2016-10-21 第192回国会 衆議院 財務金融委員会 第3号
○伴野委員 戦争というのは人類にとって絶対避けなければならないものであると思いますが、言いかえれば、国民なり、世界的に人類が追い込まれたときに、私は、大義に生きる人というふうに今の大臣のお言葉を頂戴したわけですけれども、日本だとやはりどうしても浜口雄幸さんの名前が私はぱっと出てきまして、「男子の本懐」というのも読むところでございます。
○伴野委員 戦争というのは人類にとって絶対避けなければならないものであると思いますが、言いかえれば、国民なり、世界的に人類が追い込まれたときに、私は、大義に生きる人というふうに今の大臣のお言葉を頂戴したわけですけれども、日本だとやはりどうしても浜口雄幸さんの名前が私はぱっと出てきまして、「男子の本懐」というのも読むところでございます。
我が国の第二十七代総理大臣は、ライオン宰相、浜口雄幸総理大臣です。当時、日本は不況の中にあり、金解禁や緊縮財政を行っていた浜口総理は、昭和五年十一月、東京駅のホームで銃撃されました。秋から続いていた国会に出席できない日々が続き、野党からは、総理が国会に出られない以上、政権を野党に渡せと言われます。今国会の会期中には必ず浜口は登壇すると時の与党は答えました。
六月の五日、朝は七時のスーパーひたちでいわきに入りまして、実は川内村の遠藤雄幸村長に、本来私たちが川内村にお伺いしなければいけないんですが、スケジュールがタイトだったので、いわきにお越しいただいて、午前中、今までの経過、現状、今後の思い等のお話をいただいて、参加された委員の皆さん全員が質問をする中で、大変有意義な会合が持たれました。
先週六月五日、当委員会において委員長以下十名で放射性物質による環境汚染の取組状況調査のために福島県の現地視察行いまして、あわせて、復興に取り組まれていらっしゃいます川内村の遠藤雄幸村長との意見交換行わせていただきました。村長からありました要望の一つに、森林除染が挙げられていました。森林に近い他の地域についても同様の課題であると思います。これに関連して本日は質問をさせていただきたいと思います。
一九三〇年、浜口雄幸さんがデフレ政策をやったとき。 一方、平成恐慌はどうか。その下をごらんいただきますと、今のデフレは一九九八年から始まっております。そこで、一九九七年を一〇〇にして、前年に比べてGDPデフレーターがマイナス幾ら幾らと、こうなっていますね。前年に比べて幾らだから大したことない、〇・五か一・五かと思っているけれども、累積していきますと、実は二〇一二年で二一%なんです。
○事務総長(中村剛君) 去る一月三十一日、内閣総理大臣から本院議長宛て、平成二十五年十二月三日に死亡した中央選挙管理会委員長谷雄幸久君の後任者の任命について本院の議決による指名を求めてまいりました。 長谷雄委員は、公明党からの推薦に基づき指名されたものでございまして、同会派から後任者として現在予備委員である橋本文彦君を推薦してまいりました。
○柳澤光美君 ちょっと具体的なことはその後聞きたいと思いますが、区域を見直すのを進める中でのちょっと経験話をさせてもらいたいと思うんですが、昨年の一月三十一日の午前中、実は郡山の仮設役場で川内村の遠藤雄幸村長と帰村宣言について話をしていました。
○遠藤参考人 福島県川内村村長の遠藤雄幸といいます。 このような機会を与えていただきまして、心より感謝を申し上げます。 私どもの川内村は、第一原発から二十キロ、そして二十キロから三十キロの、二つの地域に分断をされております。面積は約二万ヘクタール。そのうちの八七%が豊かな緑に囲まれた地域でありまして、その山合いに約三千人の村民が生活をしております。
圭恵君 村岡 敏英君 石田 祝稔君 中野 洋昌君 柿沢 未途君 林 宙紀君 高橋千鶴子君 畑 浩治君 ………………………………… 参考人 (大熊町商工会会長) 蜂須賀礼子君 参考人 (双葉地方農業共済組合組合長理事) 山田 四郎君 参考人 (福島県川内村長) 遠藤 雄幸君
本日は、午前の参考人として、大熊町商工会会長蜂須賀礼子さん、双葉地方農業共済組合組合長理事山田四郎さん、福島県川内村長遠藤雄幸さん、南相馬市立総合病院副院長・広島大学客員教授及川友好さん、以上四名の方々に御出席をいただいております。 この際、参考人各位に一言御挨拶を申し上げます。 本日は、御多用のところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。
よって、議長は、 中央選挙管理会委員に神崎浩昭君、原邦明君、中野寛成君、和田洋子君及び長谷雄幸久君を、 また、同予備委員に元宿仁君、久米晃君、尾崎智子君、早川忠孝君及び橋本文彦君を、 それぞれ指名いたします。 ─────・─────
議長は、中央選挙管理会委員に 神崎 浩昭君 原 邦明君 中野 寛成君 和田 洋子君 及び 長谷雄幸久君 を指名いたします。 また、同予備委員に 元宿 仁君 久米 晃君 尾崎 智子君 早川 忠孝君 及び 橋本 文彦君 を指名いたします。
————————————— 一、中央選挙管理会委員及び同予備委員指名の件 委 員 神崎 浩昭君(自民推薦)(再任) 原 邦明君(自民推薦) 中野 寛成君(民主推薦) 和田 洋子君(維新推薦) 長谷雄幸久君(公明推薦) 予備委員 元宿 仁君(自民推薦)(再任) 久米 晃君(自民推薦) 尾崎 智子君(民主推薦)(再任)
浜口雄幸さんという方が、経済政策等についてはどうかなと今本などを読みますと思いますけれども、政治をして人間道徳の最高たらしめるという言葉をおっしゃったというふうにも聞いております。私は、これも非常に重い言葉であるというふうに思います。 文部科学省は、教育行政という中で、ほぼ全ての国民にかかわる重要な位置を占めているというふうに思います。
昭和恐慌の折、浜口雄幸総理、井上準之助大蔵大臣は、男子の本懐と称して文字どおり自らの命を懸けてデフレ政策である金輸出解禁を強行しました。政治家の生きざまとしては尊敬すべきものがありますが、誤った経済政策によって日本経済がどん底にまで落ち込んだことは歴史に刻まれています。
浜口雄幸さんという方たちがとって、これも大蔵省出身の方ですけれども、大変なデフレになった。それで、政権が交代して、政友会になって、若槻首相が出て、高橋是清が出てきた。それで、思い切って財政支出する。前年に比べて大体二五%から三〇%ずつ財政支出をしている。今でいいますと、まさに毎年二十から二十五兆円です。そうしましたら、一挙にデフレは解消した。
川内村の遠藤雄幸町長は、ここは人口三千人ですけれども、すべての村民がどこにいるか全部を把握している、だから、いつかは必ず戻ろう、そして戻って村の再建をしよう、春は必ず来るから、それまで元気で、元気で頑張ろうというようなことをホームページで呼びかけておられます。私は、こういうことが自治体にとってやはり一番大事なことであると思います。
問題はその後で、その文章をそのまま言いますと、政党の人事介入は田中義一政友会内閣にかわる浜口雄幸民政党内閣のもとでも繰り返された、最後の政党内閣となる犬養政友会内閣で過度をきわめた、しょうけつをきわめた、結局それが、政党に対する国民そして軍部の不信感や反発というものを深めた、軍部の政治進出を果たしたことになったんだ、軍部独裁につながっていった。
戦争に至る大きな原因の一つとして、軍部の暴走を政治が抑えられなくなったということが定説として指摘されているわけでございますが、その軍部の政治介入の重大な契機となったのが、当時の民政党の浜口雄幸首相が締結した昭和五年のロンドン海軍軍縮条約と、それが天皇の統帥権を犯すものだとして起こった、いわゆる統帥権干犯問題であったと言われております。
浜口雄幸総理が刺された、そして、辞職をされて亡くなられたという事件が起きたことも事実だと理解をしております。そして、そのことが、軍部に対して政府が物を申すことができなくなる、結果として政党政治というものが弱まったということも事実として起きたことではないか、そのように理解をいたしております。
○鳩山内閣総理大臣 先ほど竹内委員に対する答弁の中で、浜口雄幸総理が狙撃をされたと言った後、刺されたと言ってしまったようでありますが、撃たれた、狙撃されたと訂正申し上げておきたいと思います。 子ども手当に関して先ほども御議論がございました。
それで、一九三〇年に、当時の浜口雄幸、この方は大蔵省出身の憲政会の首相です。この方と、それから日銀出身の井上準之助大蔵大臣、この二人の方がタイアップして昭和恐慌ということをして、財政を、思い切って、前年に比べて五%、一〇%削減しました。その左上のグラフで黄色になっていますね。一〇、一五と落ちています。これで落ち込んで、それで結局、その下を見てみますとマイナス三〇とありますでしょう。
その後、浜口雄幸がそれを非常に怒ったわけですよ。それで、浜口雄幸が大蔵大臣になったときもそれをやろうとしたんだけれども、なかなか難しかった。 最近でも塩川さんが言っているじゃないですか、あれですよね。全くそうなんですよ。例えば、道路特別会計で家を建てたり、健康チェアをつくったり、金貸しやったりしているわけですよ。ですからそれは、今の文書はともかくとして、徹底的に踏み込みますよ。
その話を聞いたときに、私自身、以前先輩方からふるさと高知で聞いたんですけれども、私の出身は高知でございまして、よく子供のころから、坂本龍馬の話とか中岡慎太郎の話とかジョン万次郎とか吉田茂さん、浜口雄幸さん、そういったような郷土の偉人のお話は聞くんですけれども、と同時に、私が覚えているのは学校づくりというふうなお話です。
そして日本は、浜口雄幸の後、犬養毅がやはり農業土木をやって、その後、戦後復興に役に立ったわけです。この景気対策は当面の二年や三年の問題ではないんです。今から日本の五十年、百年を規定する、これが今般の景気対策、経済対策であるというふうに認識をさせていただいております。