2000-03-28 第147回国会 参議院 国土・環境委員会 第7号
ところで、富本銭が発見された飛鳥池遺跡、これは飛鳥寺に接して、飛鳥時代の歴代の宮殿とも近く、多様な工芸品などが出土をしました。そこに今、奈良県が万葉ミュージアムを建設しています。飛鳥池遺跡はどんな遺跡なのでしょうか。文化庁。
ところで、富本銭が発見された飛鳥池遺跡、これは飛鳥寺に接して、飛鳥時代の歴代の宮殿とも近く、多様な工芸品などが出土をしました。そこに今、奈良県が万葉ミュージアムを建設しています。飛鳥池遺跡はどんな遺跡なのでしょうか。文化庁。
酒船石遺跡は、飛鳥寺の南東の丘に所在いたします飛鳥時代の遺跡でございまして、丘の上には古来より酒船石と言われる石造物がございました。これは昭和二年に史跡に指定をいたしておりますが、今回の発掘調査によりまして、その北側の谷に石垣や石敷き、カメ形石造物などが発見されたわけでございます。
飛鳥寺に接する北半分は「天皇」の文字が書かれた最古の木簡が発見されるということで、飛鳥寺と深いかかわりがあったのではないかと言われています。南半分は多数の炉跡群がある工房跡です。古代の手工業技術が集積した大規模な総合工房、現代の言葉で言うと巨大コンビナートということであって、重要な生産遺跡です。古代の造幣局とも言われています。 これだけの工房が一カ所に集積した遺跡はほかにはありません。
それを順次発掘調査いたすわけでございまして、当時の官寺である、たとえば大官大寺とか飛鳥寺とか、こういうものを全部含めて順次調査しておるわけでございます。
例を挙げますと、たとえば特別史跡になっております高松塚古墳、石舞台古墳あるいは川原寺の跡、飛鳥寺の跡、大官大寺跡というように最古の官寺の跡が幾つかございます。
このことは、一つ一つの遺跡の範囲についても、不確定な要素を今日でも持っており、つい近年の発掘で、飛鳥寺の北辺が北方へさらに広がったこともそのよい例であろう。 云々とあります。 この点で、飛鳥地方における埋蔵文化財の重要性をどのようにとらえておるのか、御見解を最初にお伺いしたいと思います。
○山中説明員 明日香村関係で、いわば国の史跡に指定されるというような重要な遺跡としては、たとえば高松塚古墳、石舞台古墳、川原寺、飛鳥寺、大官大寺あるいは飛鳥板蓋宮跡と言われているところとか飛鳥稲淵宮殿、それからまた飛鳥水落遺跡など、十四の遺跡が国の史跡に指定されております。こういうもののうち、まだ調査が済んでいない、今後まだ相当かかるものもございます。
そういう事情がございますので、なかなか今後の調査の終わる見通しは立っておりませんが、ただいままでの調査によって、せんだって先生方がごらん願った地域をとりますと、あれを一つの宮殿のある地域というふうに見通しを立てますと、飛鳥寺までの間の地域の調査をまだ進めなければなりません。今日まで三十年かかりました。あと何年かはわかりませんが、今日までの二十年を倍にいたしますと、なお二十年は十分かかると思います。
欽明・天武・持統・文武の天皇陵や石舞台や高松塚などの古墳をはじめ、飛鳥寺川原寺・橘寺・大宮大寺など多くの寺院・史跡や埋蔵文化財がのこされ、また万葉の飛鳥川・雷の丘・南渕山なども、むかしのままの姿で、古代のいぶきを伝えています。」 これは前村長である岸下さんが会長となって組織している「飛鳥古京を守る会」の趣意書の冒頭の文章でございます。
たとえば川原寺の場合には、現在の知識で、ある程度復元的な、建物がどういうふうに配置されておったかということが推定できるのでありますが、飛鳥寺の場合には、これは中国、朝鮮にもそのような例はございませんし、まして日本では最古の建築というと法隆寺になるわけであります。
たとえば飛鳥寺の場合には、そこへ大化の改新のあとで中大兄を主体としました軍勢があの飛鳥寺に立てこもるわけであります。これは蘇我氏の蘇我蝦夷と戦うための戦いをそこでやるわけでありますが、そこの陣地としたわけであります。その陣地がいまわれわれが甘橿丘と呼んでおる付近にあったというふうに考えておるのでありますが、この中間が抜けたりしますと——この間がやはりそういう歴史の場としては一体的なものであった。
私、昭和三十一年に飛鳥寺の発掘をいたしました。飛鳥寺というものは、日本で最初に仏教が伝わって本格的なお寺をつくったところだということを言われておりました。
飛鳥地区につきましては、飛鳥寺のあとの指定地で人家密集地を除いたあと、それから安居院のところを除いた部分についての買い上げをしてここを計画的に整備をしたい、こういうのが中心になっておるわけでございます。
施設整備とあわせまして、保存につきましても、飛鳥には、石舞台古墳なり板蓋宮跡なり飛鳥寺なり川原寺なり、いろいろなものがあるわけでございますけれども、具体的にどのようにして保存するか、その姿を村の人たちになるべく早く明らかにしていただく、そのことが、保存についての村人たちの共感を得るためには必要なことではないだろうか、こう考えるわけでございます。
宮に伴いまして飛鳥寺、大官大寺などの官私の寺院が数多く建立され、また蘇我氏や帰化人らの邸宅もつくられたところでございます。そのほか欽明天皇陵や天武、持統両天皇の合葬陵などの天皇陵や、豪族の古墳も点々として存在する。
それから飛鳥板蓋宮、飛鳥寺、石舞台古墳につきましては、遺跡の環境整備をするための費用を要求いたしております。 それから資料館につきましては、総理府と並行しまして、われわれのほうでもこの資料館の費用を要求いたしておるところでございます。
○説明員(今日出海君) 全く御趣旨は、ふしぎなくらい同じ考えを持って明日香をやろうと思っておるのでございますが(笑声)たとえばいまのお話で、飛鳥寺の問題、私は、断じて、あのような休憩所をあの場所に建てていいと申したことはございません。
文化庁の長官にお伺いいたしますけれども、たとえばいま飛鳥寺ですか、飛鳥寺と思いましたですが、あそこの中にまだ残っている、許可をしないけれども、その後建物が建っちゃったというところがある。
数多くの天皇陵や古墳をはじめ、飛鳥寺、川原寺、橘寺、大官大寺など、多くの寺院、史跡、埋蔵文化財が残されていますし、万葉の飛鳥川、雷の丘なども、昔のままの姿を伝えているのでございます。飛鳥の中心甘樫の丘の上に立ちますと、もろもろの遺跡を含めたいわゆる歴史的風土を一望のうちにおさめることができるのでございます。
それで藤原宮跡のお話が先ほど来出まして、たいへん重要であることはもちろんなんですけれども、ところが藤原京のほうは、奈良の平城宮を中心にしまして七大寺があって、そして京を形成しておりますように、ここもやはり飛鳥時代からの飛鳥寺をはじめ多くの寺々のあとがありますし、また現存しておる寺も、岡寺、川原寺あるいは橘寺のようなものがありまして、これも藤原京もしくは飛鳥時代の景観を保っておるわけです。
調査の結果、現在、飛鳥大仏を安置する安居院の位置は飛鳥寺の中金堂跡であり、大仏の台座は飛鳥寺創建当時のままであることを確認するとともに、飛鳥時代の伽藍形式の遺構を新知見として発見いたしております。さて、飛鳥地方の発掘調査としては、現在、飛鳥板蓋宮跡の調査を昭和三十五年以来、奈良県教育委員会が国庫補助を受けて継続実施しておりますが、事業費も少なく、まことに遅々たるものであります。