2019-02-27 第198回国会 参議院 国際経済・外交に関する調査会 第2号
例えば、かつて日中関係が国交がないときに、高碕達之助とLTルートというのがありましたけれども、そういう民間の接触というのはこれはどこにでもあるわけ、まあ経済だから分かりやすいわけですけれども。 そういうふうなことで、我々はそういう政治にそんなに縛られなくてもやりますよというところを日本人の方からでも示すこともいいことかもしれないと思いますね。
例えば、かつて日中関係が国交がないときに、高碕達之助とLTルートというのがありましたけれども、そういう民間の接触というのはこれはどこにでもあるわけ、まあ経済だから分かりやすいわけですけれども。 そういうふうなことで、我々はそういう政治にそんなに縛られなくてもやりますよというところを日本人の方からでも示すこともいいことかもしれないと思いますね。
この一行は、十三日間日本に滞在し、日本各地を訪問され、この間、廖承志氏は、入閣前でありました高碕達之助さんともじっくりと話し合い、後に世に知られる日中貿易の原点となったLT貿易の基盤となる話し合いがなされたと言われています。
そして、あわせて御紹介がありました同訪日に同行した廖承志氏が、その後、高碕達之助氏との間でLT貿易を始められ、これを通じて拡大した民間の経済関係が日中国交正常化の背景の一つになったという意味で、この李徳全女史の訪日、これは日中関係の大きな節目であったと承知をいたします。
私が、若いころ、高碕達之助さんの紹介で会うことのできたエジプトの二代目の大統領ナセルも、それから、その後しばらくして会ったインドネシアのスカルノ大統領も同じことを言いました。我々が独立を果たせたのは、第三次世界大戦に勝ったおかげだと。第三次世界大戦というのは何ですかと聞いたら、独立戦争だ、それができたのは日本のおかげだと。
自民党の皆さんも大変な御努力をされていまして、高碕達之助先生や松村謙三先生を初めとして、さまざまな方々が大変な御努力をされていたわけであります。 そういう意味では、この半世紀の平和と友好の関係また経済繁栄におきましても、経済的な部分でも、松下政経塾の創立者の松下幸之助先生が中国に工場進出をされて向こうにも大変な貢献をされたという歴史もありますし、非常に今の事態を残念に思っております。
しかし、やっぱり高碕達之助の事務所開設以来、日本人が、そういう過去に対して贖罪の気持ちもあったかと思いますし、また隣の国が純粋に繁栄してほしいというふうな気持ちでODAも一兆円の全く支援を、無償支援的な支援をしてきたとか、この過去の日本と中国の歴史においては、いろんな政治家あるいはいろんな経済人が本当親身になって解決しようとしてきた、その量とこの量とが同じかどうかは別としまして、大変大きな歴史もあるわけですね
高碕達之助さんあるいは松村謙三さん、大先達、また我が党も大きな貢献ができたというふうに自負をしているところでございますが、残念ながらこの式典の前の日に例の瀋陽問題起きてしまったわけであります。
もう一つ、そういう意味で言いますと、日中国交正常化交渉が成功したのは、一つはLT貿易と言われる高碕達之助さんと廖承志さんの名前をとって、そのお二人の個人的な事務所という形で貿易事務所を北京と東京に置いて、実はそれが大きな役割を果たした。 同時にもう一つ、記者交流ということをやりました。
木村篤太郎さんとか一万田さんとか高碕達之助さんとか藤山さんとか、みんなそうですよ。そのままというか、大臣をしてまた民間へ戻ったというか。これは十番目と十一番目のお二人なんです。 その中で一番ケースが多いのが法務大臣。三ケ月さんは四人目の法務大臣なんです、そういう意味では。バッジをつけない法務大臣としては四番目なんです。
この間、外務省文書が解禁されまして、一九五五年高碕達之助氏が周恩来と会見したとき、周恩来はこういうふうに高碕達之助に言うんですね。あなた方は中国を脅威としているけれども、一体高碕さん、中国に船が何隻あることを御存じですかと言うんです。船は一隻もありませんよと。軍艦という言葉じゃない、船という言葉なんです。船が一隻もないのにどうして日本を攻撃できますかと言うんですね。
○川崎(寛)委員 今答弁ございましたように日中経済覚書事務所、これは日中国交回復の前に、社会党がそのとき非常に努力をして、LT貿易という高碕・廖承志事務所というものをつくって、それが日中覚書事務所になったんですね。そしてこれが日中国交回復、こう参りました。このときにはこれは予算補助をしてきたわけです。当然のことだと思います、予算補助をいたしました。
かつて私は、高碕達之助先生のお供をしたりして、まだ廖承志さんとの間で細々としたパイプの、当時私は中国へ行って帰ってきて、日中議員連盟をつくったりしてやったわけですけれども、そういうときは見通しというものに自信があったし、先行きにも自信がありましたけれども、中東だけはちょっとどういうことか、もうちょっと勉強させてください。
我が国の場合ですけれども、我が国の場合は昔は高碕達之助先生などが日ソ関係でも非常に大きい役割を果たしたわけですけれども、今のところそういう形でいろんな方がいろんな意味で役割を果たしているというふうに我々は考えております。
それからもう一つ連関して、先日滋賀県の武村知事が訪朝いたしました際に金日成主席が、今後日朝間ではかつての日中間のように、ある時期の日中間のようにLT貿易ですね、廖承志・高碕達之助氏、LT貿易のような形で通商貿易関係を樹立する考えがあるというふうなことを正式に表明しておりますけれども、これについては外務大臣はどういうふうにお考えになりますか。
日本に対しましても、日本は三十年前に当時の高碕達之助国務大臣を派遣したという経緯から、インドネシアの外務大臣から私に対しまして正式な招待状が来ておるわけでございます。日本としてどういうふうに対応するか、最終的には決めておりません。
そういう面で特に高碕達之助先生が御尽力いただいた貝殻島コンブの再開問題、私も昨年ソ連邦外務省に参りましていろいろ話し合いました。結果的には九月から二十日間だけ再開になりました。ぜひこの問題は適期の早い時期に再開されるように大臣にもぜひお力をいただきたい。 同時に、基本的にはいま申しましたように経済圏が半分にへこんでいる、これをカバーしなければとても根室地域は成り立っていきません。
ただ、ただいま先生が貝殻島のコンブ漁との比較をなさったわけでございますが、この貝殻島のコンブ漁につきましては、幸いことし民間協定で妥結をいたしたわけでございますけれども、この協定は昭和三十八年、いわゆる高碕協定が締結されまして、この協定に基づきまして操業が続けられてきたところでございますし、途中ソ連の二百海里の設定によりまして中断をいたしたものの、本年高碕協定に準じましてこの民間協定が締結されまして
その前には、高碕さんたちのあの民間外交というのが実っておるということはそのとおりだと思うんです。 そういう意味で言うと、私は、この反ソキャンペーンだけやっていれば北方領土が戻ってくるなんという錯覚だけはやめてもらいたい。そういう官製の運動だけでは北方領土は返ってくるものではないんだということだけきょう申し上げて、いずれこれは改めて特別委員会でやらしてもらいたい、こう思うんです。
もともと貝殻島のコンブの漁の問題は、高碕 先輩が大日本水産会の会長の当時、地元漁民の 要請にこたえ、これと一緒になりましてかち得 た民間協定としての操業体制でございます。私 は、今後におきまして、やはり民間協定として この問題を処理してまいるように政府としても 温かくこれを支援をしていきたい、このように 考えております。
この貝殻島コンブ協定につきましては、俗に言う高碕協定ということで昭和三十八年から五十一年まで継続されてきたわけでございますが、二百海里の設定に伴いまして五十二年からは中断をいたしておるわけであります。この間、大変な御苦労をされたことを聞き及んでおりまするけれども、残念ながら双方の折り合いがつかず、妥結に至っておらない、このように承知をいたしておるわけであります。