2012-03-30 第180回国会 参議院 予算委員会 第15号
○小野次郎君 総理にお伺いしますけれども、私の親が戦前に軍隊に入って、当時、若い青年将校で入って、敗色が濃いという状況の中で、職場で年配の方が話しているのを聞いたら、あと何か月で恩給が出るんだとか、恩給、おまえ幾らもらうんだみたいな議論をしていると。
○小野次郎君 総理にお伺いしますけれども、私の親が戦前に軍隊に入って、当時、若い青年将校で入って、敗色が濃いという状況の中で、職場で年配の方が話しているのを聞いたら、あと何か月で恩給が出るんだとか、恩給、おまえ幾らもらうんだみたいな議論をしていると。
その二・二六事件の青年将校辺りもこういうことを盛んに歌ったと。また、一般の人もこういう歌を歌ったという社会的な背景があった。 したがって、二・二六事件、結果的にはあのようなことになりましたけれども、国民は共感するものを持っておったんではないかなと私は推測もしております。
あのときに、青年将校が立ち上がった理由の一つに、政官財というか財閥、当時は、とのやっぱり癒着、腐敗ということに対して憤りを持って、彼らなりに、いい悪いは別にしてですよ、正義感もあったわけですよ。 今回見ていますと、防衛省のトップが昼日中もずっとゴルフしていると、ずっとじゃないにしても、しょっちゅうゴルフしていると。
○林芳正君 正に、代表質問で我が党の山崎幹事長からも、戦前の話でありますけれども、犬養総理が、話せば分かるではないかと、こう言って、しかし、当時の青年将校は問答無用であると言って犬養を射殺をしたと。
犬養毅はこの言葉を残し、問答無用という青年将校の凶弾でこの世を去ったと言われます。しかし、犬養の最期の言葉に込められた思いは正しいものであったと私は考えております。 今後、我々は大変厳しい議会運営を迫られることとなります。そうした中にあっても、総理が国益をしっかりと見据え、情理を尽くして丁寧に信念や政策を語り掛けるならば、必ずや国民の支持と信頼とを取り戻すことができます。
これはどっちが協力したのか、政治の場における議員立法を制定していこうということに対する理解者の一人ということだったのか分かりませんが、恐らく平岩さんからすると、逆に政治家の一人であった青年将校時代の中曽根政治家に対する、むしろいろんな意味で協力をしてくださったお互いの相関関係だったんだろうと思うのですが、戦後日本の発展を支えた数少ない文化的財界人であった、こういうふうに追惜、追悼をしておられるわけであります
だから青年将校が暴走するわけですよね、大臣。 それで、教育基本法を改正した暁に何を一体やりたいんだろうというふうに考えたときに、先ほどもちょっと議論に出ていましたが、地方教育行政法四十八条においては、文部科学大臣は教育委員会に対して指導、助言、援助を行うことができると書いてございます。指導、助言、援助を与えることができる。
私ども野党四党は、教育改革については、それは教育の現場のさまざまな問題を解決するための改革はしなければならない、しかし、いじめや未履修の問題、あるいは偽装タウンミーティングをさまざまにやってきた、伊吹文部科学大臣のお言葉をかりれば、上が知らないのに青年将校が突っ走ったという表現を参議院でしていらっしゃいましたが、そういう文部科学省の体質、教育基本法が新たに発効いたしましたならば、その解釈運用をするのは
これは、師団長が知らないのに青年将校が何かやったということはあっちゃ戦時中と同じことになりますから、だからそういうことも含めて、文部科学省の行政の流れその他について最終的に結論が出れば私が私の判断をいたします。
そんなに人数多くなくて、それで青年将校が集まって、海軍が中心ですが。二・二六事件というのは、私はこの目で現場を見ていました、赤坂見附辺に集結しているのを。これはクーデターだと思いますね。昭和天皇が、先生も書いておられるけれども、一生の中で数少ない判断を下された中で、これは反乱軍であるということで間もなく鎮圧されたわけですけれども。
そして、五・一五事件もテロですよ、あれは青年将校がやったことですけれども。二・二六事件はクーデターに近いかもしれないけれども、正にテロというのは世界じゅうでずっと以前からあった。なぜ起こるのか。問題はそこじゃないですか。 それは、民族的な対立とか宗教的な対立とか、あるいは歴史的な怨念とか、さらには貧困、抑圧という状態、それに対する反発、あるいは主義主張の違いから来るものもあるでしょう。
中曽根康弘元総理、当時青年将校でいらしたはずなので、私は、総理時代に、なぜあの独立回復したときに憲法改正をお考えにならなかったんですかと、青年将校としていかがでしたと。いや、当時はとてもそんなことを言える状況じゃなかった、そして独立回復のうれしさに紛れて、それはまた現実の問題じゃなかったから、みんな余り議論しなかったよと、こうおっしゃっておられました。
昭和八年に一生懸命関東軍を抑えようとした内大臣、侍従長、これがみんな二・二六青年将校のターゲットになって、それで、斎藤実内大臣は実は殺されちゃいます。
けさ、目が覚めましたら、きょうは二月二十六日で、昔二・二六事件というのがあって、今から六十七年前、昭和十一年に青年将校のクーデターが起こったわけですけれども、くしくもその昭和十一年に国会議事堂が十一月に完成をしたということがありまして、もう六十七年間、国会議事堂もたっているわけです。
ある青年将校──私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのです──から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。
それで、その影響を受けまして、軍部でも青年将校たちが左翼になりました。簡単に言いますと、右翼なんですけれども左翼という奇妙な状況であります。 右翼というのは、天皇ということと日本の国体ということにおいては非常に忠君愛国、民族主義的なのでありますが、彼らが掲げる政策はことごとく共産主義に近いものでありました。
その間にあって、血気にはやる青年将校に敵とされ、成功を見なかった五・一五、二・二六事件もありました。しかしながら、これらの明治維新、五・一五、二・二六、終戦、いずれも単一民族である重臣、閣僚を初めとする多くの大和民族の血を流したものでありました。
ある意味では、二・二六事件の青年将校の引き金になったのは、これは、そういう問題が当時の政治に対してあのような過激な行動に出た。またそれがうまく利用されて、日本がまっしぐら軍国主義に突入をしたというふうに言われております。 ですから、そのこともやはり教える必要があるのではないか。
あのときの上級将校が若い青年将校を抑えることができなかった。参謀肩章をつけた大尉、少佐参謀というのが突き上げる。とうとう不拡大方針と逆の方向に走って第二次大戦、惨めですよ。同じことが今まさにここに出てこようとしておるじゃないですか。この人たちはやじって笑う。私たちは真剣なんだ。ただ単に、この輸送機を難民を輸送するためには送ってもいい、送ってやりたい、自衛隊機も飛んでいいじゃないか。
西岡さんの何というかな、青年将校時代の言葉が出たのかなと思いましたけれども、そう思って聞いておりました。 ただ、これは廃止というのは政府が提出した提案なわけですから、当然政府が収拾すべきものだろうと私はそう思っているわけです。ですから、五年以上たって、なに五年以上どころか二十年たちました。ちょうど二十年ですね。大変な年限をほうっておいたんじゃないか。
三木先生は、この時代を政党政治が腐敗堕落して国民の信を失っていたときであったととらえ、青年将校の決起には国民の共感を呼ぶ部分もあったとしておられました。もちろん、三木先生は青年将校の行動を是認されたのではありません。政党が腐敗して利権ばかりをあさり、内部から崩れていくとき、政治はだれに握られるか、戦前の軍部の専横は政党がみずから招き寄せたものであるという考えでありました。