1985-11-14 第103回国会 衆議院 社会労働委員会 第1号
あの終戦直後、母国へ帰ろうとされた徴用工の方々が枕崎台風、阿久根台風などなどによって遭難をされて相当数の方が亡くなられた、それに基づいて明確に、非常に高い確度で調査をしていただいたわけでありますけれども、依然としてまだ遺骨が母国に帰っていない。私が申し上げたいのは、その一点であります。
あの終戦直後、母国へ帰ろうとされた徴用工の方々が枕崎台風、阿久根台風などなどによって遭難をされて相当数の方が亡くなられた、それに基づいて明確に、非常に高い確度で調査をしていただいたわけでありますけれども、依然としてまだ遺骨が母国に帰っていない。私が申し上げたいのは、その一点であります。
そして枕崎台風と阿久根台風という二つの大きな台風がある。その後一カ月以内に二回も大台風が起きて、そして多数の遺体が埋葬された、この事実だけはもうはっきりしております。 私も、ここは神聖な委員会でありますから、やはり予断は申し上げません。
ことしの六月二十六日に援護局が発表いたしました文書によりますと、今お読みになりましたとおり、「対馬については枕崎台風(昭和二十年九月十七日)、壱岐については阿久根台風(昭和二十年十月十日)の際に遭難した朝鮮半島出身者であると、極めて高い確度で推定し得るものである。しかし、上記の収集した遺骨が、旧三菱重工広島機械製作所の徴用工のものであることを裏付ける資料は発見されていない。
「昨年の調査結果どおり、対馬については枕崎台風(昭和二十年九月十七日)、壱岐については阿久根台風(昭和二十年十月十日)の際に遭難した朝鮮半島出身者であると、極めて高い確度で推定し得るものである。」こうなっているのです。どうですか。
もう一つは、昭和二十年十月十日夜、つまり、先ほどの三菱徴用工の方が九月十七日に出発しているわけですが、その約一カ月ぐらい後、阿久根台風という台風がやってきて、この壱岐近海が大変な暴風雨圏に入った。そして、この暴風雨によって数え切れないほどの韓国人が流れついた。死体で百六十八人、救助したのが三十三人だった。
枕崎台風と阿久根台風といいます。そうすると、どうもこれは壱岐か対馬の島に打ち上げられておるのじゃないかということで、とにかく自費で捜し回られまして、結局その船が戸畑港から朝鮮半島の釜山に向けて出発したということが目撃者等の証言で明らかになってまいりました。
木船を使われて行かれた方が中心になって大きな人的な被害が出たということでございまして、枕崎台風から約一カ月置いて阿久根台風というのがございました。ここでも大量の遭難者が出ておられるわけでございます、お気の毒にたえませんけれども。
特に私が御指摘を申し上げたいのは、昭和二十年の九月ないし十月に襲ってまいりました枕崎台風、阿久根台風、ちょうどそのときにぶつかった方々が、残念なことに、本来でしたら祖国に帰っていらっしゃるはずなのに帰っていらっしゃらない。いま遺族の人たちが一生懸命になって、血眼になって、せめて遺骨だけでもないものだろうかと捜査をしておられるわけでございます。
これを鹿兒島県附近に来ました従来の台風のどれに匹敵するかと申しますと、港における被害といたしましては二十三年のアイオン台風の二倍の被害額がございますし、二十年の阿久根台風、これは鹿兒島県の阿久根に上陸した台風でございますが、これに比較しますと更に一倍半くらいの被害と相成つておる次第でございます。