2015-05-21 第189回国会 衆議院 農林水産委員会 第11号
○林国務大臣 大変大事な御指摘でございまして、少し昔話になりますが、山口県の大先達の伊藤博文の子分と言われていた品川弥二郎というのがおりまして、これがドイツに留学したときに、青木周蔵という人と話をして、今まさに委員がおっしゃっていただいたように、大資本と小さい人が渡り合う、どうしたらいいのかということを話していたときに、ドイツには協同組合というのがあるんですよ、こういう話を聞いて、その後、品川は自分
○林国務大臣 大変大事な御指摘でございまして、少し昔話になりますが、山口県の大先達の伊藤博文の子分と言われていた品川弥二郎というのがおりまして、これがドイツに留学したときに、青木周蔵という人と話をして、今まさに委員がおっしゃっていただいたように、大資本と小さい人が渡り合う、どうしたらいいのかということを話していたときに、ドイツには協同組合というのがあるんですよ、こういう話を聞いて、その後、品川は自分
農協法が制定されたのは昭和二十二年ですが、その前をさかのぼりますと、我が長州の先達の品川弥二郎というのが、これは伊藤博文の子分みたいな人でしたけれども、ドイツに渡ったときに、当時そこにいた青木周蔵から、ドイツにはこういうものがあるんだと聞いてきて、自分の一生の仕事として、協同組合というものを日本につくろうということで、後に、たしか内務卿になったときに最終的に立法したというのがその起源だ、こういうふうに
我が長州の先達で品川弥二郎というのがおりまして、これが維新のリーダーの一人であったわけでございますが、協同組合というものを、ドイツに行ったときにたしか青木周蔵から聞いて、これが自分の一生の仕事であるということで、最終的に、内務卿のときだったと思いますが、法律を通してつくったということであります。
ちょうど同じ医者で、長州藩の青木周蔵という若い医師、藩の認可をいただいて、山口県から長崎に行き、そこでヨーロッパへ向かう船に乗っていった青木周蔵という人がおられます。この方は、ドイツに行ってプロイセンの憲法を勉強されたわけであります。そこで、このプロイセン憲法は、皇帝を中心に国を構成しておりました。
そこの中で、やはり青木周蔵さんとか、それから一番有名なのは陸奥宗光さんかもしれないし、小村寿太郎さんかもしれませんが、先人たちが努力をして日本の自治というものを回復してきたという歴史的な経緯があって、今の日本というのが果たしてそういう状況にあるのかどうかというのを我々は改めて考えてこなきゃいけないんじゃないのかなと、そう思います。
那須野ケ原は、かつて明治政府の殖産興業政策の一環といたしまして、大山巌、西郷従道、青木周蔵、松方正義など、明治の元勲たちなどの大農場方式による開拓の舞台となりました。日本が近代国家として生まれ変わった明治初期の新しい国づくりのロマンが今もなお息づく土地柄でございます。二十一世紀の新しい日本をつくろうという国会等の移転先地として、まさにふさわしい場所であると考えておるところでございます。
この那須野ケ原の本格的な開発は、明治以降、大山巌、西郷従道、松方正義、青木周蔵、山県有朋ら、そうそうたる明治の元勲たちの大農場方式による入植、開拓からであり、この開拓を支えたのが那須疎水の開削でありました。那須疎水は、明治十八年に当時の国家的大プロジェクトとしてつくられました。その疎水も百年を経過し、今では周囲の風景に溶け込んでおります。
その元勲たちとは、御承知のように、大山巌元帥、西郷隆盛の弟の西郷従道、品川弥二郎、松方正義、山縣有朋、佐野常民、青木周蔵、戸田氏共、毛利元敏等々、それぞれが数百ヘクタールから千数百ヘクタールの土地を国から借り受けまして、開拓民を募りまして入植をいたしました。 こうした開拓を支えたのが那須疎水の開削であります。