但し今申しましたように、人員が余り多いので大変混雜いたしました。食事のときも食堂にとても入れませんので、一回の食事を四回に分けてしておりました。そういう状況でございます。
  44. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 その最後で結構ですが、收容所において一緒におられました將官或いは尉官の名前が分つておればお聽きしたいと思います。それから丁度何という元帥でしたか、その元帥が來られるというので、実は奉天の飛行場に集まれというので行つて見たところが、元帥が來ないでそのまま飛行機で某地の方に連れて行かれたということを、丁度私は奉天へ寄つたわけでありますが、そのときの兵事部長だつた……ちよつと名前を失念しましたが、兵事部長の相当御年輩でしたが、その方などと御一緒じやなかつたかどうかも一つ……それから中支那の軍司令官であつた櫛淵という中將などの動静はあちらでお聞きにならなかつたかどうか、合せてお聽きしたいと思います。
  45. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 奉天の兵事部長は名前は今ちよつと記憶しておりませんが、ここに書いたものを全部持つております。それから復員局の方へも報告いたして置きました。櫛淵中將は元氣でございます。家族からも私のところへお手紙が参りまして、詳しく申上げて置きました。
  46. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 十五、六名ですが、非常に参考になると思いますので、公表して頂きたいと思います。
  47. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 奉天から來た人はどなたかということはちよつと覚えておりませんが、余り時間がかかりませんから申上げます。古い方から申しますと、山田、後宮、喜多三大將……鈴多元大將、これは亡くなられました。召集の方で古い方で相良巳都麿、栗田小三郎、二人は一緒に帰りました。佐々木到一この方も一緒に帰りました。元氣でございます。それから飯田祥二郎、水原義重、山田鐵二郎、中尾忠彦この方は亡くなりました。末光元廣、人見與一、今泉吉貞、これは今度帰りました。生田重勝、瀬川四郎、これも今度帰りました。野村登龜江、それから秋山秀、これは滿州國の方であります。それから瀬谷啓、北澤定次郎、松崎直人、この松崎は今度帰りました。脳溢血で半身不随で帰りました。近藤元、これは帰りました。中島要吉、西脇宗吉、磐井虎二郎、椎名正健、古賀龍太郎、井關仭、長島勤、梅村篤郎、伊達壽郎、落合鎭彦、龜山林二、有馬、これは名前は知りません。それから亡くなつた方では、野溝武彦、米山久馬、村上啓作、この三人は亡くなつたのであります。それから次は太田貞昌、高橋重三、高橋重三は帰りました。岸川健一、竹下義晴と林光道、これは今度帰りました。鈴木啓久、桑田貞三、藤田茂、清水規矩、中山淳、有林、ちよつと名前は忘れました。この中山と有林は入院しております。新美二郎、今利龍雄、岡部通、津田賜、福士、これはちよつと名前は知りません。若井、これも存じません。齋藤義夫、青木謙、もう一人後藤という方がおりましたが、これも古いのでちよつと名前を失念いたしました。土谷直二郎、この方は亡くなられて、遺族に通知して置きました。本郷義夫、只今の櫛淵、それから小川權之助、堤夫夾貴、仁保、この方はちよつと名前を失念いたしました。原田、この方もちよつと名前を失念いたしましたが、入院いたしております。谷津愛三郎、南義人、宇部四雄、平野省三、河野、ちよつとこれも名前を忘れました。遠藤、これも名前を忘れました。大澤寅一、今度帰つて参りました。野口雄二郎、元総参謀長をやつておりました奉中將は、これはどこかへ連れて行かれました。その次は中楯啓嚴、庄司巽、柳勇、上坂勝、杉野嚴、中村一夫、ちよつと名前を失念いたしましたが佐古という方と四谷、氏原、太田という方がおりました。それから女屋嚴、濱田、この方も名前はちよつと存じませんが鹿兒島の方です。それから土居、この方もちよつち名前を忘れました。志波信孝、鹽澤清宣、安部孝一、鬼武五一、下枝龍男、それから熱海という方ともう一人佐藤という方がおりました。中村龍一、瀧昇、佐々眞之助、阿部安理、田山というのと後藤、築瀬幸三郎、これは今度帰りました。峰木十一郎、今川一策、その次が谷口ちよつとこれは名前を忘れました。原この方も名前を忘れました。川目太郎、大坪これは奉天におりましたから存じません。小畑、古谷健、河越重定、久保宗治、大野武城、坂間これもちよつと名前を忘れました。松村知勝、池谷半二郎、加藤道雄、瀧川これは主計の瀧川、矢野、金織、白井、それから獸医で高橋隆篤、小野紀道、軍医で梶塚、川島、村上、井上文夫、新田太郎、廣瀬、佐藤、井原、平松、これは藥剤官です。法務官で小幡。海軍では小川得一、堀、堀は鹿兒島の人、黒木剛一これは東京です。佐官の朝技大本営から連絡に参りましてそのまま捕虜になりました。今おりませんが、佐官で瀬島、長谷川、松浦、草地、村上、小林、柳田これは昨年帰つたと思います。杉山、中尉で中谷これは帰りました。満洲國軍の少佐で豐永先ずこれだけが武官であります。文官を御参考に申しますと樺太長官の大津さん、関東廳長官だつた武部さん、外交部長の下村さん、それから総務次長の古海さん、こういう方がおられました。それからまだ満洲國の参議で橋本元中將、それから井上忠也という御老体がおられました。高橋光信という方がおられました。これは皆今おられませんが、後は外務書記生が三名おりました。村上というのと拓植というのと福山。尚只今おりますのは文官で警務長と言いますか、満洲でそういうような関係の方武藤、小林、山崎、三谷、元満洲國の省長をしたおつた人です。それから判事で飯盛という人がおりました。大体こういう者が私の記憶で帰つております。
  48. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 委員長にこれはお願いして置きますが、今のはいろいろ参考になりますので、成るべく早く今のこの中に東京とか鹿兒島とかというお分りの点もあると思いますが、今度帰還された方の標しと、又死亡されたのがはつきりしておれば、それも今お読み上げになつたのを、一覧表を作つて各委員に分配して頂きたい。それからお尋ねしたいと思いますが、鏡泊湖から牡丹江を通つて、そしてお入りになつたわけですが、その日本の状況はそういう收容所において、何かお知りになる、手懸りになる、或いはラジオであるとか、或いは新聞とか、その他の印刷物とかそういうようなものが手に入るようになつておりましたかどうか、その点一つ伺いたいと思います。
  49. 星野芳樹

    ○星野芳樹君 今の矢野さんから日本の状況と單に限らないで世界のニユースですね、それをどういう形で知らされていたか、そういうとこをお述べ願います。
  50. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 今矢野先生からお尋ねになりました日本の状況といいますと、向うで日本新聞という新聞を出しております。それでまあ分るのでございますが、これは二日に一回乃至三日に一回発行されております。私共にはなかなか初め呉れませでしたが、相当遅れて参ります。その外はソヴィエトの新聞を、ソヴィエトのハバロフスクの新聞を殆んど毎日、これによりますと何か記事の関係でよく知りませんが、それも毎日寄越します。それからヨーロツパロシアのモスクワの新聞をときどき寄越します。それから大連で発行している大連に残つておる日本人のために発行しておる新聞、樺太に残つている日本人のために発行しておる新生活とかいうそれを送つて來ます。それから漢字新聞を大連で発行していると考えられる実話報という漢字新聞を寄越しました。最後の時期には昨年の夏頃から東部ソヴィエト占領地区のドイツ新聞を寄越すようになりました。その外に我々の耳に入りましたのはウオロシーロフにおります間は次々に増加して参まりす者が、或いは北鮮方面におりましたが出発までラジオを聽いておりました者がおりまして、丁度終戰当時の日本の状況は割合に知り得たと思います。爾後は只今申上げましたようなソヴィエト側の新聞の外は我々の伺い取るものはなかつたのですが、二十一年の暮に東京法廷に証人として喚ばれました瀬島中佐という者が帰つて來まして、それがこちらの状況を知らして呉れました。それから昨年の十一月頃にモスクワからこちらの收容所に変つて参りました者がモスクワの方で得た日本の状況を話して呉れました。それは武部さんも向うに行つておつたから日本に帰えられて武部さんに会つたという人から傳え聞きして状況を話して呉れました。尚そんなものでありまして、さつき申されました世界の情勢というものはその範囲でソヴィエトの新聞でロシア語のできます者が読んで聽かして呉れました。
  51. 岡元義人

    ○岡元義人君 簡單に証人のお答えを願いたいと思う。これは外に將官を收容しておる收容所があるのか。もう一つは戰犯として残されておる人に対して、御存じの範囲において、それから將官級に対しては共産教育をやつておられるのか、この点お伺いいたしたい。まだもう少しありますが、三点だけ……。
  52. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 將官の方はハバロフスク以外の收容所はよう聞きませんが、モスクワ附近には有力なる將官が行つておるらしいのです。これも傳え聞きでございます。それから第二番目に申されました戰犯として引張られておるだろうと思う者のことは、今岡元委員から申されましたが、これは私が皆樣に聽いて頂きたいと思つた一つでございますが、先ずウォロシーロフに行きましたときにあすこに元陸軍次官をしておりました冨永中將がおりました。尚櫻井という中國におつた少將がおりました。それから又小松という、これはロシア語が非常にできる少將がおりました。それはハバロフスクでどつかに連れて行かれまして、何か聞きますというと、冨永氏は飛行機で行つたということでありますが、それきり会いませんから多分どつかにおるだろうと思います。その次に申されましたのは、これは沢山ございますが、先ず秦中將、秋草俊、元の総参謀長をやつておりました秦中將は確か二十二年七月の二十日と思います。ちよつと記憶は悪いのでありますが、七月の二十日に、そのときに部屋におりましたところがソヴィエトの檢事という方が参りまして、これは檢事として拘引するというので、そこですつかり裸になりまして服を着換えさして、向うから持つて來た服を着せてそのまま連れて参りました。そのままで沓として私共の耳に入りませんが、昨年の暮にモスクワから帰つて参りました將官の言うところによれば、向うでドイツの將校の捕虜から聞いた話であるが、非常に耳の大きな人でありますが、非常に耳の大きい、背の高い日本のゲネラルが監獄に入つておる、監獄で会つたと言つておりましたから、多分秦中將でないかと想像しております。それからモスクワから來た人などにいろいろ聽いて見ましたけれども、一向分らんのは元旅順要塞司令官をやつておりました、ずつと前にハルピンの特務機関長をやつておりました柳田元三、それからそのときの特務機関長の、ちよつと度忘れしましたが、それとか、憲兵司令官をやつておりました大木という人がおりました、それとか、加藤泊次郎、このような人人は誰に聞いてもよく分りません。これは憂目を見ておるのじやないかと思います。それからあそこにおりましたもので分りましたのには、次のような人が分りました。その一人は秋山義隆という方ですが、この方は満洲國の最高顧問をやつておりました。それで一緒に私はあそこに参つたのでありますが、二十一年の一月から調査が始まつて盛んに調査されておりましたが、三月の終りか、或いは四月初め頃からどつかに連れて行かれていなくなりました。それから川目太郎という、これは川越の人でございますが、この方もやはりソヴィエトに行つておつたことがあるらしいのでありますが、この方もたびたび呼び出されて調査をされたり、監獄へ入つたりしておりましたが、結局昨年の六月か七月ですか、革命記念日のちよつと前でありましたが、これもどつかへ連れて行かれましてそのまま会いません。それから池谷半二郎という元ロシアの大使館附の補佐官をやつておつた人がございますが、この方も秦中將が行かれました翌日ぐらいにどつかへ連れて行かれました。それから軍医で梶塚という軍医中將の方と、軍医少將の川島という方は二十二年の六月でしたか、これもどつかに参りました。これはモスクワにおるという話でございます。それから後は武部長官はモスクワにおられるらしい。それから下村外交部次長と古海総務次長は昨年の八月頃に我々のところを出られたのでございますが、こつちへ帰つて來ていると思いましたが、まだお帰りになつておりませんから、ハバロフスクの收容所におられるのじやないかと思うのであります。尚それと同じ人々はさつき申されました、満洲國の参議の三人の方橋本、井上、高橋という方も同樣であります。外務書記生も我々の收容所を出ましたけれども、これはこちらに帰つておる模樣は見えません。佐官の瀬島、長谷川、松浦とかいうのも我々のところは出たのでございますが、長谷川と瀬島はハバロフスクにおるらしく、松浦はモスクワにおつたという話でございます。
  53. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 証人はこの十六名が御一緒にお帰りになつたのでありますが、まだ沢山居残つておるのが、おるのにどうしてあなた方だけ帰されたか、その帰國された理由について何か向うの帰す一つの標準なら標準というのがあつて、その標準に照らして合格したからそれで帰すというふうになつたのかどうか、皆目不明かどうか、その点を一つお説明願いたいと思います。
  54. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) さつきの岡元さんのお話がもう一つ残つておりましたから、それは將官に対して共産教育をやつたかというお話でございましたが、それと関連しておりますから……、收容所にはいわゆる民主グループというものがございませんが、所長が兵隊を集めて何かこのような教育を一、二回やつたということは聞きました。尚さつき申しました中におりました中谷という帝大を出た中尉であります。その中尉に命じて、パンフレットと基礎にして何か話をしたということを聞いておりますが、將官に対してはどうももう老爺は話をしても駄目だということを言つたそうでありますが、(笑声)併しこういうことはありました。これは二十二年の初夏から夏に掛けてだと思いますが、所長の命令によりまして、これははつきり申します。所長の命令によりまして、今読み上げました文官の下村外交部次長の両者と一緒に帰つて参りました簗瀬、これは早く少佐時代で辞めまして、どつか私立大学を出て満洲國に入つた方であります。政治家か何かだつた……もう一人松村少將、そういうような人に命じまして二人だつたと思いますが、或いは一人かも知れませんが、我々の方も二つに分けましてこういうことを話しました。一つはソ連の憲法についてのお話、三回ございました。それからソ連邦の國家機構と申しますか、そういうような問題について二回ぐらいやつた。それからもう一つは社会主義から共産主義へというパンフレットを出しておりますが、それを話をしまして、その教育を先ず所長の命令によつて三つのテーマにつきまして実施し、その他はもう將官は相手にされませんで、ただときどき呼ばれ、そのときにお前は日本新聞を読んでおるか、そんなものは読んでいない、読まなければいないと、こういうことについてはただそういうことを精々開く程度でございまして、何にもございません。先ずそういう教育はなかつたと、こう申上げた方がはつきりしております。次いで矢野さんの御質問よろしうございますか、私は皆んな残つておるところへぽつと帰つて來ましたのは、これは全く分りません。奇蹟だと思います。と申しますのは、私はソヴィエトのことは分らずソヴィエト人に別に近づいたことはございません。ただ私はシベリアには何も関係がありません。私の経歴は大体士官学校の経歴でありました。若いときから士官学校におりまして、大佐になるまで士官学校におりました。殆んど大部分がそうです。その間近衞とか何とかありましたけれども殆んど学校におりました。それから十二年の秋に連隊長になりました。四八の連隊長になつたのでございますが、それ以後は少將になつても中將になつても、ずつと支那の戰線におりました。十四年に支那に渡りましてからずつと戰線におりまして、二十年には例の桂林作戰に参加をしまして、廣西省の端から貴州省まで私は歩いておつたのであります。そのときに、二十年の三月に満洲へ新らしくできる師團長に任命するというので、もう一遍師團長で満洲へ参りました。そのまま捕つてしまつたのでそれから三年ばかりおりましたが、結局私は昭和十二年に家を出ましてから今度初めて日本に帰つて参りました。そういう状況でございましたので、ソヴィエトには何も関係はないということが主なる理由ではないかと思います。兵團長として帰つたのは私だけであります。後の方は職務は兵事部長と申しますか、内地で申しますと連隊区司令官のような職務をされる人がある。技術將校が一人、主計が一人、満洲國の人が帰つた。後は皆そういう職務の方、私だけ帰つたのは自分でも分らない。特に私がソ連人と接近をしてソヴィエトに好意を持つたということもないように自分でも思いますし、すましておりましたので、何もないのでございます。但しこの最後にございます、特に飛行機で送還された理由というところに何か又お訊きになつたら申上げますが、今このことを、そのまま申して、よろしうございますか。
  55. 岡元義人

    ○岡元義人君 先程私も三つだけ申上げましたのですが、もう二つだけこれに関連してお答え願いたいと思います。大体今までのお話を承つておりますと、よく見聞の程度という点については御存じない、こういう工合に考えられるのでありますが、併しながら今までに戰犯等ですでに処刑された日本人の俘虜等において、処刑されたということを証人はお聞きになつたことがあるか、又は御承知の点があるか、この点と、もう一つ、これは樺太地区から日本の警官、それは巡査講習所に入つている者、一ケ月間くらい講習を受けた者も全部ソ連に連れて行かれたわけですが、そういう人達のいわゆる刑に服している、受刑しておるというようなことをお聞きになつたことがあるのか、その点も合せて一つ御承知があつたら御存じの範囲でお答えを願いたいと思います。この二つの点についてお願いします。
  56. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) これは殆んど私存じません。但しこういうことは一つありました。これは私共のおりました收容所の前にもう一つラーゲルがあつたのですが、そこに火事がありまして、二十三年の暮でございました。十二月の二十五日頃に火事がありまして、燒けてしまつたのであります。それで何でも兵が大分沢山燒け死んだということを聞きました。そのときに後から聞いたのでございますが、そこのラーゲルの大隊長をしておる人が十五人とか、刑に処せられたということを傳聞いたしました。私が自分で聞いたのでありません。傳聞いたしましたその範囲でございます。樺太の方のことは全然存じません。    〔「議事進行」と呼ぶ者あり〕
  57. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) それでは第一の点と第二の点をこの程度にいたしまして、第三の問題に移りたいと存じますが、各官等に対する待遇、どうぞこの点について御質問願います。
  58. 岡元義人

    ○岡元義人君 私からお伺いしますが、我々は今までの情報等によりますと、非常に差別待遇が行われている。で將官、佐官、尉官、兵、こういうものに対してどのような処置が採られておるのか、その点お分りになつておる範囲でお答え願いたいと思います。又もう一つソ連でそういうような待遇をば階級的にも区別してはつきりと区別して待遇されるということは、若しありとするならばその点についてどのようにお考えになつたか、その点合せてお聽きしたいのであります。    〔委員長退席、理事草葉隆圓君委員長席に著く〕
  59. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) お答えいたします。私共はソ連は階級がないと思つておりましたが、ソ連では將官だけは大変大事にしております。と申しますのは、向うでソ連の新聞を飜訳して貰つたのを読んで見ますと、例えば炭鉱の労働者にはどんどん階級を與えてその最も成績のよいのは炭鉱のゲネラル、それから船の方の船員なんかでも成績のよいのは船のゲネラルというようなものを作つておるということを新聞に書いてありました。そういうふうにしてゲネラルというものを特別扱いをいたしまして、あそこにときどきソ連の將官が参りますが、ゲネラルが來るというと、皆非常にいろいろとよくやつております。そういうところが非常にはつきりしておると思います。それから私共が帰りましたときでも、汽車が随分混んでおりまして、私共乘つておる所へ沢山ソ連人が押し掛けて來ましたが、そのときに、そこにおる兵隊はゲネラルだと言うと、ずつと皆向うへ行つております。ゲネラルというものに対して大変特別待遇を與えておられるのじやないかと思いますが、それで私共に対してもゲネラルという名前において大変に尊重したように思います。それであとの左官以下は殆んど一律でございました。殊に最後の民衆運動が始まつてから以後は殆んどそういうことは階級なしで、これは確実に聞いたのでございますが、ヨーロッパの方から帰つて参りました將官が見て來たので確実と思いますが、ハバロフスクに着きましてから、向うから一緒に帰りました佐官や尉官は收容所に容れられたのでありますが、その收容所でも大隊長とか隊長は兵隊がやつておりまして、ヨーロッパから新らしく帰つて來ました大佐とか中佐とかというような人は皆一兵員として扱われて、その指揮を受けてやつておるということを聞きましたが、大佐以下は殆んど一律であつたと思います。労働もやつております。將官だけには労働もやらせません。今の第二の問題、御質問は大体それで含んでおると思いますが……。
  60. 草葉隆圓

    ○理事(草葉隆圓君) 三の各官等に対する待遇、外にございませんか。  次に四の死亡者、病人の状況、記録の有無、死体の処理等につきまして証人から証言をお願いしたいと存じます。何かこういう点につきまして、御記憶なり、参考になることがありましたら……。
  61. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) それでは申上げます。百四五十名もおつた將官の中で、相当老年がございまして、六十以上が四〇%以上おつたのじやないかと思います。それで亡くなりました者も年寄に多うございますが、約一割、十四人ございました。その外に文官が一人と、結局十五人死んだわけでございます。そのちよつと内訳を申しますと、脳溢血が一番多うございまして、あとは腸の病氣が一人、肺が二人、風土病の熱が一人、胃癌が一人おりました。そういうような状況でございまして、この方々のお名前も私存じておりますから申上げてよろしければ申上げます。それから病人はやはり年寄でございますから、血圧が非常に高いのが多い。私も血圧が高い方で、そう昔は高くはなかつたのでありますが、帰りましてから二百四十になりまして、医者がやかましく言いまして靜養をしておりまして、こつちへ來るときもまだ医者はウンと言わなかつたのですけれども、大事の会議だから俺は死んでもいい、何とかして呉れと言いまして、血を少し拔いて貰つて参つたわけでありますが、非常に血圧の高いのが多いのであります。その外に持病を持つておる人、例えば喘息とか神経痛とか、さつきお話になつた佐々木到一閣下なんか神経痛で弱つておられた。そういう持病を持つておる方は、家であつたら藥を飲んだり介抱したりして漸く生き延びて行く程度の人が多いのでございますから、相当老人に伴う病氣が多いように思いますが、これに対する設備と申しますと甚だ不十分でございます。これははつきり申上げていいと思いますが、ちよつと一例を申しますと、これだけの人員のおります收容所に休養室がないことです。入院とかあとは全部自室で休む。ちよつと腹をこわしましても、まあ最後の時期にはお粥などを炊いて呉れましたが、初めは同じで、結局パンとバターぐらいを食う程度で、病人用の食物も別にないし、軍医はおりましたけれども、程度の低いように私は見ました。それから最後の時期には、日本人の將官の軍医を使いましてやつておりましたので、その辺は大体よく行つたと思います。医療につきましても相当よくなりましたが、初めのうちは大分困つたんでございます。それで死ぬ者も急にばつと倒れてそのままになつてしまうというのが多くて、私の友達で野溝という元の中將がおりましたが、これは腸がいつも悪かつたのでありますが、食物の関係で粟なんか食べますと、必ず腹が悪くなる。初めは皆持つておつた米なんか出して重湯を作つたりなどしてやつておりましたが、少しよくなりまして、今度又粟をその次の年に食べさせましたときに、腹が詰つたようになつて、急に二、三日で死んでしまつた。こういう状況で、予防の方法とか、こういう病人だからこういうふうにしてやろうというようなことは、余りやらんようでございました。病氣即ち重病即ち死ということになるのでございます。これからまあそういう状況が続くのじやないか。但し血圧につきましては、大分死にますので、昨年の十月頃に高血圧の者だけを部屋を別にいたしまして、二部屋作りまして、一部屋に十一名乃至十二名ぐらい入れました。そこは少し寢台の間が廣く、電燈も明るくし、敷布なども新らしいのを入れまして、藥も何かヨーボツのようなものを飲ましておりました。それからビタミンなんか呉れまして、大分優待しております。よく血圧を測つたりなんかしておりましたが、血圧を測るばかりで、こういう血圧だからこういうふうにしてやろうということは余りやつておりませんが、そういうことには注意はされておるようであります。
  62. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 証人の言われるところから考えられるのでありますが、食物ですね。あれは調理は誰がやつておるのでありますか。ソ連人がやつておるのか、日本人がやつておるのか。若しソ連人がやつておる場合、困る場合に、これを日本人にやらして呉れと言うて申出られるのか、申出た場合はどうなつたのか。    〔理事草葉隆圓君退席、委員長著席〕
  63. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 医者のことにしましても、將官連中はどうも向うの医者が我我に適しないから、医者を換えて呉れということを申出られたことがあるか、あつてもそれを向うで受付けなかつたか。部屋で弱い者を丈夫な者とがおつて、それなんかもこちらの申出で弱い者は弱い者のような扱いにして呉れということをなさつたか。なさつても、向うは受けなかつたのか。私はこちらから正当な理由を以て向うへ交渉するのは当り前であると思うんだが、それが先程のお話からすると、交渉なされなかつたのではないかという感を受ける。外の帰還者の場合を見ると、もつと積極的にやつた場合と、やらない場合とで大分違う。その点を一つ……。
  64. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) お答えいたします。食べ物はソ連の方の主任者が一人おりまして、それがメニューを作り、そのメニューによつて実施いたします。その実施するのは、主任者は向うの炊事婦でございます。女でございます。それに日本兵がお手傳をしてやつております。これはメニューについてもたびたびこちらで意見を申しまして、段々と改善をして呉れたのでありますが、ソ連の炊事婦を信任しないで日本人を信任するということについては、たびたび意見を申しましたけれども採用しません。メニューについてもこちらの意見を言つても採用しません。向うのそこらにおります所員の人員の関係だと思います。このことについて私感じましたのは、ナホトカに着いて聞きますと、全部日本人がやつておりますのですから、日本人に適する料理をやつておる。小豆があるとそれを取つておいて、米が入つたときに、それでぼた餅を作つて兵隊にやつておる。ハバロフスクの我々の收容所では一日々々しか呉れません。一日呉れたものをその日にソ連のメニューによつてソ連の主任が作り、こちらは命を受けてやつておる。これをやらして呉れということを申出ましても、実行して呉れません。その次には医者のことですが、これもたびたび申しておりまして、向うでは必要を認めたならばプロフェサーを招んで來たりして診さしております。一例を申しますと、向うに残されておると思われる、どこかへ戰犯かなんかで連れて行かれたと思われる川目という少將は、これは血圧が高いのですが、或る日に向うの医学校のプロフェサーが参りまして、そうして総司令官の健康を診ると言つて総司令官の健康を診て、その足ですつと入つて、一番目に川目を診て、あと二、三人診で帰つたんですが、その一日、二日おいて、川目太郎はどこかへ連れて行かれた。そのとき川目は血圧が高いのでどこかへ連れて行かれるのはおかしいぢやないかと言うと、彼はプロフェサーの診断を受けるので大丈夫だと言う。こういう実例もございました。これについては相当の医者がこちらにおりますので、医者が積極的に出て行つて働いておる。向うが必要と認めた場合には偉い医者を連れて参りますが、その他は極く若いお医者さんがおりまして、そして藥も大してございませず、医療設備もないのでございます。入院は必要があつたらさして呉れますが……又部屋のことでも、非常に日当りのいい部屋と悪い部屋とあるのですが、日当りのいい部屋二つを取りまして高血圧者を集めたんですが、その外にも高血圧じやなくて、例えば脳溢血の予後とか、脚氣で杖ついて歩くとかいう人は、外のところの部屋におりましても、それは入れない。それはこつちから申出ましても、採用して呉れないのです。盛んにこちらの医者が申しておりますけれども、やはり向うの一つの方針に基いてやつておるのだと思います。そういうのは採用せんで、ただ血圧の高い者だけを集めてやつております。それから、ちよつと病氣しましても、看病する者はおらん。看病はお互いに自分でやる。私の隣りにも少し動脉硬化の方がおりまして、ときどき発作をしますけれども、飯も藥も持つて來てやらなければならんので、飯だけ持つて來てやりますけれども、世話をするのは私達でやるのです。さつき申したように休養室がございましたならば休養室へ入れて、そうして看護兵のようなものをつけて、世話をしてやつたらよいじやないかということをたびたび申したけれども、採用いたしては呉れませんでした。
  65. 岡元義人

    ○岡元義人君 簡單で結構です。お墓参りに行かれたと今証人はおつしやいましたが、その死体はどういう工合に措置されておるのか。そうして例えば証人が收容されておりました收容所等においては、日本人が死亡したというようなことに対しては、確実な記録は残してあるのですか。それから場所。そういうものに対しても、將來講和條約でも終つて、例えば死電を発掘するとか、そういうような問題が起きたと仮定いたした場合に、そういう措置ができるような状態にあるのか。その点、これは今証人のおられた收容所の場合についてお尋ねしたのですが、それから判断いたしまして、一般の死亡者というものが、今まで確実に記録として残されておる、こういう工合に証人はお考えになつておるか、又お聞きになつておるか、その点を伺いたいのです。それからこの問題は、証人がお帰りになりましてから、いろいろソ連の状況、内地に帰りまして向うにおられたときの状況等を判断されて、実際に今残されておるという人達の次の問題にも出て來るのですが、どのくらいの死亡者があるかというようなことが、確実に分つておるか、そういうことをば知つておられますかどうか。併せてこの際お答えを願いたいと思います。
  66. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 墓参につきましては、こういう経緯でございます。昨年の夏頃から非常にいろいろ親切にして呉れる傾向があつたのでございまして、そのときに或る機会に、所長にこういうことを申しました。日本では死者の霊というものは非常に尊重するのである。それで盆には皆墓参するということになつておりますが、今年は墓参をさせて呉れまいかということを申しましたところ、まあよかろう、だが歎願書を出せということで、一人に一人ということを制限して参りました。ハバロフスクにお墓があるのでありまして、確か六人だつたと思いますが、これらの皆同期生とか、親しい人達が署名をして、山田大將以下歎願書を出したのであります。そうしましたら許可を與えて呉れました。そのとき私も参りましたのですが、トラツクを出して呉れまして、向うの將校が案内して墓へ参りました。その墓地はソ連人墓地の一部にございまして、一般のと同じところに区画を作りまして、そのところに日本の將兵ばかりを入れてございまして、私が見たときには、將官のものは六名ございました。それからその他に小さな墓が沢山ございまして、皆そのところは日本人の誰々であるということがはつきりと書いてありました。それから外には一つの大きな墓標が立つておりますが、それに沢山名前が書いてありました。その中には一緒のところで沢山の人が死んだのではないかと思いますが、墓参の経緯はそういうわけでございます。それから今度は昨年の十月頃になつてから、モスクワから向うの將校が参りましたときに、いろいろ何か頼みたいことはないかと言うので、ハバロフスクの方は墓参をさせて  貰つたが、五六時間かかるところにホールという病院があるが、そこで死んだ者が数人あるから、それに対する墓参りもしたいと思うと言つたところが、それは一つ所長に歎願書を出したらよかろうということで、これも許して呉れました。ここに参りました人の話を聞きますと、そこは名前は書いてないそうでありまして、皆番号があつたそうであります。誰が誰であるということの元張は病院にあつたということであります。これに聞いたのでありますが、初めの墓参の方は私が参りまして、墓の掃除をして花を捧げて帰つて來たのであります。ホールの病院に参りましたときに、或る將官喜多大將のお墓へ行つたが、そのときにこういうことを言つたそうでございます。これは墓地というものは私はよく存じませんが、墓地管理委員会という國際的なものができておるそうですね。それがあるので、いつでもここへ來て誰々のどこどこの墓を見せろと言われると、見せなければならん。それでこういうふうに整理してあるのだ。どこかヨーロッパの方でドイツから見に來たものがあるということを申しておりました。將來平和にでもなりましたならば、こちらから行つて骨を持つて帰るということもできるのじやないかと思います。ハバロフスクの方で私が見ましたのは、皆んな墓は一つずつ名前を書いて墓標が立つておりました。沢山あるのはできませんけれども。各員ごとに分れておるのはできるのじやないかと思います。ホールの病院の方もそういうふうに整理がしてあるということを聞きました。それから死体の扱いでございますが、御承知の通り、宗教を余りあれしませんから、ソ連人のお葬式を一つ見ましたが、私の所員が一人死にましたので、トラックに絨毯を敷きまして、その上に棺を載せまして、棺から顔だけを外に出しまして、それを花環ですつかり包みまして、樂隊がついて、それを皆で送つて行つておりました。我々の方の死者に対しては、初めは確たるやり方も決まつておらなかつたのですが、こちらから懇願しますものですから、先ず死にますというと、盡く解剖いたします。解剖には日本の軍医が一人と親しい友人が一人立会いまして、そうしてそこで死体を引取りまして、服を持つて行つて着せまして、棺に入れまして、或るときには一度訣別をするために收容所まで寄越しましたが、或るときには寄越しませんでそのままでした。それから墓へ持つて参りまして、日本兵が掘つた穴へ入れて、そこへ土をかけて、墓標はこつちから持つて行きますが、墓標を立てて、千八百何十何年に生れて千九百何十何年に死んだということを書きまして、名前を書いて、十字架を立てました。私共の関係したところは、死体の取扱いはそういうふうでございました。これは余談でございますが、満洲國の元南京の大使をしておりました呂という人が亡くなりましたときも、やはりそういうふうでありまして、こちらへ訣別にも寄越さないで、そのまま行つてしまいましたので、死体を大切にする中國の人は非常にがつかりしておるように聞いておりましたが、私共の方では、差支ない場合は、大抵訣別させておりました。それから一般の人は、私の見たハバロフスクの一部のところには、確かに墓標がございます。ホールの病院は、あつたそうでございます。それ他のところは存じませんでございます。それからどのくらい沢山死亡者があつたかということも、私は判断がつきかねますし、確実にここで申上げるような材料を持ちません。
  67. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) それでは次の第五点の入ソ残留人員、この問題について御質問を願います。
  68. 岡元義人

    ○岡元義人君 今までの消息から判断すると、証人は、この点ははつきりお分りにならないかも知れませんが、分る範囲でお答え願いたいと思います。ここで関連してお聽きして置きたいと思いますことは、一体ソ連に連れて行かれた、その次の問題にも出て來るのですけれども、総合的ないわゆる記録と申しますか、或いは、勿論ソ連にはありませんが、他の地区にありましたような終戰処理事務をとる例えば日本人の実際の処理をば、日本人で分るというような、そういう機関は全然將官の中でもなかつたわけですか、その点一つ明らかにして頂きたいと思います。
  69. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) これは今岡元委員が申されましたように私には分りません。分りませんが、私共の一番心配いたしておりますのもその点でございまして、私の部下は最後のときには約一万二千人おりました。それがどうなつておるかということが一番私共の悩みでありました。それを調べたいのでございますが、何ら調べる根拠もございません。尚牡丹江附近で戰鬪いたしました師團長から、後を見にやつて貰いたいということを盛んに懇願したのですが、それもできることではございませんので、その辺で沢山本当に屍を晒しておると思うのでございます。人員につきましては、もう全く私は自分の師團の外存じませんし、さつきのような目隠しされた状態でありましたので、何も申上げることはできませんで、誠に残念でございます。
  70. 淺岡信夫

    ○淺岡信夫君 証人にお伺いしたいのですが、今大体総司令部の発表ですと、四十六万九千名という者で、その八十%まではシベリア地区というふうに聞かされておるのですが、証人のおいでになつた場所におきまして、そういうふうなことを、飛行機に乘つて発つまでの間に、ソ連地区に残つておる人員というものにつきまして、大まかなことなんかもお聞きになつたことはありませんか。
  71. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 全く毎年人員は私共どうも心配して聞くのでございますけれども全く分りません。
  72. 淺岡信夫

    ○淺岡信夫君 重ねてお伺いいたしたいのですが、先程証人は自分の部下が一万二千人であつた、その問題に対しては非常に心配しておる。或いは他の師團長はかくかくであつたというような話しをされておるのですが、こうしたソ連に残された、或いは俘虜となつておる人達の問題に対する証人同士、同僚同士話合つたり、或いは噂し合つたというようなことはありませんですか。
  73. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) それは一番の私共の悩みでございました。四六時中会う度に話しております。それから先程私が申しましたが、元の同じ隊におりました者が、ちよいちよい何とか連絡をして呉れるのであります。誰々がこうだ、誰々が残つておる。今度帰りましてから、ラジオや新聞で出ましたので、元の者が訪ねて呉れたり、手紙を寄越して呉れたり、誰々は帰つて來たから話して呉れということを言つて参りました。そういう状況で皆一番それを心配をいたしております。
  74. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) それでは次の第六の問題、終戰後及びそれ以後の部下の状況、俘虜はどんな状態であつたか、衞生取扱等について。
  75. 岡元義人

    ○岡元義人君 御質問がこれは重複して、もうすでにいろいろ述べられておりますから、そのうちお帰りになりましてから、吉村隊事件というものを新聞紙上で御覽になつたと思いますが、ああいうような事件が他にも相当あつたというふうにお考えになりますか、その点伺つて置きたいと思います。先程も人員の点について御質問申上げたのですが、例えば関東軍なら関東軍というものの一切の兵器の処理等はどういう工合にソ連当局に渡されておるのか、そういうようなことは一体誰が知つているのですか、その点一つ特に將官の方々が寄つておられて、誰がどういう工合にして分るのか、その点一つお話し願いたい。
  76. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) これは関東軍の参謀長、参謀副長などがおりまして、そういうような者が話しておるのを聞きますと、終りのときに何ぼということだけは申しておつたそうでありますが、実際は軍人以外の人間が大分入つている。実際私共ナホトカでいつも世話しておる人がおりましたので、聽きますと、軍人ではありません、私は鉄道へ入つておつた者だということを申しておりました。それから開拓團の子供なども連れて行かれた、軍人以外の者が大分行つておるようでありますから、ちよつと私に分りかねます、吉村隊事件のことは新聞で拜見いたしまして、近くここでも御審査になるようですが、そういうことは私共の目には入りませんでした。但しこういうことがございました。ナホトカに参りますときに、或る兵隊が我々のところへ來て雑談しておる間に、寒い所で兵隊を、電信柱に裸で結い付けて殺した將校があるそうです。そういうことはなかろうと思うが、本当かえ。私はそういうことを聞きました、ということを兵隊が申しておりました。そういうことは、他には私共の耳には入つておりません。向うの新聞にハロンアルシャン方面で部隊が行軍中に食糧がなくて、非常に沢山死んだということが出ておりましたので、それも向うの人に聽きましたけれども、そういうことはないよと言つておりました。そういう程度であります、誠に不十分でありますが。
  77. 淺岡信夫

    ○淺岡信夫君 証人にお尋ねしますが、收容所においでになつた將官連の中に、非常なソ連通の人もおいでになつたと思いますし、殊に言葉の非常に上手な人もあつたと思うのですが、それにはどういう方がおられたのですか。
  78. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) お答えいたします。ソ連通の方と申しますと、今どこかえ連れて行かれた者は別として、総参謀長、これはソ連の大使館附武官をやつておつた、その部下におつて補佐官をやつておつた池田半次郎、それから國際裁判の証人として出ておつた松村知勝という少將、これも大分ロシア語もやり、参謀本部とか、ああいう要職にいたので、これはソ連通と思います。飛び拔けて優秀な人はそんなものだと思います。あとは軍司令関係の人では第五司令官をやつたあつた清水規矩、この人はポーランドとか、あの辺へ行つておつたように聞いております。それからさつき申した川目太郎という小將、これも権威者です。それから黒木剛一少將、これは大学でロシア語を專攻せられた、ロシアにはおられないで樺太へ行つておられた。新聞などもこの方が読んで下さつた。その他向うへ行きましてから頭のよい者は、ロシア語が一通りできるようになりました。殊に若い將校などは相当できるようになつておりますが、老人は駄目であります。
  79. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 証人にお聞きしたいことは、入所当時軍隊組織で、日本の軍隊組織そのままで配置していて、相当長い期間……場所によつて違いますが、あなたは將官として全部お分りと思いますが、入所当時はどんなんですか。これがその後におけるリンチ事件とか何とかとも関係があり、食糧の横流しなんか兵隊のやつたこともあるし、現に共食いをやる生活で、非常に苦しかつたという点がありますので、それも大分関係がありますから……。
  80. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 私の部隊はこの間こちらに帰つてから合いました將校の話によりますと、將校は別にされて別に行つたそうであります。兵隊の方は引率して千人を以て一個大隊に編成されて行つたようであります。それから軍隊組織で行つたということを開きましたが、それは千島におりました堤という師團長がおりました。二十二年の夏頃に私の方に参りました。それは皆んなと一緒におつたのでございますが、師團長も旅團長も皆一緒でそこに兵隊も皆おつて非常に心強かつた。その外は聞きません。後は將校ばかりでカザンというところにおつた。兵隊は兵隊でおつたということでありました。
  81. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 私がお聞きしたいのは將校と兵隊とは分けまして來ております。その通りで、あなたの場合にもそうだと思いますが、分けた後やはり指揮命令の系統を作つたのだろうと思いますが、それは尉官、佐官がなくなつたけれども、その軍隊の組織を、その中で日本式に作られたかどうか、お分りになつているかと思うが……。
  82. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) それは私の聞きました範囲では一人満鉄の調査部におつた岩佐という補充兵の二等兵が一人おりました。これはなかなかものの分つた人でありますが、それの聞いた話によれば、私は前の大隊に兵隊としていたところでは大隊別官をやつておりましたということを申しておりました。その程度でございまして、私共のところはもう全くソヴィエトの方の扱いが將官と兵隊を別にして扱つて呉れておりましたので、さつきもちよつと申上げたのですが、將官と兵隊とは食事の量が違いますので、それを一緒にいたしまして、同じものを食べておつたという状況でございましたが、その外のことは一向聞きません。ただ今の岩佐のことは確実に聞きましたから申上げます。    〔「議事進行」と呼ぶ者あり〕
  83. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) それでは次の第七点、本年送還に関する何らかの徴候というような問題について……。
  84. 淺岡信夫

    ○淺岡信夫君 証人にお尋ねしたいのですが、昨年の十二月の初めに引揚が中止されましてから今日までの間にとにかく帰られましたのは、証人以下十六名の方と思うのであります。而も帰られましたその一切のことは先程來聞いておるわけですが、帰られる間におきまして、或いは向うのナホトカにおきましてでも、今年の引揚げの再開が、昨年は五月であつて、一昨年は四月には再開ができたのでありますけれども、そういうふうな点につきましてナホトカにおられました当時聞かれたことがございますか。
  85. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) お答えいたします。私はハバロフスクを出ますときに、向うの所長が呼びまして、あなたはソ連政府の命令でナホトカに移動する。そこから先は日本に帰る筈であるというようなことの話が出まして、何かソ連政府に対して希望はないか、こういうことを申しました。私は帰して頂くのは、私が一番最後に残るものと覚悟しておつたのに、帰して頂くのは有難いのだが、外の人々はどうなるのかということを申しましたら、それは分らないし、言えない、こういう返事がありました。ナホトカに参りましてから初めは船で來るつもりで來たのでありますが、途中送つて來ました將校と出迎えに來ました將校が途中で会いまして話をしておりましたが、日本の船がこういうふうに待つておるぞと言つておりましたから、船があるものと思つて行つたのでありますが、そうしてナホトカに入りましてから病人がおりましたので、診て貰いに、我々は軍医室に行つたところが、軍医がおりまして、船は十二月二日でお終いですよ、おりはしませんよ、こう言うのです。おかしいな、我々は船え乘れというソ連政府の命令によつて來たのにおかしいなと思つておりましたが、随いて來ました情報係の下士官と兵が私と一緒に來ておりましたが、その將校に、船も何もおりはせん、しようがないじやないか、俺ももう向うに帰れないと言つたら、いや來るよ來るよと言うので毎日船の汽笛が鳴ると、來たぞ來たぞと見ておつた状況でありましたが、一週間くらい盛んに電報で向うに知らしておりました。そのうちにもう我々は帰れという命令が來たから、あなた方は船の來るのを待ちなさい、こういうことで別れたのです。そのうちに船が來ませんで飛行機で帰つたのでありますが、その間暫く四十日ばかりナホトカにおりましたのですが、向うの……これは後の問題で申上げるかも知れませんが、將校が非常に親切にして呉れまして、毎日のように來て呉れまして、おい、何も冷たいことはないか、食事は十分かと言つて毎日來た。その間にいつまで一体おるのか、我々はソ連政府の命令によつてここから船で帰るのだが、あの命令をどうするのかと言うと、いやそれは今に四月の中頃か、五月になつたら船が來るよ、來れば帰れるのだから暫く我慢して貰いたいと申しておりました。それからもう一つ大事な情報と我我が判断していいと思うことは、盛んにナホトカで建築をやつておりまして、私が行つておりますと、ナホトカの港は凍つておると教えられておつたのでございますが、碎氷船を出すとか、何とかいう問題が毎年出ておりましたが、凍つてはおりません。私は一月の初めに行つたのですが凍つてはおりません。ただ岸の辺りが目茶々々に崩れておるので、漸く通つて來たのですが、ソ連の船はどんどん出たり入つたりしております。それからもう一つは、飛行機で今度帰りますときに、ウラジオを出ましてから一生懸命下の凍つておるのを見て参つたのであります。そうすると大体氷塊がいろいろあるのが約一時間、それからあとはなくなつて、あと一時間経つたら佐渡の島が見えて來たのであります。そういうふうでありますから、船が通らんというのではなくて、ナホトカにおける設備の收容力がないのじやないかと思います。殊に防寒の設備が、私共が入つて行つてから我々のために別に作つて呉れたらしいのですが、バラックでございまして、とても冬は寒くて堪らん。それを今盛んにやつております。殊に大工の兵隊が私のところに二十人ぐらいおりまして、毎日々々やつております。その話を聞きますとこういうことを言つております。我々は同胞が帰るなら、帰るまででも氣持よくやつてやろうと思つて、それで家を作つておる。私共のいたのはテントですが、テントではかわいそうだからと言うので、壁を塗りまして、上に板を張りまして、この板も皆働きに行つて向うで板を貰つて來て、いろいろな方面から貰つて來て張つておるということを申しておりました。で今沢山作つておりましたから相当の收容力を持つと思いますが、そういうところの設備が足らなくて冬になつたら因るのじやないかとそのとき想像したのであります。それでそれはちよつと耳寄りと言いますか、何と申しますか、そういうふうに私は見て來たのであります。そんな状況でありました。
  86. 淺岡信夫

    ○淺岡信夫君 更に証人にお尋ねしますが、そのときにナホトカにおいでになりましたときに、飛行機で帰られました証人以外に、いずれ帰されるというような兵隊、或いはその他の日本人が收容所におりましたでしようか。
  87. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) それはよく分りませんでしたけれども、飛行機で帰すということはないと思います。これは空前絶後だと私は思うのであります。そこにおりました兵隊でこういうことを申しておりました。この間随分ここに集まつておつたけれども、船が出ないので又山に木を伐りに行きましたと、山の方に木を伐りに行きましたということを申しておつたのを聞いたんでありますが、私共が見たのは、一月の二十日前後だと思いますが、このとき十五、六人集まりまして、まあ外にまあ我々の世話した兵もおつたのですが、明日から余所へ換ります。どうした、いやどつか働きに行くらしいのです。皆支度をして、いろいろな冬物を、毛布なんか担ぎまして、十五、六人出て行つて、そうすると向うからも出て行く、若干ずつ集まつてそのまま一つの固まりになりまして、どつかに行つて働くということを申しておりました。そういう状況でございますから、一度集まつた者が又働き場に帰つたのではないかと思いました。
  88. 淺岡信夫

    ○淺岡信夫君 そこで私共帰還して來た人から聞いた点でありますが、ナホトカには收容所が四つあつて、そこに常に二、三万の人が船待ちをしておる、というような状態である。ところが日本から船が來ない。たまに入つて來た船が二千人とか二千五百人とか帰すんですが、その四つの收容所には二、三万人の人が残つておる。船を待つておる。船が來んから、今証人が言いましたように奥地に木を伐りに行く、或いは更に收容所に帰るというようなことが非常にもう常時のことだ。なぜ日本は船を寄越さんのだろうかということを、帰つて來ました人は直ちに言われるのですが、証人が向うにおいでになりましたときに、日本から船を寄越さんとか、だから帰れんとかというようなことをお聞きになつたことがございましようか。これは簡單でよろしいですから、更に私続いてお伺いしたいと思いますから。
  89. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 聞きました。ナホトカで聞きました。それからソ連の新聞にも日本新聞にも出ておりました。こちらの輸送は非常に確実に行くのだけれども、日本から船が來ないから遅れるということを書いてあるのを見ました。私は見ました。
  90. 淺岡信夫

    ○淺岡信夫君 そこで重ねてお尋ね申上げたいのですが、一昨々年の十二月の十九日に米ソ協定ができまして、それで毎月五万人ずつ帰すという協定ができたのです。その後引続いて帰されておつたのでありまするけれども、その年も十二月から四月まで中絶してしまつて、で一昨年それが再開された。昨年は更に五月から再開された。それがいずれも十二月になると駄目になる。ところが今の日本は保障占領下にありまして、独自の立場で船を出すということはでき得ないのです。で一昨年の十月の二十九日の第四十四回対日理事会に、この船の問題をシーボルト議長が提案しまして、そうして十六万人の人を帰してやる船の用意をする。更に冬季に入つた際には、碎氷船三隻までも用意するということを言われて今日に及んでおるわけです。この問題につきまして参議院の特別委員会におきましては、この実態を調査すべく舞鶴港、或いは函館港に参つたのであります。ところが高砂丸とか、或いはその他三十二隻の船を皆一應ここから派遣された議員が見て來たのです。そういうふうに船のあることは分つておるのです。ところが司令部といたしましても、ソ連側からの要求がなければ勝手に船は出されんじやないか、日本が勝手に出したとすれば拿捕される。こういうような点につきまして、証人が向うにおいでになつたことと今日思い合わせまして、日本から船を寄越さないのだというようなことに対しましての御心境はどんなふうでございましようか。
  91. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) それは私も申上げたいと思つておつたのでございますが、そういうふうに思い込まされております、向うにおります者は。こつちの輸送は順調に行くが、船が來ないから帰れないのだ、こういうように申されます。それから一昨年の春ですが、輸送が止つてから、日本新聞によりますと、対日理事会でああ言うけれども、我が國は六十何万かやつて、これの輸送をやつておるのだということも書いてありました。私共は日本に船があつたら寄越さんということはないと信じておりました。必ず寄越す。何かそれはそこに手違いがあるのじやないかと思つておりました。  こういうことをナホトカで聞きました。これは関係がありますから申上げます。或る兵隊の話では、どうしてお前ら残つたのか。いや、こうなんです。船が來ましても、或る船が來て、これは二千人ぐらい乘れる船と思つても職員なんかの関係で千五百人ぐらいしか乘せられないと言つて出てしまつたり、又沢山集まつておるとき來ないで、少ししか集まつておらんとき船が來て、それで滞在時間が決まつておるので出てしまうということがあつて、だから遅れるのだということを申しておりました。今申上げましたようなことは、皆向うでは信じております。信じさせられております。
  92. 淺岡信夫

    ○淺岡信夫君 そこで証人に重ねてお尋ねしたいんですが、先程証人はハバロフスクからナホトカまで出て來られた。そのときにソ連の將校は非常に親切であつた。船の問題なんかも非常に心配して呉れた。ところが船が來ない。そのときに証人はソ連の命令で帰れということで帰されることになつてここまで來たのに船が來ない。そうするとソ連の首脳部と、それからナホトカにおる將校といえば、これは下級の者だと思いますが、そういう間に一貫したものがないのじやないかというようなふうなお感じを持たれたことはございませんでしようか。
  93. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) ございます。私共はとにかく船で帰るのだ。最終集結所まで行つて、それから日本へ帰るのだと言つておりましたが、勿論船はあると思つたんです。又こういうふうにも考えたのです。まあ今年は暖かいからまだ船が來ているだろう、そうでなかつたら、最終の病人だけでも引揚げるために病院船が來ておるだろう、こう思つておつたんです。ところが將校はそういうことを申しますと、非常に困りまして、しよつちう電報で何か照会しておりました。それで或いは下級の者は無論存じませんと思いますが、連絡はこれは勝手に出すわけに行かんのだから、日本の方も占領治下にあるのですから、アメリカとの交渉で、これは又特に今年は出るだろう、病人だけでも帰せるのじやないかという私は希望を持ち、まあそういう感じを深くしたんです。それで海岸に行つて、病院船が入つて來ないかと思つて見ておつたのですが、その辺では向うにおる者は、一日千秋の思いで待つておるのでありますから、そういうことを考えるのは無理ないと思います。
  94. 天田勝正

    ○天田勝正君 私は遅く参りましたので、若しこの点を他の委員から質問があれば、その点は答えたということだけ申して頂けばいいと思います。それはすでにナホトカに四十日余りおりますれば、どうかして日本人の噂を少しでも掴みたい、これが人情だろうと思うのです。從つて毎日お世話する兵隊さんもおれば、それらの人々といろいろの情報の交換をやつておられたと思いますが、その噂の中で人民裁判のことを聞き、人民裁判の結果逆に元の收容所か何かに廻された、こういうような、見れば尚更いいのですが、聞いて來たというようなことがございますかどうか。それならその当時、恐らくもう船がないという状況でありますから、ナホトカへ沢山の部隊が來るということはなかつたろうと思いますが、若し來られた場合に、それらの兵隊が疲労困憊しているというようなこと、或いはナホトカに、もう前に働いておられた兵隊が疲労困憊しているというようなことをお感じになつたことがあるかどうか。
  95. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 初めの方の人民裁判のことはハバロフスクにいるときに、これはほんの噂でございますが、三十五人かハバロフスクへ帰つたそうですということを兵隊が言つておりました。表に労働に行つて……。そんなことがあるのかと思つておりましたが、ナホトカでちよつとそのヒントを得るような事実があるのです。それはどういうことかというと、私共が初めに参りましたときに第四分所というところに入つたのでございますが、暫く兵隊さんのところに一緒に二、三時間おりました、そのときに兵隊の方の委員のような人が出て來まして、これに書き込んで下さい、その一つは前職務は何であつたか、それからどこにおつたかというようなこと、外に、こういうことについてどうであるか、日本の民主政治についてどう思うかとか、それから日本共産党に対してどういう考えを持つているかということを書いて呉れと申しました。私はこれは私共はあなた方の管轄に入つておらないからここの所長を通じて言つて呉れと申しましたら、それはそのまま立消えになりましたが、そういう問題を出されていることは事実と思います。
  96. 淺岡信夫

    ○淺岡信夫君 それは誰ですか。
  97. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) それは日本の兵隊の中の委員です。そういう事柄に私共は遭遇したのでございますからはつきり申上げます。こういうふうに書いて呉れということを申しました。私共に直かに書かせるということはいけない、所長を経て言うて呉れないと困るからと言つたら、分りましたと言つて帰りました。皆書かしておると思います。それから疲労困憊の問題でございますが、これは見受けません。皆はち切れそうな顏をして働いております。但し風呂へは私共は十日に一回入つておりました。風呂を作つて入つておりましたが、中には顏を洗うのが面倒くさくて黒い顏をしておるのもおりましたが、元氣で働いておりました。ナホトカは給與は少しよいのじやないかと思つております。最後の收容所ですが、よく注意されておると思いました。
  98. 天田勝正

    ○天田勝正君 今お聞きした中では、戻されたというようなことは全然お聞きにもならないし……。
  99. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) それはちよつと聞きました。噂でございますから責任を持つては申上げられません。
  100. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 ハバロフスクからナホトカにお出でになるのは大体汽車であつたように伺つたのでございますが、普通の汽車であつたか、或いは特別の待遇であつたか、又普通の人が旅行するときに、丁度その当時あなたがお出でになるような所期において危險を感ずるような、いわゆる交通上困難を感ずるような状態であつたか。それからそれは今年だけが天候がよかつたので樂であつて、普通の年は困難であるのか。と申しますのは、実は昨年十二月の初めに私共はソ連代表部に、是非今年は冬季間の引揚輸送を継続して欲しいということを縷々懇願に参りまして、その後冬季間の輸送が中止と発表されましたから、更に十二月の中頃ソ連代表部に、どういうわけで中止になつたかということを強くだめを押しに参つた。そのときに、全く天候の都合で輸送の関係だ、こういうことであります。今年の冬の輸送を中絶したのは他に何らの理由はない。ただ天候と國内輸送力の関係、こういうことであるからと言うだけでございますから、この点について、今の問題が大変大きい問題になろうと思いますので、そういうお含みをお持ちになつて一つお考えを願いたい。
  101. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 私共がハバロフスクを出発したのは十二月二十一日で、御承知のように今年は非常に暖かかつた。二晝夜の旅行でございました。これは何らの危險はございません。それは普通列車で参りました。普通の乘客の一部の寢台を取つて呉れました。そこで我々だけが一緒に参つたのでございますが、それは併し一時だけの時期でございまして、全般を通じまして私はソ連当局の言明を打ち破るだけの材料を持ちません。非常に無責任になりますから、申上げかねます。
  102. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 さつきの話の中に、ナホトカでの設備が不十分であるからというようなお話、不十分というよりも、新らしく同胞が沢山作つておつた。テントでは工合が悪いから、更に働いて家を造つておつた。先程淺岡委員からもお話があつたように、四つの溜り場、收容所があつて、そこには相当平素から、冬季間でも收容しておる。そうしてナホトカにおいての收容所は冬季間、現在においても相当人員が暮し得るだけの設備があつて、併し非常に多いときには不足かも知れませんが、現在においても相当冬季間帰る場合の設備としては、或る程度はできておるかどうかという点について何かお考え、認識されました点がありましたら、一つ伺いたいと思います。
  103. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) ナホトカの收容所は増築と申しまするよりも改築でございます。大変氣分よく改築いたしております。設備はだから今までと同じだと思います。その設備も嚴寒で、ハバロフスクの嚴寒とナホトカのそれとは大分程度が違つておりまして、そう寒くなかつたのでありますが、焚物とかいろいろな関係があろうと思いますが、増築というよりは改築で、氣持よくしてやろう、同胞が帰るのだから、最後に氣持よく帰してやろうというようなことを申しておりました。相当な收容力はあると思います。
  104. 草葉隆圓

    ○草葉隆圓君 実は私共の得た情報によりますとさつきのお話と少し食い違う点がございます。それは大体現在でも相当個所の收容所がソ連全般に亘つて散在しておる。これは兵隊の方であります。そうして從來も將校はあちらこちらに大分点在しておつたのを去年の九月頃からこれをずつと集結しつつあるような状態である。その集結の中心はハバロフスクに持つて行つた。大体日本の抑留所の將校はハバロフスクに集結しつつある。この情報は必ずしも妥当でございませんし、又完全ではございませんが、そういうようなことを一つお考え願いたい。  それからもう一つは全ソヴィエトの日本の抑留者に対しまする指導はハバロフスクに中心があつて、そこから日本の俘虜のソヴイエトの指揮機関があるようだというようなことを私ちよつと或る情報を以て判断するわけでありますが、何かこういう点について得られました情報がおありか、又ハバロフスクの將官收容所の所長等を通じて全ソヴィエトにおける日本の收容所における收容所内の兵隊の状態等というようなことでさつきもちよつと一部話がありましたが、そういうことについて御交渉なり、お話合なり、或いは向うへの歎願なりというような点がございましたら、この点も一つ併せてお話し願いたいと思います。
  105. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) ハバロフスクにどんどん集まりつつあるということは私共情報は聞きましたが、事実は見ておりません。さつきも申しましたように外に出ても殆んど兵隊に会わない。ハバロフスクに指導の中心があるかどうか私には判断しかねますが、ハバロフスクというところは、満洲で申しますと新京のようなところで、あこすにすべての機関があるように聞いておりますので、そういうことが言われるのだと思います。それから所長などを通じての話は遺憾ながら所長は若い者でございますからそういうことは分らないと思います。モスクワなんかから人が來たときに、いつも我々のところに出て來て何か言うことはないかということを言つていましたが、いつもそういう話が出るのですが、いつでもそういうことは分らないと言つて答えて呉れませんでした。
  106. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 最前淺岡委員からの何が触れておられましたが、船が日本政府の責任において帰さない、帰らないということは実に痛ましい。私達としてはもう、いても立つてもおられないような実に腸を切られるような思いですが、日本の内部においても一部には船をやらないから君達が帰られなかつたということを公言するところの実は人々も実際ある。僕自身それを見て現場で徹底的にその不都合を是正するように申込んだときさえあるのでございます。これを何んとかして、正式にはつきりさせたいと思つていろいろと特別委員会では苦労をしておるわけであります。まあ直接証人がこれを傳えるという方法は勿論ありませんけれども、そうした非常な苦衷を持つていろんな手を講じておるということだけは在ソ中においても、相当いろいろなその点において、祖國を恨んだり、或いは呪詛したりしている、そういうような同胞の諸君が殆んど大部分と思いますのでお帰りなつたあなただけでも十分にその点をはつきりしてお自覚願いたいし思つておるわけでありますが、二、三の問題をお尋ねしたいと思います。  あれだけ沢山ありました満洲の物資、実にそれは厖大なものでありました。軍の所有しておるところの、いわゆる纖維類から、或いは食糧その他奉天だけでも鉄西地区のあの驚歎すべき一つの設備、ソ連の大將だけ延べ十八名も視察にやつて來たそうです。―――――――――――――――証人は入露の当時、或いは御帰還になるときに、満洲から持つ運ばれたいろいろな物的設備、或いは最前防寒具等の話も出ましたが、物資等がソ連地区にどういうふうに活用されておるか、これらについてお知りの範囲内において結構であります。  第二番目には、ソ連に連れて行かれたとき、第一にお著きになつたまでのその途中、見聞された、更に第二の收容所に移されましたその途中の車窓から見られたとき、或いは第二の收容所を中心として見聞されたそれらの入ソ当時のソ連観と、お帰りになるとき、それぞれ車窓その他から、或いはナホトカ等において見聞されたいわゆる三年前のソ連と、三年後のソ連と、大変違つたことが目につかれましたか。―――――――――――――――それからお帰りになつた場合、普通船の場合においては洋服類二着、それから褌から或いは下着、その他青年に対しては二十一点だけ支給することになつておりまするが、飛行機でお帰りになりましたあなたは、そういう引揚者としての物資を無償でお貰いになつたかどうか、又お帰りになつて、いわゆる帰郷旅費等、それらがどれだけ現金としてお貰いになつたかどうか。それが第三点。  第四点は、いわゆる三年半、更に思いを遠くあなたが日本を出られてから、帰られますというと、随分長い間、十年以上日本を離れておられたわけでありますが、お帰りになつてからの日本観というようなものを簡單でよろしうでございますから、参考のためにお聞きしたいと思います。以上四つの点に御答弁を願いたいと思います。
  107. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 全般を通じて私は一つお断り申上げます。それはあの廣いソヴイエトの極く辺鄙なところのシベリアにおりまして、而もそのシベリアの中の一エーカー程の中に閉じ込められておりました私がそこから見た目で以て全般を推して申上げますると、非常な独断になり、偏見になりまして、却つて間違いが起きるかも知れませんということを前提にいたしまして、私の見ただけのことを申上げます。現在見たことだけ。  入ソ当時に私は牡丹江からウオロシーロフに輸送されたのでありますが、その当時ウオロシーロフにおつてよく聞いておりますと、自動車がごうごうと通るのであります。夜も晝も。それは皆物資を満載したトラツクが綏芬河方面からどんどんどんどん数日間通りました。それは確かに見ました。それから私がウォロシーロフに参りまして、收容所に行く前に街の中を引張り廻されたのです。見物みたいに……。自動車が來ないからちよつと歩いて呉れと言うので千米ばかり歩いたのですが、そのときも女学校の前を通りましたら、女学生が出て來て、どれがヤボンスキーかと言つて見ておりました。見物にされたのでありますが、こちらも見物ができたのであります。そのときに見ましたところでは、子供が日本の兵隊さんの服をそのまま着ているのもございました。それからソヴィエトの相当な年頃の娘さんが跣足で歩いておりました、靴を履かんで……。やはり戰が長く続くと窮乏するのだなと思つておりました。それから北の方に連れて行かれる途中で日本字の書いた大きな物資の箱がそのまま載つかつて汽車で輸送されているのを見ましたし、工場の設備であろうと思われる機械も日本字の書いたものがあるのをはつきり見ました。ハバロフスクに参りましても、ハバロフスクは都会でございますけれども、さつき申しましたように跣足で歩いている人は、まだ冬になつておりませんでしたけれども、その翌年くらいまでは相当に見ました。それからちよつとさつきどなたかの御質問にお答えしたように、私共が日用品として、歯磨粉なんかも頂けなかつたのでありますが、入つた年とその翌年の暮ぐらいまではそういうものはなかなか呉れませんでしたが、それが昨年には歯磨粉なんかも二ルーブルも出せば呉れましたし、楊枝も五ルーブル出せば呉れましたし、飴玉も皆ときどきは買つて参りましたが、相当の量は呉れるのでありますが、相当の物資が出盛つておりました。それから向うへ行きました当時は、日本兵の冬の防寒外套、あれを着た人は大分いました。それから日本兵の長靴を履いた婆さんなんかが歩いているのも見ました。どうして入るのか聞きましたら、バザールで賣つているということを聞きました。私共が歯磨粉を買えるようになつてから、歯磨粉を買いますと大和と書いてありますものを見ました。クラブ歯磨なんかもひと頃は、二十二年頃はありました。針や糸なんかも、初めはなかなか手に入りませんでしたが、昨年は相当にそんなものは私共は買えたのであります。それだけ豊かになつたようであります。それからときどき上から見ておりますと、日曜日になるとソ連人は買物に参りますが、マダム達が日本の長襦袢で作つたドレスといいますか、コートを着て歩いているのを見ましたし、隣りの畑で浴衣で作つたあつぱつぱーのようなものを着て働いているのも見ました。お墓参りをするのを見ましたが、羽織の裏か長襦袢と思われるような服を着た婦人にも会いました。そういうことはちよくちよくありまして、私共の收容所で使つておりました食器なんかも大分満洲製を見ました。それらは私見たのでありますから、確実でありますから申上げます。それから炊事の女なんかもの服裝も段段とよくなりまして、この頃は靴なんか履かないで歩いているのは見受けませんでした。炊事の女なんかもこの頃は配給もよくなつたと見えて大変よい服裝をしておりました。御承知の通りソ連人は非常な窮乏生活に堪えております。徹底的に堪えております。我々は大いに学ぶべきだと思いました。何にも要らないものは持つておりません。私共は飛行機で行くときに少佐と大尉と通訳と三人行つたのでありますが、誰も時計を持つている者がない。時間を見るときに、私共は壊わしたり盗られたりして一人だけ持つておりましたが、いつもその人のところに聞きに行つておりました。そういうように止むを得ないものでないものは余り作らない。日本のように寫眞機を下げてぶらぶら歩いているのは見えませんでした。それから建築物の関係はこれを見たことだけ申上げます。ラーゲルの近所に女学校があつて、建増しの五階の建物、それは日本人が建てたものでありますが、寄宿舎も同樣下の方に官舎とおほしきものが三つ四つ建ちましたが、それは全部日本兵がやつておりましたのを実際に見ました。帰りはそういうものは余り見なかつたと思いますが、日産の新らしい自動車が汽車に積まれて運ばれて行くのを見ました。北鮮から引揚げるソ連人が引揚げた時期であります。  それから第二のお尋ねの飛行機で帰りましてからこちらへ着きまして、引揚援護所で実に行届いたお手当を頂きました。先ず風呂に入りまして、今まではシヤワーで本当に頭から入つたのを足から入つたので、日本人のような氣持がしたのであります。それからこの間ラジオを承わりますと、今度引揚者に対する給與がパンとか罐詰だけだつたのを味噌汁と沢庵の日本人向きのものを食べさせるということがありましたが、私は全然結構だと思います。私共は初めて横浜に着いたときに味噌汁、沢庵ということを希望いたしましたが、初めてそういうときに嬉しかつたような氣がいたしました。それからあそこでは毛布、夏服と冬の上下、昔の兵隊さんの着ておつたようなもの、それからシヤツ、冬のシヤツと夏のシヤツ、肌襦袢、パンツ、褌、楊枝歯磨粉、石鹸、ちり紙、飯盒一つ、それからリユツクサック、図嚢こういうようなもの、便箋も呉れました。実になんとも言えん感じがいたしました。それからお手当としては一律に背向うで留守宅の計算をする外に千円頂きました。  その次には第三ですが、私は昭和十二年のあのさあつと盛り上つた頃東京を出まして、その後家に帰りましてからすべてのことが浦島太郎のような氣がしております。ラジオを聞いたり、新聞を見たりして勉強をしておりますけどれも、まだピントが合いませんので、それに帰りましてからちよつと病氣をいたしまして、腎臓とか血圧とか、やかましい医者がおりまして、やかましいことを言つて放さないのであります。今日こつちに來ますときも、実は私血を取つて來たのでありますが、そんな状況ですつかり勉強しておりませんので、今の社会は私の頭にしつかり入らないのでございます。ただ嬉しかつたのはいつに変らない日本人の温かい心でございます。そうして帰りますと、まあ横浜に入つたときそういうふうに扱われましたのと、入つて來ますと、昔一緒に軍隊におつた者とか、中学校時代の友達だとか、そういうような人が訪ねて來て呉れまして慰さめて呉れる。いつに変らない日本人の温情をしみじみ有難く感じました。この間ラジオで伺つておりましたが、今度の受入れには温情を以てやるからとおつしやつたように聞きましたが、これは私は一番いいことだと有難く思つております。それからもう一つは羽田に着きまして、あれから横浜までアメリカの自動車で行つたのでありますが、皆くさつたような顔をしておらないで、朗らかな顔をしておつたのは嬉しかつた。汚い着物やモンペを着ておつても、どつか朗らかな顔をして陰惨な氣分がなかつたのは嬉しく思いました。そのぐらいで一つ……。
  108. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 実はお聞きしているうちに非常に懐しく感じたのでありますが、もう少しちよつとお聞きしたいと思います。―――――――――――――――だからシベリア地区には日本製の時計が入つておると思います。それから今お話の中に、友禪の着物とか、いろいろな婦人の着物を着ておる。日本人の履いておつた長靴も――――――ちよつと上の方を折つて、全部新らしい靴を履いておつたようなわけで、日本は敗けても外國の人に洋服や靴を上げるだけの余裕があると、私は非常に氣持よく感じたわけですが、証人があちらで御覧になつた眼で、そういう日用品とか服とか、それらのものがロシアの人々の生活の中に相当程度潤つておると思うのですが、何かそういうような問題に関連して、特にお感じになつたことがあれば御感想を承つて置きたいと思います。
  109. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 只今のお話、私はただ見ただけを申上げましたので、全般のことを見ておりませんので、はつきりしたことは申上げかねますが、私共の見た感じにおいては、そういうふうに利用されておるのを見ました。
  110. 天田勝正

    ○天田勝正君 矢野委員がお聞きしになつた中で、私はこう聞いたのです。ソ連からこちらへ引揚げて來られるときに、一般の兵隊は二十何点かのものを貰つて來る。あなたもそれを……。
  111. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) こちらで貰つたものです。
  112. 天田勝正

    ○天田勝正君 それを貰つて來られたかと、こういう質問だつたのですね。
  113. 矢野酉雄

    ○矢野酉雄君 こちらで……日本へ來てから……。
  114. 天田勝正

    ○天田勝正君 それなら分るのです。ちよつとこちらへ來てからの返事をされたようではなかつたから……はつきりして置きたいと思つたのです。
  115. 淺岡信夫

    ○淺岡信夫君 私は簡單にお答えを頂きたいと思いますが、先程の私に対しての証言で十分なんでありますが、ただ一点お聞きしたいと思いますのは、向うにおいでになりました間にポツダム條約の一つ一つの條項、そうした面について殊に將軍連の收容所でありましたからそういう話が出たことはございましようか。
  116. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) これは殆んど書いたものは見てないのです。雑談的には出ましたけれども、それに対してはつきりした批判をするとかいとうことはありません。
  117. 淺岡信夫

    ○淺岡信夫君 そうしますとポツダム宣言の第九條に武裝解除は各自の家庭に帰して平和なる生産につかしめるという條項があるのですが、そうした面について何かお聞きになつたことはございましようか、或いはそういうことは御存知でしようか。
  118. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) それは聞きました。何故こんなに長く置くのか、ポツダム宣言を守らなければいかんというようなことを冗談ながら言つたことはあります。存じております。
  119. 淺岡信夫

    ○淺岡信夫君 そうしますと、ポツダム宣言の無條件受諾に対しての今の第九條の面はよろしいのでございますが、十六万人帰すとか、或いは米ソ協定において月々五万人ずつ帰すのだというようなことをお聞きになつたでございましようか。この一点で私の質問は打切ります。
  120. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) それはもう聞きました。向うの新聞にも出ておりました。こちらに帰りましてはつきりと米ソ協定のあつたということは進駐軍に聞きました。
  121. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 簡單にお答え願いたいと思いますが、さつきソ連人は非常な耐乏生活をやつているとおつしやつて、日本の模範になると思われるとおつしやつたが、日本では、あなたもまだよく御覧にならぬようですが、耐乏生活を政府が望むなら國民はうんざりしてしまう。生活が保障されていないので段々悪くなるので……、そこでソ連人はどうして耐乏生活をしておるのか、暴力によつて抑えつけられてやつておるのか、確信を持つてやつているのか、あなたの感じですね、どうですか。
  122. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) それは私は物がないからだと思う。得られるものが得られない、そう感じて参りました。
  123. 細川嘉六

    ○細川嘉六君 抑えつけられているのかどうか。
  124. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) それは分りません。
  125. 岡元義人

    ○岡元義人君 時間も大分経ちましたので、結論を出して置きたいとこがあるのですが、証人に簡單にお答え願いたいのですが、ナホトカに四年いらつしやいましたのですが、もう再開も控えておりますが、ナホトカは今大分集まつておりますか、その点を一つ。それから飛行機でお帰りになつた理由は、大体今までの御証言で余りソ連地区に関係なかつた者、それから病氣だとかという理由、この二つが大体の理由、こういう工合に解釈してよろしいか、もう一点は船がなかなか來ない、船が十二月二日で打切られたのは、ハバロフスクで分つておつたと思うのですが、そこでわざわざ飛行機で帰られたということは、いわゆる日本側が船を寄越さないからなのだ、俺の方には帰す意思があるのだというような含みも少々あつたか。こういう点についてどういう工合にお考えになるか、この点だけお答え願つて置きたい。これで私の質問を打切りたいと思います。
  126. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 飛行機で帰されました理由は私は分りません。分りませんが、その船がおらんので向うの中尉がどんどん電報を打つておるときにこういう船で帰らんでもいいじやないか、飛行機は一週間に一遍通つておるから飛行機で帰つたらいいじやないか。これはできんことはないよと言つておりました。  それからちよつと最後の問題に関係があるのですが、私共は二十一日にハバロフスクを発ちまして、待つておりました間に初めは九人でございましたが、次に五人が來た。一月一日に参りましてあすこに落合つたのですが喜んで、お前達おつたのか。そのときこういうことを言いました。我々は檢査が終つて出発前に所長から呼ばれた。あなた方は飛行機に乘つて帰るのだ。そうして飛行機に乘つて帰るということはソ連のラジオで放送するという、その二点を聞いたそうです。そこで飛行機で帰るということが分つたのです。その奧底の眞意はなぜそうしたかということはちよつと私には分りませんが、但しその次の病人とか老齢者とかいう者を帰したということは、これは事実であります。実際病人老齢者はおつたのでありますが、まだまだ外に病人もおりました。老齢者もあつたのですが、それを止めて限定した理由は爭議に関係したということがあつたと思われます。これは想像であります。ナホトカの残留者はさつき言うように來ておつたけれども、船が來ないから山に入つて、こつちにおつたのが向うに行つたというのですが、私の目撃しましたのは第四分所というところに約三百人おりました。第一、第二、第三とあつて第四分所に三百人。第四分所の横から出て來て毎朝労働に行くのが軍歌を歌つて行つておりました。その足を見ますと、約二、三百人あつたと思います。最後におりました第一、第二の收容所はさつき言うような人が両方で三十五人か四十人あつたと思います。その程度でございます。
  127. 岡元義人

    ○岡元義人君 議事進行につきまして、このあたりで赤鹿証人の問題をば打切つて頂きたいと思います。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  128. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) 御異議なければこの辺で証人の証言聽取の件は打切りたいと存じます。その決定をいたします前に証人に申上げますが、長時間に亘つて各委員の熱心な御質問に、詳細な御答弁を頂きまして有難うございました。当委員会として大変参考になつたと存じますが、この際一つ証人が立場をお変えになりまして、これまで当委員会を外から御覧になつておりましたそのお感じ、それから今日こうして現在御出頭頂きまして、そうしてこうした應答によりましてお感じになりました点で、何か御希望と申しますか、御要望と申しますか、そういうものをお考えでございましたら、この際伺つて置きたいと存じます。
  129. 赤鹿理

    ○証人(赤鹿理君) 向うにおりますときに、とにかく兵隊の問題は日本に帰ることしかありません。私も同樣でございます。先ず兵隊から帰して私達が帰りたいと思いましたが、こういうふうに早く帰つて参りました。私の隣りに大工さん、これは棟割におりますが大工さんの家に九つのお孃さんと今年学校に入つた坊やと二人おつて、奧さんが一人で働いております。そういうのを見せつけられると少し恥しい氣持がしているのであります。それからラジオを聞いておりますと、いつもそういう問題が出ますし、音樂の放送のときなんか歌を歌います。「異國の丘」というのを何回かやつております。皆んながこんなに思つて呉れるかと思つておつたのです。向うにおりまして、こういうことを一つ聞いたのです。岡山縣の兵隊の家から來た手紙で、今我々は縣民大会をやつて帰還者の早く帰還することを促進している。こんなにやつて呉れるなあと思つたのですが、こつちに帰つて國会でこんなにやつて呉れるということを初めて聞いたのです。この状況、國会まで率先してこういうことをやつて下さるということを向うに知らしたらどんなに喜ぶか知れないと思うのであります。何とか知らせる方法を講じて頂きたい。尚向うにおります者は國会からの便りを一番待つているのです。私は子供が三人だけで家内もおりませんで、皆大きいから家へ一遍も手紙を出しませんが、皆手紙を出しております。そうして手紙が來ると皆んな持つ寄つて家の状況はこうだと言つて話合つております。この方法としまして、これは昨日の十月頃に私の同期生の中に東京から子供が寄越しまして、こういうことを書いております。今日ラジオ放送で國際郵便が出るということを聞いたから直ぐ試驗のために出しましたという前ぶれで書いております。或るお孃さんはどつか裁縫店で働いているのですが、これから三日おきに書きますと書いております。國際郵便は割りに通ずるのですが、これは十二月二日に日本を出した手紙がその月の中頃に着いております。國際郵便でやるということを知らないのでありますので、これを公表して大いに励まして貰いたいと思います。こういうふうにやつているのだから大いに頑張つて身体を丈夫にせい。私達は兵隊に会うと身体を丈夫にせよと言つているのです。長くになりますと、私達老人は身体が弱ります。私は頑健でありますが、それでも弱ります。こつちへ帰ると元氣になります。それですからそれを一番待つているのであります。向うで手紙が來ん人は誰かと調べて参りました。まあできるだけ出してやつているのであります。この間も下谷の御徒町で表具屋をやつていた人が、これは立派な兵隊でありますが、そこには手紙が來ない。幸いそこの番地は覚えておりました。疎開地の群馬縣に手紙を出しましたら、お父さんが喜んでおりまして、こつちから出したが通じないのかと話しておりました。わざわざ九州から私の家まで訪ねて來た人もあります。私は早く帰つた責任を以て御通知することを任務としてやつているのですが、國民の後援のことがあちらに知れましたならばどんなに喜ぶかも知れないとつくづく感じます。誠に有難いことと思つております。
  130. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) どうも長時間に亘りまして証人には御苦労樣でございます。御要望につきましては委員各位と打合わせまして、成るべくその線に沿うて何か知らせる方法がないか又研究したいと思います。どうぞ御自由にお引取り願います。委員各位に御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  131. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) どうぞお引取り下さいませ。   ―――――――――――――
  132. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) それからちよつと速記を止めて。    〔速記中止)
  133. 紅露みつ

    ○委員長(紅露みつ君) 速記を始めて下さい。  議員派遣の件でありますが、これは舞鶴と函館へ二班に分れまして、舞鶴へは草葉委員と私、函館へは木下委員と天田委員、各二名ずつ出発することにいたします。期間は今期國会開会中一週間の予定であります。それでは本日はこれで散会いたします。    午後五時十二分散会  出席者は右の通り    委員長     紅露 みつ君    理事            天田 勝正君            草葉 隆圓君            岡元 義人君            星野 芳樹君    委員            木下 源吾君            淺岡 信夫君            水久保甚作君            木内キヤウ君            穗積眞六郎君            矢野 酉雄君            細川 嘉六君            千田  正君   事務局側    主     事    (委員部第第三    課勤務)    青木 玉吉君   証人            赤鹿  理君