そこで、せっかくやられるのでございますならば、文部省とされましては、徹底的なものを、もっと長い目で見て、そのバックにあるところの首里城一帯ということも考えられた立場において私はこの復元というものを考うべきであると思うのです。
もちろん、この復元につきましては、原形をとどめないところの姿になっておるものがございますから、これを純然たる意味において復元というようなことは言えないでありましょうし、対策庁の予算の中におきましても配慮しておる首里城の歓会門のいわゆる復元と申しますか、再現と申しますか、そういうことも行なわれておるようでございますが、これは予算の措置としては、対策庁で考えておるというのでありまするけれども、そういう問題
○安達政府委員 先ほど大臣からおっしゃいましたことと関連いたしますが、今後復帰しまして文化財を本土の文化財保護法による指定を行ないます場合には、首里城の周辺、首里城のところを史跡として指定をする、こういう計画を立てておるわけでございます。
一六〇九年、島津の侵略と長年にわたる経済収奪、それに続いて一八七九年三月二十五日、明治政府の大書記官松田は、警察官百六十人、歩兵約四百人を同行、首里城に乗り込んで、政府の達書を渡すとともに、廃藩置県を断行したのであります。
ついに首里城は落城をいたしたという歴史があるそうであります。そして、その後この琉球、沖繩をどう扱ったか。当然薩摩に対して貢租を強要いたしました。しかるに、一方におきましては、当初は明だったようで、その後清にかわったようでありますが、中国からの冊封使が琉球に来島することを認める。
そういう考え方に立ちますと、たとえば首里城にございました正殿というようなものは、これは沖繩最大の指定建造物でございまして、戦前国宝の指定を受けておりまして、昭和六年にこの解体修理を行ないました関係で模型が現に現地の博物館にございますし、またいろいろな史料等も文化庁にもございますので、こういう史料をもとにいたしまして復元につきまして積極的な前向きな姿勢でいきたいということで、明年度の予算にその調査費といたしまして
これにつきましては、一九六〇年専門調査官の派遣、それから一九六六年以降の長期滞在によるところの技術援助というようなことで、首里城の周辺等の整備あるいは特別史跡の円覚寺などの復旧というようなことに援助をしてまいったわけでございます。
文化遺跡でございます首里城の正殿。それから歴史的資料館もぜひつくってもらいたい、こういうことでございます。というのは戦前、戦後のその資料が非常にわからなくなったりなんかしてはいけないので、これは貴重な資料であるからぜひつくってもらいたいというようなことでございました。 それから国体の問題につきましてもお話がございました。