2009-03-30 第171回国会 参議院 厚生労働委員会 第6号
時には、人によっては、公安が付いて回ってその行動を一部始終チェックする、いわゆる防共ですね、防共対策というものが右傾化したその時代にたくさんあって、非常に気の毒な思いをしたのは事実だと思います。
時には、人によっては、公安が付いて回ってその行動を一部始終チェックする、いわゆる防共ですね、防共対策というものが右傾化したその時代にたくさんあって、非常に気の毒な思いをしたのは事実だと思います。
したがって、今言いましたように、アメリカが支援をし続けていた蒋介石中華民国がそのまま続いていたとすれば、防共ということでの日本の位置づけというのはぐっと下がって、アメリカはここまで援助しなかっただろう、そういう見方もできるわけですね。
その前に、日本の国内では、学徒動員、国家総動員法等々は、昭和十五、六年、私が生まれたときにはもう既に日独伊防共協定が、十五年ですから、十六年ぐらいからもうスタートしているんだと思いますが、いろいろな意味で、そのころは一連の法律が変わって、尋常小学校が国民学校に変わる等々、皆その前後になっておると思いますので、いろいろな意味で歴史が風化していっている部分も多々あろうかと思いますけれども、事実だけはきちんとしておくことというのは
○藤田(幸)委員 延長上ということは、哲学はまだ変わっていないということかと思いますが、昨年のバーミンガム、今度はG8になりましたが、この最貧国の債務帳消しに反対をしたのは、日独伊、防共協定じゃありませんが日独伊だけだったわけですが、その中で、イタリアの新しい政権は、今度のケルン・サミットでは債務帳消しに賛成ということを表明しております。
残念ながらアメリカにはその日本の防共努力に対する理解が欠けておった。だから、日本のシベリア出兵をアメリカは非難し、これを妨害したわけでございます。アメリカからシベリアまでは一万キロ離れております。シベリアが赤化されても満州が赤化されてもアメリカにとっては対岸の火事でございます。しかし、日本にとっては満州が赤化されることは朝鮮が赤化されることでもある、それは対岸の火事ではないのであります。
日本は日独防共協定を結び、ドイツとは同盟関係にあったからだと言われております。苦しんだ末、杉原副領事は独断でビザ発給に踏み切り、転勤命令が繰り返し伝えられる中、リトアニアを出国する出発ぎりぎりまで、列車にまで押しかけるユダヤ人の方々にその列車の中でビザを書き続け、六千人の命を救ったと言われています。
日独防共協定というようなものも結ばれたり、当時の情勢としては、ソ連の共産主義の日本への伝播というか、来ることを極端に嫌ったという社会背景があることは間違いありません。そういう中で結ばれたものだろうと存じますが、その後でそれがよかったのか悪かったのか、これは私はなかなか判断のしかねるところでありますが、その当時として政策の間違いだったということをここで断定するほどの勇気は私は実はありません。
○国務大臣(中山太郎君) 私はその下田外務次官の文章を読んでおりませんので、それについてのコメントは差し控えさしていただきたいと思いますけれども、今日の日米安保条約と日独伊防共協定、この両者を同じようなものだという考え方には私は立っておりません。
○吉岡吉典君 日独伊防共協定というのは、今大臣もおっしゃったように、第二次世界大戦に日本が向かう契機になった。枢密院の文書等を読んでみましても、わかりやすく言うと、ヒットラーが強いだろう、ヒットラーと組めば日本は世界制覇ができるだろうと、そういう判断のもとに組んだけれども、結局それが誤算でああいう結果になったんだと、そういうふうな歴史的な経過を経たものだと思いますね。
きょうここで議論をしようとは思いませんけれども、私が非常に尊敬しており、絶えず教えてもらいに行っていた外務省の大先輩で、一昨年ですかお亡くなりになりました西春彦さんですね、一九一八年から外交界で活動なさった大長老ですが、この人から行くたびに言われていたことは、戦前の日本を誤らせていたのは日独伊防共協定であった。戦後の日本を誤らせているのは日米安保条約だと。これが西先生の持論でした。
しかし、基本的にあのときあった問題というのは、いわば防共協定という形のものではなかったかという分析も成り立つではないか、若いころそんなことを考えておりました。
四、尊皇愛国心の昂揚、国防並防共思想の普及。 五、自主憲法の制定、自主国防体制の確立。」こういうことを目的としている日本金鵄連合会であります。こういう連合会が積極的に活動してそういう請願を採択させているわけですね。私は、こういう問題は検討にすら値しない問題だというふうに考えているわけであります。 まさにこの団体、今私がお話ししましたように非常に同情を買うような偽装はしておりますよ。
こういう独自の主張をしないでそういうことをやっていくと戦前の日独伊防共協定、あのときも共産主義反対、共産主義反対と言って侵略に進んでいったのです。今度もまた共産主義反対などと言って進んでいくという歴史のそういう反省をいまこそすべきではないかと思うのですが、あなたは首相として戦前のあの不幸な日本の歩みから、またいまの事態からどうお考えになるのか、最後にお伺いしたいと思います。
日独伊三国軍事同盟は、「防共」「世界新秩序の建設」の名のもとに、あの世界戦争に道を開いた最悪の愚行でありました。これらは、当時、日本共産党を除くすべての政党が同調し、最後には政党自体を解体した経過が伴ったものであります。 私は、この二カ月間の中曽根内閣の動向を憂慮しつつ、総理がこうした点を歴史の教訓として認められるかどうかということをまずお聞きしたいと思うのであります。
かくて韓国では、朝野を通じて多くの人士が、日韓両国民の明暗を比較して、日本の人々は日米安保の傘の中で、そして韓国という防共の防波堤の内側で、右の人々は繁栄を満喫し、左の人々は自由を存分に堪能しておられる、われわれ韓国人は、自由と民主主義の辺境で自由と民主主義の寝ずの番をしている、もしそれ、韓国の防衛費が日本の限度にとどめ得るならば、われわれの暮らしは左うちわの太平楽でありますと、その苦衷を述べておられました
しかし、たとえば防共挺身隊の届け出の収入を見ますと、八〇年度ですが、約四千五百五十万です。大日本朱光会、これは約七百四十三万円、そういうふうになるんです。この大日本朱光会は、一千万円以上と言われるような大型宣伝カーを、最近短期間に数台ふやしていますよね。それだけでも届け出の収入とはもうかけ離れているわけですね。こういう状況もあります。
どちらかというと、初めて体制擁護というのが今度の共同声明で出てきましたから、そういう意味ではその前の防共協定の方に近いのですが、それを直観的に頭に思い浮かべましたよ。あれ以来日本は破滅への道に結局転落していったんですからね。また同じ過ちを犯すのじゃなかろうかと心配するのは私は当然だと思う。この「同盟」の言うところ、これはやはり問題だと私は思います。
この記事の内容が、非常に皇室を侮辱するものであるというようなことを一部の右翼団体の中には叫ぶ者がありまして、七月の十六日の十時過ぎごろ、世田谷にありますところの防共挺身隊が、これは約二十人ぐらいの者が街宣車三台に乗車いたしまして、台東区台東一の五の四に所在します凸版印刷株式会社本社に赴きまして抗議をするという事案がございました。
○説明員(西村勝君) 警察といたしましては、防共挺身隊が凸版印刷会社に抗議に出向くという情報をキャッチいたしましたので、所轄は上野警察署でありますけれども、同署から警察官が四十人ほど現場に出向きまして警戒配置をしてトラブル防止に当たったわけであります。
それは恐るべき偏見に満ちた日独伊防共協定だったことを論者は反省すべきであります。 次に、内政問題について、衆議院でのわが党代表の質問との重複を避けてお聞きいたします。 政府演説を聞いても明日に希望が持てないという多くの声があることをまず御留意いただきたい。
そういうことを考えてみると、先ほども申し上げましたように、あの第二次世界大戦というのは日本とドイツとイタリーの三国、いわゆる防共協定と言われた国が中心になされたそういう行為であって、その中心の一つの日本が、その戦争犯罪者及び人道に対する罪の問題に対する時効不適用に関する国際的な世論に対して、この一つの法則に対して棄権をしておくという態度では、国際的にその責任を果たすことにはならないのではないか。
日本のばかやろう、日独防共協定のときには、ソ連を攻めてくれと言ったときには第三次近衞内閣で、北進論の松岡だけを総辞職して首切って、アメリカとの戦争ばかり考えていた豊田貞次郎を外務大臣に据えて間違いを起こしている。 この間、私はソビエトへ招待されて行ってまいりましたが、ブラーツクというところで日本の捕虜がドイツの兵隊から攻撃を受けたという……(発言する者あり)耳が痛いですか。
外務大臣が有田次官から、これもまた不思議な因縁で、廣田弘毅内閣のときに大島という大使をどうにもできなくて、ついに日独防共協定というものに入っていった有田八郎、後に革新系から知事に出た方の息子さんがいま次官でございます。五男。この方も政治の世界を見てこられた方だろうと思いますが、その有田外務次官が、外務大臣に、八月八日にいらっしゃい、末広がりでございますとおっしゃったそうでございます。
かつての歴史の中で、有田八郎という方が大島という大使の言うことを聞いて日独防共協定というものを結んだときに、今度は独ソ不可侵条約というものをドイツが結んだことで、平沼騏一郎という人が、世界情勢奇々怪々と言ってやめていった。
しかし、このようなことは非常に大事なことで、かつて日独防共協定が、有田外務大臣は薄墨色というようなことを言っておったのに、昭和十五年になったらこれが日独伊三国同盟に変わっていったという経緯、松岡外務大臣になったらあのように発展した経緯などから見ると、やはり条約の現在の解釈、これは大変大事なことですし、将来に残したいのです。そういった意味で、いまの二点について、条約局長の御意見を承りたいと思います。