2017-11-20 第195回国会 衆議院 本会議 第5号
これについて、陽明学者であり、池田総理の心の師であった安岡正篤氏は、低姿勢、高姿勢、いずれも間違いである、自分の政治哲学をはっきり持っていれば、おのずから正姿勢、正しい姿勢になると助言したと言われています。 相手の顔色を見て右顧左べんするようでは、国民への責任を果たすことはできません。同時に、野党や国民に上から目線で臨むようでは、国民の信を失い、真っ当な政治を行うことはできません。
これについて、陽明学者であり、池田総理の心の師であった安岡正篤氏は、低姿勢、高姿勢、いずれも間違いである、自分の政治哲学をはっきり持っていれば、おのずから正姿勢、正しい姿勢になると助言したと言われています。 相手の顔色を見て右顧左べんするようでは、国民への責任を果たすことはできません。同時に、野党や国民に上から目線で臨むようでは、国民の信を失い、真っ当な政治を行うことはできません。
江戸時代初期の陽明学者熊沢蕃山いわく、山川は国の本なり、木草茂き山は洪水の憂いなしということでございます。江戸時代にも、幕府や各藩はこの森林対策については大変苦労をしていたようであります。明治時代には、近代化で増大する木材需要のため森林伐採が行き過ぎて災害が多発したため、森林法が制定をされたという経緯があります。
私は、代表質問のときに、岡山県、現在の高梁市、当時備中松山藩の山田方谷という陽明学者のお話を例に挙げましたけれども、なかなか、(発言する者あり)御存じでしょうかね、なかなか、私は上杉鷹山よりもすごいと思っているんですけれども、よく野田総理が引き合いに出されます佐藤一齋先生の第一の弟子といいますか、塾長をされていた方ですけれども、この備中松山藩、当時は七万五千両の収入に対して、半分、三万四千両、借金をしながら
私は、陽明学者の安岡正篤先生の著作も随分多く読ませていただいた一人だと自負をいたしておりますけれども、この安岡先生がおっしゃられる「思考の三原則」というものがございます。第一原則は、目先にとらわれず、長い目で物事を見ること。第二原則というのが、一面だけを観察しないで、多面的、総合的に観察をすること。第三原則というのが、枝葉にとらわれず、根本においてその問題をとらえること。
例えば中国から伝来してきた陽明学、これは陽明学者の数だけ陽明学があると言われるほどに様々な理解や解釈がありますけれども、しかし、例えば伝習録といったものをひもといてみると、これは仏教で言うと法華経のようなものですけれども、知行合一というのが出てくる。
まず、小泉総理は、五月二十九日の衆議院本会議におきまして、幕末の陽明学者佐藤一斎の、少にして学べばすなわち壮にしてなすことあり、壮にして学べばすなわち老いて衰えず、老いて学べばすなわち死して朽ちずという言葉を引いて教育の重要性を示されました。
その言葉とは、著名な陽明学者でございます安岡正篤氏の物の考え方ということについて書かれた言葉であったわけであります。それは、今の科学技術行政のみならず、今の社会全般を考える上に非常に大きな示唆に富んだものであるように私は感じております。 それは何かと申しますと、第一には、物を考えるに当たって、目先にとらわれず長い目で見ることが必要だというのであります。
林大幹新環境庁長官は、あの有名な陽明学者の安岡正篤さんの高弟ということを私も前から伺っております。哲学のある環境行政をぜひ実行していただきたいと思います。 きょうは、近年日本でも問題にされ始めました酸性雨の問題を取り上げてみたいと思います。 私の住む神奈川県の北西部に丹沢山塊があるのですが、この山塊は国定公園に指定されています。首都圏の一角にありますが、豊かな自然が残されていたわけです。
三百年ぶりでふるさとへ帰って、南京攻略に失敗して以来、絶望して水戸光圀の知遇に甘んじて日本に帰化した朱舜水は、朱熹(朱子)の正流であるけれども、朱子学や王陽明学などというものにこだわっていない、体験を通じてもっとその時々に必要な実践の学を探究したので、その門下生の中からは朱子学に対抗した陽明学者を幾人か輩出させている。
これは非常におかしなことを聞くようですけれども、世の中の動きというものについては、古い話ではありますけれども、例の、陽明学者として日本で非常に有名な学者の大塩平八郎がおりますが、これは御承知のように、幕府の、というか、あるいは岡山藩でありますか、大阪の天満の与力までなった人であって、最初はおかっぴきであったと私は思いますが、こういう人たちが、警察官の立場として世の中を取り締まってきた。