1988-04-19 第112回国会 衆議院 大蔵委員会 第11号
それから、昭和と言われましたので昭和の例をもう一つ出しますと、これは昭和十一年でございますけれども、昭和十一年に馬場財政、そのときに、これはいよいよ戦争に突入しようというときでしたから五分というような高いものではだめだということで、明治四十三年の故事に学んだのでしょう、三分五厘でこれも相当な額を借りかえるということをやっているのです。
それから、昭和と言われましたので昭和の例をもう一つ出しますと、これは昭和十一年でございますけれども、昭和十一年に馬場財政、そのときに、これはいよいよ戦争に突入しようというときでしたから五分というような高いものではだめだということで、明治四十三年の故事に学んだのでしょう、三分五厘でこれも相当な額を借りかえるということをやっているのです。
それとは意味が違いますが、昭和十一年の廣田内閣の馬場財政ですね、これがやはり相当大きな低金利の国債借りかえを行いました。
そこで、昭和の初めの財政史なんかでよく引き合いに出されることでございますけれども、高橋財政から馬場財政ですか、これに移った時点で国債の発行が大量に進んできたわけだけれども、一つデフレギャップがどういう状態かという把握を誤ったがために、デフレギャップが実は解消していたにもかかわらず、国債の発行がただ同じような形で進められていた、こういうことがすべてではないにしても、一つの大きな理由としてインフレを招いてしまったという
○愛知委員 確かにむずかしい面もあろうかと思いますけれども、よく引き合いに出される例でございますが、昭和の初めの高橋財政から馬場財政に移っていく過程で大量の国債が発行されて、そのときに、当初はデフレギャップがあって、国債の発行も大して国民生活に大きな影響を与えなかった。
あなたは馬場財政の流れをくまれる方だと思うわけですが、昭和財政史、これに馬場さんはこういうことを言っておるわけですね。「要するに財政の健否は単に歳計の数字に依りて別つべきものではなく、国民経済力に対する均衡如何と、財政支出の経済的成果如何とにあるのでありまして、私は今日の我が経済界は既にこの方針の実施に堪え得る程度に達して居り……私は国防費に対して不生産的経費といふ言葉は使わない。
日本の経済が伸びていった明治、大正の初年、昭和十一年までだったと思いますが、利子課税というものは第二種所得として五%の均等課税であったのでありますが、それを昭和十年の馬場財政のときに税制の臨戦体制というのでこれを相当強くいたしました。
昭和十一年の広田内閣の馬場財政のときには、これは準戦時態勢ということが、ちらちらにおっておったのであります。従いまして、私はどこを基準にして今の税法を論ずるかということにつきましては、事務当局はだいぶ言ったかもしれませんが、また私もそれに反対したわけではありませんが、しかし考え方としては、現在の負担と将来どうなるかという問題を主にして議論すべきだと思います。
従来の税制改正では、十五年が一番大きかったと思うのですが、それに比較してどうだとか、あるいはその前の税制改正、馬場財政のときの昭和十二年に比べてどうだということまでは、私は考える必要はないと思います。
もう一つの問題はそういう所得の課税でございませんで、有価証券の取引がありました機会におきまして、一種の流通税として課税するという考え方の税が過去におきましてもあつたわけでございまして、それは昭和十二年に日華事変関係で特別税法が……、つまり昭和十二年の四月に馬場財政関係、いわゆる馬場財政と言われておりますが、相当税制の全般につきまして、大きく税制改正をしよう、こういう案が立案されまして、それが国会へ提案
そうして馬場財政のときに大体そういう考え方で計画をいたしておつたのであります。その後戰時体制になつて参りまして、國で徴收をして、あと分與するという考え方になつた。これは中央集権的の考え方だと思いますが、官僚ということは言つておりません。 次に財政法第二條につきましては、これは地方財政の独立をはかるためのいわゆる目的を書いておるのであります。
以上は本税を徴收するという方の側から見たいろいろの特色でありますが、あとで私が述べますような半面に多くの欠点がありますので、このような税金は惡税の一種といたしまして、曾ては我が國において昭和十一年馬場財政のときでありましたか、取引税という案が作られましたが、これが國民の反対に会いまして実現しなかつたというような過去の実例がございます。