2019-02-27 第198回国会 衆議院 予算委員会第四分科会 第1号
戦前に青年学校を出ただけという方でございます。戦争からの復員後、大好きな考古学のため、群馬から東京に通って大学の先生に教えを請うて、そして学問的な素養を養い高め、この遺跡の発掘にその生涯をささげております。先ほど大臣おっしゃっていただいた、いわゆる在野の考古学者ということでございます。
戦前に青年学校を出ただけという方でございます。戦争からの復員後、大好きな考古学のため、群馬から東京に通って大学の先生に教えを請うて、そして学問的な素養を養い高め、この遺跡の発掘にその生涯をささげております。先ほど大臣おっしゃっていただいた、いわゆる在野の考古学者ということでございます。
○川内委員 この相沢忠洋さんという人は、戦前の青年学校までしかお出になられなかった。戦争に行き、復員してきて、とにかく考古学が大好きで、サラリーマンになると好きな考古学の研究ができないから、納豆の行商などをしながら、一生懸命いろいろな遺跡の発掘に尽力をした。
○串田委員 この昭和二十一年、二十二年当時のいわゆる小学校、中学校、当時は初等教育、青年学校等と呼ばれているようですけれども、当時は合わせて六五%、これを、当時の憲法をつくったGHQは、通っていない子供たちがまだ三分の一いたわけですけれども、普通というふうに呼んだわけでございます。一方、一八八六年の中学校令は、中学校の教育目的を高等普通教育と呼んでいたわけでございます。
どんな熱意があったかといいますと、戦争中、この高岡さんは青年学校の教師をしておられました。たくさんの自分の教え子を戦地に送り出されました。そのときに、桜の花の咲いている木の下で別れのうたげを開いて、お国のために尽くしてこい、そして、またこの桜の花のもとに帰ってこいと励まして送り出されたそうです。でも、二度と帰ることのなかった若者、教え子たちは大勢いました。
これは、文部省が四六年に出している中等学校・青年学校公民教師用書というのがありますが、従来の極端に国家主義的な教育方針の結果、道徳の向かうところもまた一律に国家目的の実現というふうに考えられた。そこで、結局、道徳教育が人間の基本的権利及びその生活条件を無視するような傾きも見られるようになったと、こういうことも当時文科省発行したものの中にも書かれております。
八重山諸島には、陸軍中野学校出身の離島残地諜者が、国民学校訓導や青年学校指導員の辞令をもらって偽名で配置されていました。波照間に配置されたのは、本名酒井清、仮名山下虎雄という陸軍軍曹です。そして、波照間から西表への強制疎開というのは、山下軍曹の命令のもとに強行されています。そのとき山下は、完全に島の支配者となって軍刀を振りかざしながら村民を強制疎開させています。
昭和十八年四月、多々良航空製作所長府工場に入られた君は、労働の傍ら勉学に努め、昭和二十年三月、同製作所附属青年学校を優秀な成績で卒業されました。君は、同校卒業後、直ちに神戸製鋼所長府工場に動員され、日夜厳しい労働に従事されたのであります。後年、この体験こそが働く者の立場を貫き通した君の人間形成の基盤となったのでありましょう。
○中西珠子君 公明党広島県本部が竹原市に行きまして、昨年の八月に実情調査を行ったわけなんでございますけれども、大体この大久野島では旧令共済組合員であった人たちが常時大体五千名いたということで、それから、先ほどから厚生省の方は、もう毒ガスなど製造していないときに学徒が来たというお話でございましたが、竹原市を中心とした周辺の中学校、高等女学校とか青年学校の生徒、また小学校の高等科の児童まで未成年の学徒が
あるいは初等教育を終えて中等教育に進まない者のための青年訓練所の設置であるとか、あるいは青年学校の創設などにつきまして答申が行われているようでございます。それから文教審議会、昭和十二年の文教審議会でございますが、これは実質的な審議を経ることなく、六カ月で次の教育審議会の方に引き継がれたようでございます。
御家庭の事情は中学への進学を許さず、小学校を卒業すると、愛知県豊田市のトヨタ工科青年学校に進まれました。 そして昭和二十年三月、卒業と同時に、トヨタ自動車工業に入社されました。当時、太平洋戦争の敗色は日増しに濃くなり、国の運命は大きなあらしの中に揺れ動いていた時期でもありました。
で、諸学校令には、学校を設置できる者として三者——この三者というのは国、地方公共団体、学校法人でありますが、それ以外に青年学校令、実業学校令、専門学校令、盲学校及聾唖学校令で私人が設置できると、こういうふうになっていたわけであります。
昭和十二年、高等小学校を卒業された君は、働きながら勉学する道を余儀なくされ、昭和十三年、豊田自動車工業株式会社に入社し、労働の傍ら、昭和十八年、豊田工科青年学校を卒業されました。 この間、君は早稲田大学の講義録を読破して知識の吸収に努められるとともに、柔道に熱中し、心身の鍛練に若き情熱を注がれました。
御承知のとおり、中学校から高等学校、専門学校に行く制度と、あとの者は二割の者が実業学校を含めて行ったのですが、八割は全部青年学校等へ行ってそのまま終わってしまったのです。そこへ司令部からどうしても六・三制をやれと非常に強い要請がございまして、財政的に非常に不如意でございましたけれども、とにかく思い切って六・三制に踏み切ったわけでございます。
○諸沢政府委員 これは昭和四十五年の国勢調査でございますが、その数字を見ますと、十五歳以上の国民につきまして、総数のうち、小学、高小、新制中学というものを卒業しておる人がどのくらい、旧制青年学校を卒業しておる人がどのくらい、旧中、新制高校を卒業しておる人がどのくらいというふうに、学校を卒業しておられる方と在学者とそれから未就学者とこういうふうに分けまして、未就学者の数というのが五十七万二千九百七十九人
先生たちにいろんなことを言われて、たいしたおだてられてやったけれども、これは青年学校で教えたのがちょうど帰ってきて、ちょうど憎まれ盛りみたいのやいろいろなのがおりましたからね。そういうのがほんとうにちょっと軽べつして言われたときにはもうがっくりきた。
事件は、私が申し上げるのは、特に現在、その当時のことをよく知って、沖繩における久米島の戦争記、いわゆる戦争日記というものをまとめた仲間智秀、この人は、現在県青少年健全育成県民会議の事務局次長をやっていまして、この人が具志川村役場の戦争日誌、具志川村青年学校の日誌、元いわゆる久米島郵便局発行の日誌を集めまして編集して久米島戦記というものをまとめた。これは沖繩県民は知らないのはいません。
私自身は、太平洋戦争の始まる直前の昭和十五年に、当時の青年学校の教諭と兼務で国民学校の訓導を拝命した一人でありますが、当時、軍国主義下におきまして、天皇制のもとにおける教員の身分というものは、天皇の官吏、待遇官吏として官吏服務紀律のもとで滅私奉公、ひたすらに私を捨てて国家権力に対して絶対忠誠を誓わされ、無定量の服務に服すべきことが要求されました。
その人たちがどういう形になっておるかということを見てみますと、高等学校全日制、定時制、通信制、別課、さらにまた高専、こういう学校へ行っておる子供、さらに各種学校へ行っておる子供、その他青年学、級、勤労青年学校、公共職業訓練所事業内職業訓練所、経営伝習農場、海員学校、いわゆる高等学校のようなものからそれに準ずるような教育機関に、いま述べましたような教育機関に在籍しておる子供が四百八十六万六千人ばかりございます
御承知のとおり、戦前には青年学校があってこういうことをやっておった。したがって、私は技能者の不足というものを充実するという意味からいっても、また特に雇用者のそうした者に対する訓練なり、教育の義務というものは当然だと思うのです。