2005-06-15 第162回国会 衆議院 郵政民営化に関する特別委員会 第15号
その歴史を江戸時代になって頼山陽が、重盛の心境を、忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならずと言った、こういうんですね。
その歴史を江戸時代になって頼山陽が、重盛の心境を、忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならずと言った、こういうんですね。
「寸にして断たざれば尺の憾あり、尺にして断たざれば丈の憾あり、たとえ一木といえども、これを双葉のときに伐取ることは極めて容易でありますが、その根が地中に深く蟠居するに至っては、これを倒すことはなかなか容易なことではない、」斎藤議員が、古くからのことわざである頼山陽を引用して、このように警告されています。
まあ橋本建設大臣は、雲かかすみかと言って、自分が頼山陽になったようなつもりで御答弁になっておった。いわゆるかすみ堤である。これが四十三年に本堤に変わってしまったということなんであります。
しかもその川の流れる浦戸湾、これは高知港と呼ばれ、また別名吸江湾と呼ばれておりますけれども、これはかって頼山陽が、私ども中学生のときに習った漢文の中に出ておりましたが、土の吸江天下の絶景、こういわれているところ、ここには全く魚が住まないという状態があらわれておるわけです。私は、時間がありませんから、ここで公害展をやるわけではありませんけれども、実際の現物を見ていただきたいと思うのです。
昔は、頼山陽が天下の名勝、土州の吸江といった名勝地ですが、その名勝地の面影は全くない。しかも交通危険地域、無法地帯、こういう状態になるわけですね。 だから、そういう面から見ましても、一万トン岸壁を二バースいまつくる必要があるかという疑問も生じてくるわけです。
ということがその例と言えますが、たとえば頼山陽はこういうことを書いております。「敵師の蒙子をして一たびその降を容るるや、之に授くるに干才を以てし、委するに環衛の任を以てして敢て疑はず。蓋し赤心を人の腹中におくもの也。」こういうことを申しております。
これは古事記、日本書紀の都合のいいところをとってきて、そうして水戸光国とか頼山陽とかいう学者が、この支那思想をもってきていわゆる近世勤皇論を作り上げたことはだれでも知っておることなんです。勤皇論というものは近世の産物なんです。それが明治革命のスローガンだった。実際はこれは民主革命にならなかった。人権擁護の革命にならなかった。
現に徳川時代、頼山陽があの日本外史を書くときですら、支那の歴史をいろいろ持ってきて、そしてあの日本外史に当てはめた事実があるのです。そういうふうなものを持ってきて、そして専制政治をもたらして人民を圧迫し、軍国主義に悪用され誤解されるような神武東征を建国記念日にしなければならぬ理由が一体どこにあるの、私はそう考える、これは何らの意義はないのです。
頼山陽が江之島遊覧記の中にこの烏帽子岩について、きわめてその景色の雄大なことと、その形の烏帽子といわれる名前の出どころさえも詳細に説明していることでおわかりであろうと思うのであります。ところがこの烏帽子岩は単に名勝であり天然記念物であるのみならず、この茅ケ崎漁港を中心として去来する船の目標であります。さらに目標であるのみならず、相模湾における小規模なる避難地であります。
私の遺言として皆様方にお願いをして、将来の日本の、再建のために、皆様方がただいたずらに地方の人の陳情ばかりによつて、それじや行こうというようなことでなしに、常に地図を広げて、世界の海運、空運、陸運の関係等に心を悩まして、頼山陽さんが血を吐いて死んだように、日本の再建の上から言えば、大臣も港湾局長さんもわれわれ代議士も、血を吐いて国家の将来に御奉公するという意味から、私は真剣にお互いに研究したいと思うのであります
その大觀は東はキリスト殉教の夢と傳説を秘めた不知火の有明、八代の海を抱き、はるかに肥薩連峰に火を吹く大阿蘇を眞近かにながめ、西は頼山陽の「雲か山か呉か越か」の洋を拡げ、北は津早、千々岩の兩海峽を横たえて雲に霞む雲仙を軒端に見、南は太平洋の波に洗わるる周圍七十六里と三十五里の二島を取り巻く百九つの島島から成る五十七万里、人口二十五萬、戸數三萬九千五十六箇町村、全島公園の群島でありまして、右に豪壮阿蘇、