1994-11-28 第131回国会 衆議院 世界貿易機関設立協定等に関する特別委員会公聴会 第1号
私ども全糧連組織は、戦前戦中の食糧営団、食糧配給公団を経まして昭和二十六年に民営に移管され、自来今日まで、食糧管理制度のもとで、我が国の主食であります米の安定供給と安定価格の維持に努めてまいりました。また、昨年産米の未曾有の大凶作に際しましては、政府、生産者団体の協力を得まして、一方、外国産米の取り扱いには相当の苦労をしながら、安定供給の確保に最大限の努力をいたしたところでございます。
私ども全糧連組織は、戦前戦中の食糧営団、食糧配給公団を経まして昭和二十六年に民営に移管され、自来今日まで、食糧管理制度のもとで、我が国の主食であります米の安定供給と安定価格の維持に努めてまいりました。また、昨年産米の未曾有の大凶作に際しましては、政府、生産者団体の協力を得まして、一方、外国産米の取り扱いには相当の苦労をしながら、安定供給の確保に最大限の努力をいたしたところでございます。
私どもの組織は、昭和十七年、食糧管理法発足と同時に各県に出てまいりました食糧営団がその流れの源泉になっております。その後、二十三年に食糧配給公団に衣がえになりまして、二十六年に米の配給が民営になります段階で、私どもの組織はそれぞれ卸、小売が結合いたしまして、全国食糧事業協合組合連合会を結成いたしまして現在まで来ておるわけでございます。 それ以来の国内の配給のシェアは約七〇%でございます。
私ども全糧連系統組織は、戦中戦後にわたりまして食糧営団、食糧配給公団ということで米の配給をいたしてまいりましたが、食糧配給公団が閉鎖されました後は、民営米屋として三十年この方、国内の要配給量の七割を配給をいたして現在まで来ております。この間、何かとお世話をちょうだいいたしております。この機会に厚く御礼を申し上げる次第でございます。
その後、先生は、戦中、戦後にかけて食糧営団の役職にあり、食糧不足とインフレに苦しむ庶民の生々しい生活実態に触れられ、何にも増して血の通った政治による救済が必要である、と痛感されたと伺っております。 昭和二十六年、先生は、愛知県議会議員に御当選、以来県議三期、十年余にわたって、エネルギッシュな行動力と豊かな包容力とをもって、よく地域の発展と地域住民の福祉の増進に尽力されたのであります。
○稲富委員 実は十五条の第五号によって、食糧営団その他農林水産業に関する業務を営む法人に対し主務大臣の認可を受け短期貸し付けをすることができるということになっております。この条文によって、農林大臣の認可を受けて貸し付けられておるのが相当にあると私は思っている。これがどういう方面に貸し付けてあるかということをお聞きしたい、こういうわけなんです。
そこで、中金法の十五条で、五条一項に掲げる団体は短期、五条一項に掲げる団体の発達をはかるために施設をする法人に対するのは短期、食糧営団その他農林水産業に関する事業を営む法人に対して主務大臣の認可を受けて出すのは、これも短期、丸紅に対してのものはこの十五条の五号ですね。これは短期なんですよ。運転資金なんですよ。運転資金はあなたが常識でと言っておる短期なんだね。この法に従って短期で出すべきなんだ。
成田さんというのですか、食糧営団におって、それから愛知用水に行って、成田空港に行って、成田空港の総裁か何かやった。成田空港の成田で私は覚えているわけですが、こういうことをやっているのですから、そういう公社、公団の場合の法律を何とかしようということで、与党の中でも問題になった。
私はずいぶん古い時代から農業協同組合の仕事もいたしましたし、食糧営団の仕事もいたしましたが、ずっと通しての一貫しての気持ちは、米である以上は、それは集荷であれ、配給であれ、全部農林中金の窓口で資金というものを利用すべきじゃないか、同時に余裕金があればそれを預け入れるにも農林中金、県でいえば県信連、そういうものを通して、一貫した米の流通というものは筋を通して行なうべきではないかという持論を持っているのです
食糧営団におって、その次には愛知用水に行った、その次には成田空港に行った、こういう渡り鳥シリーズみたいな人も中にはいるのです。こういう問題を、きょうは論説委員の皆さんから具体的に実例を発表していただけると思って、たいへん期待しておったのですよ。そうしたらえらい紳士的な発言ばかりで、少しがっかりしているのですが、そういう公社、公団の問題なんかチェックのしようがありません。
余裕金の問題の第十五条の五号に「食糧営団其ノ他農林水産業ニ関スル事業ヲ営ム法人ニ対シ主務大臣ノ認可ヲ受ケ」という問題がある。この問題が、いつでも主務大臣の認可をする場合に、その問題に対する認可じゃなくして、総括認可等をやられるために、一括認可等をやられるために貸し付けがずさんになってきたという結果があらわれているのが非常に多いと思うのでありますが、この点はいかように農林省はお認めになりますか。
それから地方食糧営団は廃止になりました。それから交易営団は廃止になりました。それから恩給金庫は削除になりました。それから庶民金庫は削除になりました。復興金融金庫は廃止になりました。九号の日本銀行だけ現在残っておるわけです。実質的に現在生きているのは日本銀行だけです。 それから乙号表の一号の日本勧業銀行は廃止になりました。北海道拓殖銀行も廃止になりました。日本興業銀行も廃止であります。
○東隆君 以前、たとえば私のところにある資料ですと、卸売部面と小売部面とでもって、戦前の例の食糧営団ですか、その前の場合なんかのマージンですが、たとえば卸が一%、それから小売が一〇%、合計して一一%くらいのマージンになっておった。ところが現行のマージンだと、たとえば卸の面は三・二%になる。それから小売は五・三%、合計するとこれは八・五%になる。
○阿部竹松君 質疑と報告とはこれは別個のものであって、報告には新潟県も、経済部も、食糧営団も認めなかった、こういうわけですね。これは情状酌量せいとか何とかということとは別個の問題ですね。実際に実権を握っているところが認めなかったにもかかわらず、そういうことをやったということは、それは別個の問題でしょう。
○山田(長)委員 戦前食糧営団というものがありましたが、その時分と違ってかなり機構が簡素化してきていると思うのです。できれば人手も減らすべき事態の配給所に変わっていると思うのですが、このごろの配給所を見ますと、米以外の食料品全部を売っておる店などがあるわけです。そういうことのためにこのマージンの経費を出すというような印象を持つわけなんです。
○須賀政府委員 第四号で、ここに書いてあります「第五条第一項ニ掲グル団体ノ発達ヲ図ル為必要ナル施設ヲ行フ法人」五号で「食糧営団其ノ他農林水産業ニ関スル事業ヲ営ム法人」このそれぞれの主体の認定につきましては、農林中央金庫でやっておるわけであります。
その後、日本百貨店商業組合理事長、日本米穀株式会社及び中央食糧営団の各理事、日本証券取引所評議員、証券取引委員会委員等の職にあったものでありまして、同二十五年八月、初代の同審議会委員に任命され、同二十八年八月再任されましたが、本年八月任期満了となったので、さらに同月、同審議会委員に任命され、現在に至っているものであり、現に東京大学講師、中央及び早稲田の各大学教授の職にもあるものであります。
かつての食糧営団、住宅営団等、その公益性のゆえに民間の官僚化となり、民間資本が公益という仮面のもとに利潤をむさぼり、逆に国家資本が民間に悪用され、不明瞭なる公団運営となって当初の目的を満足されなかった例も幾多あるのでございます。
それは過去の住宅営団とか、そうしたものを振り返ってみると、日本の機構の場合、いろいろな公団というものをこしらえると、やがては公団が妙な――もっと言えば、食糧営団とか、何とか営団とかいうものができた。ところが、そのときはよかったが、しまいのころには、もう食糧営団が官僚的になって、庶民の食生活の上にのさばってしまって、やみ取引をしたり何かして、食糧営団そのものが妙なものになってしまう。
樺太で五年間の服役を終って、五十三年の一月三十日に刑を終り、南樺太の敷香の町に帰住を許可されて、そこに行って六月までの間、ソ連の国営食糧営団の小麦をかついだり、グルシク——仲仕みたいなことをやっていました。その後自分はある人の世話で、歯科技工士の見習いとして約一年と一カ月間、敷香の町で働いておりました。
たとえば昭和二十六年の三月をもつて廃止になりました当時の食糧営団からの引継ぎの麻袋が百万袋ぐらいあつたと存じておりますが、この百万袋は間違いがないかどうか。それからそのほかに食糧営団以外の食糧庁自体が持つておつた手持麻袋が六十数万袋あつたようにわれわれの調査ではなつておりまするが、その調査に間違いがないかどうか。