1983-04-12 第98回国会 参議院 商工委員会 第7号
それからまた、これもヨーロッパの例でございますけれども、事業の集約化について見ましても、たとえば石油化学業界におきまして、BP社とICI社の事業交換というのを行ったわけでございますが、塩ビとポリエチレンで事業交換を行ったわけでございますが、そういう事例に徴しますと、イギリス国内市場だけのシェアで見ますと三分の二以上の市場占拠率になるというようなことになっておるわけでございますが、にもかかわらず産業政策的観点
それからまた、これもヨーロッパの例でございますけれども、事業の集約化について見ましても、たとえば石油化学業界におきまして、BP社とICI社の事業交換というのを行ったわけでございますが、塩ビとポリエチレンで事業交換を行ったわけでございますが、そういう事例に徴しますと、イギリス国内市場だけのシェアで見ますと三分の二以上の市場占拠率になるというようなことになっておるわけでございますが、にもかかわらず産業政策的観点
そこで田中清玄は、海外石油開発あるいはジャパン石油開発だけでなしに、売り手のBP社からも受け取っている疑いがある。そしてまた、その重要な一因となった利権料が七億八千万ドルというべらぼうな高値、そにこまた大きな疑惑が持たれています。会計検査院は、この利権料が妥当なものか、徹底的な調査をなすったんか、また現在調査は継続中なのか、その点ちょっと確かめさしていただきたい。
ところが、この営業報告書を見ますとどういうことが書いてあるかと申しますと、「アドマ間接権益の対価として総額七億八千万ドルのうち、第二回分六千五百万ドル、第三回分二千六百万ドルをそれぞれBP社に支払いました。この結果、海外石油開発株式会社からの債務承継分を含め、四億五千五百万ドルを支払ったことになります。」この海外石油開発株式会社という会社と社長は一緒なんです。
当社は昭和四十七年十二月、BP社の出資会社であるADMA社の保有するところの権益を三〇%の比率で買った、当社、ジャパン石油会社は四十七年十二月に。ところが、この会社ができたのはその翌年なんです。できる前に当社は買ったというのです。これは恐らく海外石油開発のことなんですよ。なぜこんなことになったかといったら、両方とも同じ社長だから入り組んでおるのです。通産大臣、こういうものでなぜ許可したのですか。
これはイギリスのBP社の技術によるものと聞いております。それからイギリスにおきましては、一九七二年から年産四千トンの規模で生産が行なわれております。それからソビエト連邦におきまして、一九七二年から一万六千トンの規模で生産中でございまして、今年中に十二万トンに増設されるという予定のように聞いております。
これは輸入の問題ですが、通産省の出してきた資料が、私のもとへいま配られたようですけれども、協和醗酵、これは歴然とBP社から技術輸入をしたもので、かかわりがございませんという説明です。つまり鐘化、大日本インキとはかかわりのないもので、石油タンパクとはかかわりのないものでござんすとして、かようなかっこうで商品化して売られているわけです。これをとめるということをしなければいけないと思うんです。
その意味で、もう一回伺いますけれども、この協和発酵というところは、BP社というところから技術導入をしてつくったものですと、こう言うのです。このBP社と、大日本インキあるいは鐘淵が技術提携をして合弁会社をつくってルーマニアやイタリアに売るというのでございますね。
アミノヒットというものはBP社、つまり大日本インキと技術提携をしている会社がつくっているものなんです。これは現に日本へ来てるんです。先ほど四十四年というお話がありましたが、四十四年じゃないんです。私の調べた限りでは四十一年からです。つまり、逆輸入されたら一体厚生大臣、あなたはどうお考えなんですか。通産大臣、どうお考えなんでしょうか。
○岡本委員 通産省の化学工業局長さんはもうみな外国でやっているんだ、こういう話ですが、量的にこう見ますと、たとえばBP社ですか、これなんかは四千トンでしょう。それからフランスのラベラ工場ですか、これが一万六千トン。わが国のように何万トンも一ぺんにやるなんというプラントはどこも考えていないですよ。そういう調査も考えない。
先生御案内のように、イギリスではすでにBP社によりまして石油たん白の企業化が行なわれております。それからフランスにおきましても、同じくイギリスのBP社によります工場が現に稼働をいたしております。それからソビエトにおきましても、相当大きな石油たん白の工場が現に稼働いたしておりまして、それぞれの国の事情によりまして、この石油たん白に対する規制のしかたが違うようでございます。
外国におきまする試験は、主としてBP社、主としてと申しますよりは、BP社の製品につきましてオランダ王室試験場といったところで取り上げて試験をやったという事実がございますが、その一部は私どもの手元にございます。