2019-02-27 第198回国会 衆議院 予算委員会第三分科会 第1号
朝鮮半島との間では、古くは、高句麗、百済、新羅の時代から日本との間では関係がありました。韓国との関係で、いつの時代から現在の日本政府は外交の責任を負うことになっているんでしょうか、政府の見解を教えてください。
朝鮮半島との間では、古くは、高句麗、百済、新羅の時代から日本との間では関係がありました。韓国との関係で、いつの時代から現在の日本政府は外交の責任を負うことになっているんでしょうか、政府の見解を教えてください。
それからあとは、東北工程、これは高句麗史問題です。 今韓流ブームですけれども、あれは、あの中に朱蒙とか、それから太王四神記ですか、これは高句麗の関係です。これは日本を洗脳するための一つのドラマですね。そういう意味では、NHK辺りは国民から視聴料を取って韓国に協力しているということになりますね。大変なことです。
それから東北工程、高句麗史問題ですね。 この高句麗史問題というのは、実は韓流ドラマと極めて深いかかわりがあります。皆さんもファンがいらっしゃるかと思うんですけれども、「朱蒙」とか「太王四神記」というのは、これは日本人あるいは韓国人を洗脳するためのドラマだということですね。つまり、高句麗というのは、歴史的には、韓国の領土でもありませんし、中国の領土でもありません。
そういう意味で、私も、この時代の朝鮮半島のいわゆる新羅、高句麗、百済の歴史には非常に関心があります。その部分で、このいわゆる古代山城についても私は非常に関心を高く持っています。
私どもは、北朝鮮が六発持っているとか、それから中国が、今からそれこそ千五百年前、隋という国のときには、高句麗と新羅と百済が一緒に組んで、乙支文徳という将軍が中国と戦いました。その後、唐になりますと、唐は新羅と組んで、日本と百済が組んで白村江の戦いという、そのときも中国が背景でございます。 今まで、朝鮮動乱もそうでございますし、明治、幕末の日清戦争も、戦争は中国で起こったのではありません。
つまり、高句麗、新羅、百済等々ですね。それに対して新羅が最終的に朝鮮半島を統一いたします。だから、東アジアにおける古代国家意識というものの確立は、日本だけではなくて朝鮮半島においても同様であったと考えることができます。
経済人また文化人、ついせんだっても日本を代表する画家である平山郁夫先生が、高句麗の遺跡の問題を文化遺産に登録したらどうかということで北朝鮮に参られまして、随分話が進んでおるやに聞いておりますが、こういった政治以外の方々も大変北朝鮮へ入っている。
例えば、ローマ帝国がどういうことをしたかということも、当時の歴史だっていろいろとローマの方々やヨーロッパの方々にとっては興味深いと思いますし、日本と朝鮮半島の歴史でも、それは高句麗の好太王のころはどうだったのか、白村江の戦いのときはどうだったのか、二一七四年の文永の役と一二八一年の弘安の役に元冠が攻めてきたときに朝鮮の方々も一緒に日本を攻めたのではないか、あれは侵略だったのではないか、そういうところまでやっぱり
例えば我が国と朝鮮半島との関係についていえば、私も子供に勉強を教えたときの記憶ぐらいですからよく覚えておりませんが、白村江の戦いとか任那日本府とか高句麗の好太王碑、そういうような時代から、あるいは一二七四年、一二八一年の文永・弘安の役で蒙古大襲来のときでも朝鮮半島との微妙な関係があっているわけです。
私もつくづくそのときに思ったのでありますが、例えば高句麗の好太王妃とか白村江の戦いなどという読み方を教えながら、あれくらい古い、年代がたった事実でございますと、また史料の非常に乏しい時代のことでございますと、もちろん歴史上いろんな解釈はさまざまあろうとは思いますけれども、まあこれは一定の物の見方というのが定まるのかもしれません。国によってそれほど大きく分かれないのかもしれません。
大和朝廷時代ですか、いろいろ百済とか高句麗とかから漢部とか技能職人の方を日本で受け入れていろいろ教えてもらうとか、あるいはその人たちと一緒に暮らしたわけでありますし、遣唐使を送っていろいろ勉強したりしたということがありますし、そんな昔にさかのぼらなくても、例えば戦前の日本というのはいろいろな国の人が出入りしていて、私も今余り詳しくありませんが、周恩来さんとか、孫文さんとか、要するにその国ではなかなか
この中には新羅に滅ぼされた高句麗やあるいは新羅の捕虜の人やいろいろなものがまざっていたと思いますが、あの当時、聖徳太子のパトロンであった秦氏が技術集団の長として、そうしてあらゆる種類の技術集団を率いてそれを開拓期の東国、東の方へ移したという歴史的な事実がいまにも残っております。
高句麗の高僧の慧慈なり、百済から来た五経博士の==なり、海外から日本に渡ってきた、あるいは亡命してきた学者を集めて、彼らから学んで、そうしてつくり上げたのがあの十七条憲法であり、十七条というものは維摩詰の十七カ条になぞらえたものであって、聖徳太子の根底にある思想というものは——お釈迦さんが、坊さんにならないけどえらいやつがいるといって、市井の中にいた徳行を積んだ維摩詰を高く評価しておりますが、あの維摩詰
それからまた、それとの関連等から見まして、あるいはまた、中にかかれております絵画等から、先ほどもお話しございましたけれども、大陸、当時でいえば唐の時代あるいは高句麗とか、そういう朝鮮半島との関係におきまして、その当時におけるといいますか、そのころの相互の文化交流というようなものを探求する面において、非常に貴重な資料を提供しておるというようなことが言えるかと思うのでございます。
先ほども、階、唐の時代と非常に関連があるのだろうというお話がスライドの御説明でもあったのですが、ある新聞を読んでみますと、その時代の衣服が左前になっておって、その時代の中国には全く見られない風俗だということ、それから西暦六六二年でございますか、高句麗が滅びたあと百済、そして新羅を通ってこの日本にやってきた貴重なわれわれの歴史的な財産、これを一体どうこれから保存をしていくかということが大きな問題であると
当然壁画古墳が多いところは高句麗、ことに北鮮の場合もあるわけです。当然中国も入るわけですから、それをひとつ、どういう理由でどういうふうにやるか相談していきたい、その辺の計画もなしに、ただ漫然と、そういう文化的な調査の委嘱をしたいあるいは招聘したいというだけでは、これは絵にかいたもちになってしまいますから、そういう点についての運びというものはどのようにやっていかれるおつもりか、これが一つ。
また以て聞するなかれ」と憤ったのでありますが、一方では小野妹子から、日本――わが国のことを聞き、また一方では隋の興亡をかけた高句麗討伐を企てていた際でもありましたので、ついにわが国の要求を入れ、翌十六年、裴世清を答礼使としてつかわしたのであります。その帰国に際し、太子はまた小野妹子を使いとして、「東天皇、敬みて西皇帝に白す。
ただいま昔の天皇の在位の年数が非常に長いということ、それからいわゆる辛酉革命説というものがあって、辛酉の年に神武天皇の即位を持ってきたという那珂博士の説を御引用になったのでありますが、実はこれは朝鮮の古い、たとえば高句麗の始祖の東明王から十一代の東川王まで二百六十…年ですが、これは平均五十三年になっておるのであります。