2019-10-10 第200回国会 衆議院 予算委員会 第1号
改めまして、日本は、申し上げるまでもなく、四方を海に囲まれ、遣隋使、遣唐使、そうした時代、また、その昔から他国との貿易を通じて日本は豊かに、また彩られてきた、そういう国であります。まさに自由貿易が成長の礎となってきました。しかし、今、世界では保護主義的な動きが台頭しつつあるように思われます。
改めまして、日本は、申し上げるまでもなく、四方を海に囲まれ、遣隋使、遣唐使、そうした時代、また、その昔から他国との貿易を通じて日本は豊かに、また彩られてきた、そういう国であります。まさに自由貿易が成長の礎となってきました。しかし、今、世界では保護主義的な動きが台頭しつつあるように思われます。
おい、杉本、何か阿倍仲麻呂だったらしいぞという言葉があって、どんな意味かなというふうに思ったんですけれども、要は、やはり中国、大臣はそういう経験は何度もされているかと思うんですけれども、遣隋使があって、遣唐使があって、唐の時代に遣唐使として行かれたのが阿倍仲麻呂であって、その阿倍仲麻呂から歴史をひもといて中国は話をしてきた、こんなようなお話であったやに聞いています。
委員もまた私も同じ九州人でございまして、やはり九州におりますと、アジアというものは、もちろん距離的にもそうですし、心理的にも非常に、古来からの、遣隋使、遣唐使、太宰府とか、そういった古いいにしえの時代からも歴史があるわけでございます。
ですから、もう十七条の憲法からそうですし、あるいは外交にしても遣隋使を送って対等外交を目指した、これもすごいことだと思いますし、あるいは仏教伝来で、仏教を排除せずに神道と融合をもって日本の中で位置付けさせた、これも大変なことです。これはみんな聖徳太子の偉業として学んできているんですよね。
その点について一つお話ししたいと思うんですけれども、例えば六百七年、聖徳太子が隋の皇帝に遣隋使を派遣しました。そのときに国書に、日出るところの天子、書を日没するところの天子に致す、つつがなしや否やと、こう書いてあるんですね。これは、これを見て隋の煬帝は怒ったと。
これは長安を見てカルチャーショックを受けたと思うんですけれども、そういう遣隋使、遣唐使という人たちがその技術を学んで、そして日本でこういう平城宮を造ったということで、中国と日本のいわゆる交流の原点はここにあるんじゃないかということを僕も申し上げたわけですけれども、そのように歴史、ここは、文化庁造っていただいた周辺は国営公園としてこの二十年度から造成をさせていただいております。
○伊吹国務大臣 今先生のお話を伺っていまして、私が私の子供に昔話したことをちょっと御紹介しますと、かつて、中国という国は非常に日本の文化の父のような国と言われて、あちらで知識を取り入れるということは、遣唐使、遣隋使と言われて、当時としては大変名誉なことであったようですが、隋の国へ行こうというときに、大きな国へ行くことに非常に、遠い国でもありますし、恐れおののいていた人を励まして、山上憶良が詠んだよく
かつて、中国へ渡ろうとした遣唐使かな、当時、万葉のときですから遣隋使ですかね、この人たちが、中国というのは非常に大きな国だからといって心配していたときに、山上憶良が詠んで彼を励ました歌があるんですね。「倭の国は皇神の厳しき国」「倭の国は言霊の幸はふる国」と。
これは文化交流使、遣唐使、遣隋使にちなんでいるんだと思うんですけれども、非常に目玉的におっしゃるんですけれども、一体どれぐらいの方が向こうに出ていかれて、どれぐらいの方と交流されて、どれぐらいの方がこっちに来られたりしているんですか。人数ですよ。二十五という数字を役所の資料で見たんですけれども、二十五名の方が約四百万円ぐらいかけて海外に出ていって活動されたんですか。
その以前の歴史を御存じのようにひもといてみますと、遣唐使、遣隋使の時代から言わば文化の求心力のあるところに人が集まるという、あるいは日本人自身の進取性という気質もあるかもしれませんが、割と外に出掛けていた時代が長うございました。
日本が遣隋使とか遣唐使をしたときには日本は文字も知らないような非常に非文明的な国家でしたけれども、明治維新の時点では日本だけがアジアではヨーロッパ並みに識字率を誇り、中国をはるかに越していたという。 これは、我々日本人が平和な社会を築いたその結果として天皇制が続いた。天皇制が続いたから平和な国家だとは言いませんけれども、平和な国家を持続させたがゆえに天皇制が残った。
国旗の日章旗日の丸は、七世紀の初めの遣隋使が中国へ持参した国書には日出る処と記し、みずから日本という国号を使用して以来の由来があり、日本という国号を如実にあらわしております。 国歌君が代の歌詞は、我が国の最も伝統的な国語表現である五七調の和歌であり、しかも敬愛する君の長寿と繁栄を祈る賀歌として、十世紀初めの古今和歌集に由来します。
しかし、七世紀の初めごろ、遣隋使が中国へ持参した国書には、日出るところと記しており、また倭と称されることを嫌って、みずから日の本、すなわち日本と書く国号を用いるようになったとほかならぬ中国の正史に伝えられております。 その「日」は、先ほど来お話がありましたように、太陽でありましょう。地球上の万物に光明をもたらす太陽を丸印であらわすことは世界に多く見られます。
私のおやじがたまたま歴史の学者でございまして、特に遣唐使、遣隋使については当時も非常に立派な業績を残し、戦前にも立派な著書をつくりました。そして、それをそのときに改訂いたしまして、新しく模様がえをして、当時は日華文化交流史と言いましたけれども、実は原稿が書き終わって、そして冨山房という本屋に、出版するというんで原稿をその出版社に送った。
そのスタイルを、修行僧が見てきたのか、遣唐使だか遣隋使が見てきたのか、そのことを取り入れたわけで、制度とかそういうものを模倣するというか取り入れるときに、その素地だとか土壌であるとかそういったものを正しく取り入れているかどうかということなんかを、もう一回考えてみなけれはいかぬのではないかというふうに思います。 また、アメリカ、ヨーロッパでは、人種も違い、民族も違い、文化も伝統も違う。
これはもう文化庁も御存じのとおりと思いますけれども、奈良、平安時代から大陸それから朝鮮半島、こういったところは、いわば九州北部が窓口であったわけでございまして、遣唐使あるいは遣隋使、それあたりの出発も博多を中心としたところから出ておりますし、またその出るときの準備その他もあすこで全部果たしておるようですし、帰ってきてもあすこでやっぱり整理をし、そしてその部分が地元に文化、文明として落ちていく、こういう
過去の日本の歴史を振り返ってみましても、民間人の果たした役割、もちろん遣唐使とか遣隋使というものもございますけれども、それ以外にもかなり民間の方々が冒険心を発揮して活躍された、それが一つの大きな契機になったということもございます。
遣唐使、遣隋使のころに漢字というものが日本に参りまして、それを仮名に展開したりなんかしたのも我々の祖先の知恵というものでございましょう。 こんなふうに今日の日本文化というのを考えてみましても、これは過去における諸外国との、とりわけアジア近隣諸国との交流の結果物であったということをこの際認識しておきたい。
我が国が今日の繁栄をしておるその原因をたどってみますというと、今から千数百年前あたりは、主として中国などから、あるいは韓国などからもそうでございましたが、産業技術あるいは学問、そういったものを習って、そしてまた、その当時は日本から積極的に中国の方に遣唐使、遣隋使というような形で学問の勉強に行って、その人たちが帰ってきて我が国に学問を広め、あるいは産業を興した、そういうその当時の外国から恩恵を受けたという
たとえば推古天皇の聖徳太子の時代から遣隋使というものの派遣がございましたように、すでにその前の時代から、わが国におきましては、大陸の新しい文物を取り入れようという意欲が非常に旺盛であったということは、ささやかな歴史の知識におきましても記憶いたしているわけでございますので、そうした背景の中で、やはり一つの改新のときの考え方としてそういうものが採用されたということであったように理解いたすわけでございます