2021-05-26 第204回国会 衆議院 国土交通委員会 第19号
その人が、首都直下型地震は百年ごとに起きるという論文を発表し、それが世の中を騒がせたということで今村明恒は非難を受けるわけですけれども、しかし、実際に関東大震災が起きるわけです。関東大震災が起きたときに、今村さんは、東京大学の自分の講座にいたというんですけれども、その状況を見て、失敗した、もっと強く言っておけばよかったということを後悔したというふうに伝わっていて。
その人が、首都直下型地震は百年ごとに起きるという論文を発表し、それが世の中を騒がせたということで今村明恒は非難を受けるわけですけれども、しかし、実際に関東大震災が起きるわけです。関東大震災が起きたときに、今村さんは、東京大学の自分の講座にいたというんですけれども、その状況を見て、失敗した、もっと強く言っておけばよかったということを後悔したというふうに伝わっていて。
関東大震災のときと同じような過ちを繰り返すことになるのではないか。根拠のない法案、しかも排外主義の考え方と結びついたこの法案は撤回し、廃案にすべきだということを申し上げて、質問を終わります。
日本では、現在の雑魚寝形式の避難所ができたのは約百年前の関東大震災のときだと言われていますが、それ以来、長らく雑魚寝形式が続いてきました。二〇一八年の西日本豪雨災害では、多くの避難所で段ボール簡易ベッドが設置されましたが、発災後平均十日以上かかったようです。他方、欧米では、避難所開設後おおむね三日以内に簡易ベッドを設置している国が多いようです。
直近では、阪神・淡路以降の神戸市の復興がございますし、東京も、もう百年になりますが、関東大震災以降の復興をビルド・バック・ベターで成し遂げてきたわけですが、それをあらかじめ始めておく。
八十歳のときに関東大震災を迎え、そしてその復興支援にまた心血を注ぐという歴史を持っています。 その渋沢栄一公を、二〇一九年の四月の九日、当時の大久保利通のやしゃごであられる麻生先生が、新一万円札に渋沢栄一をされるということでありましたし、それから津田梅子さんも、あのときの岩倉具視使節団に六歳で一緒に同行されています。
というのは、直下型地震である関東大震災タイプの震災、これを危惧する声というのは結構大きいわけです。 現実にも、エビデンスとして、この一、二年、関東周辺で小規模な地震がずっと、千葉の方から始まって、ぐるっと東京を回るように起きているわけですね、神奈川の方まで。神奈川では異臭騒ぎも起きていて、これは地殻が割れて地下のメタンが出ているんじゃないかということを指摘する地質学者の方もおられます。
スペイン風邪がはやったのは一九一八年から二一年、その二年後に関東大震災が起こっています。いざというときの防災、減災、そしてしっかりとした備え、いま一度徹底していただきたいと思いますが、いかがでしょうか。
段ボールベッドに関しては、この際、今回のこのコロナを奇貨にして、私はかねがね問題意識を持っていたんですが、避難所におけるあの雑魚寝、すし詰め、プライバシーなし、もういろいろな委員会で武田大臣もさまざま指摘されていると思いますが、あの風景、百年前の関東大震災と同じような風景をなくしていきたい、そういうふうに思うところであります。
実際これまでどの程度起きているかを申し上げますと、関東大震災をもたらしました大正の関東地震、これ以降、南関東地域でマグニチュード七クラスの地震の発生は、関東地震の余震を除きますと一回だけでございます。ただし、大正の関東地震以前の二百二十年間、これを見てみますと、八回発生が確認されております。
関東大震災は百二十年前、東海大震災の半割れの方は、戦争中ですから七十数年前、はるかに関東大震災の方が危険度が高いと思うんですけれども、気象庁、どうですか。
大正十二年九月、一九二三年ですか、関東大震災がありました。関東大震災、もちろん私はそのときに生まれていませんけれども、私の祖父が東京の白金にいたそうでありまして、そこで、地震で有線電話が全く使えなくなった、もちろん、全然使えなかった。しかし、自治体などの機関は無線が残っていた、それで一生懸命皆さん対応をされていたという話を思い出しました。
東京における橋詰め広場の多くは、橋梁のかけかえ時の仮橋の用地や材料置場、交番及びトイレなどの敷地としての利用を目的とし、関東大震災後の復興事業などにおいて整備が行われてまいりました。現在は、都市の中の貴重なオープンスペースとして、人々が集い、憩う場としても活用されております。
関東大震災は、発災から七年で帝都復興祭を迎えて、一応、規模は縮小しましたけれども、帝都はこれで復興したということで終わったわけであります。今から考えますと、多分相当速いスピードで進んだと思います。 そうしたことも踏まえて、ぜひ大臣には、この教訓を生かしてこれからの国土強靱化に邁進をしていただきたいとお願いを申し上げまして、私の質問を終わります。
最後になりますが、私たちのこの東京では、およそ百年前になりますが、関東大震災が直近の最大の地震であったわけであります。関東大震災、大正十二年、一九二三年の九月一日に発生をして、九月二日には山本権兵衛第二次内閣が発足をして、そこで後藤新平が内務大臣兼帝都復興院総裁として陣頭指揮を振るって、関東大震災の復興事業を行ってきたわけであります。
それで、私、前回にも申し上げましたけれども、一九二三年の関東大震災、それから、昭和二年、一九二七年の金融恐慌のとき、このときには、金銭債務の支払い猶予、いわゆるモラトリアムということで、三十日間、二十一日間猶予して、その間に、財政措置、いろんな経済対策を打って、この恐慌、関東大震災の経済的な混乱をおさめたというふうに承知しておりますけれども、このモラトリアム、少なくとも中小企業に限ってのモラトリアム
言ってみれば、関東大震災のときの震災手形がありましたが、今のような支払、私が申し上げたような支払方式でもいいし、今回の感染症の影響で経済的被害が生じて支払ができない、受取ができないということに対処したコロナ手形みたいなものがあっても不思議ではないぐらいのインパクトがこれから出てくると思いますので、これについての大臣のお考えをお伺いしたいと思います。
本当に大きな揺れを感じて、ああ、これが関東大震災なんだなというふうな思いで、危機的な思いの中でその時間を過ごし、急いで家に帰り、テレビをつけたら、そういった状況だったということが明らかになりました。その後、原発があのような事故を起こすということをテレビで見まして、いても立ってもいられなくなったというところが率直な気持ちではありました。
経験をしたことのない激しい揺れに青ざめ、そのときは、とうとう関東大震災が来たと思いました。数日間不安で、ACのコマーシャルが続くテレビを消せなかったのを思い出します。 二週間が経過するころ、五体満足な健康な成人男子が、職もなく、テレビを見ているだけでいいのかという思いも募り、東北自動車道が再開通した翌日、単身、車でボランティアをしに行きました。
大正十二年の関東大震災のとき、このときには支払い猶予措置として三十日間。それから、昭和二年の金融恐慌、これは高橋是清が収束させたということで教科書にも出てきますけれども、この昭和二年の金融恐慌のときは二十一日間の支払い猶予をしてこの金融危機をおさめた、こういうような内容のものなんです。
やはり避難所の姿が、我が国では、百年前の関東大震災の、あの東京駅の下にすし詰めになって雑魚寝でみたいなところと全く変わっていないということに私は強い問題意識を持っていまして、災害関連死の話もあります。気の毒に、被災されて家に住めない方、家で暮らせない方々が避難所に来る。
そう言えば、いや、東京には市政調査会というのが関東大震災の結果生まれただろうと言う人もおられるんですが、正確にはそうじゃなくて、あれは、後藤新平が東京市長のときに、地震の前に東京市長をやっていたんですが、安田財団のお金をもらって、東京というところをしっかりとした帝都にするために研究会をするというので市政調査会をつくったんですけれども、それが関東大震災の後非常に役に立ったし、その復興のときのビジョンを
○柴山国務大臣 今御指摘があった関東大震災の三倍を超えるものという免責事由に関する過去の答弁は、かなり以前の、昭和三十五年当時の答弁であるかと思いますが、何を基準に比較したのか明確ではなく、一つの説明の例にすぎないと承知をしております。
○城井委員 今ほどの関東大震災のというのは、国会での正式答弁でありまして、単なるそこら辺で聞いた説明ではないということは付言をいたしたいというふうに思います。
○城井委員 もう少し具体的に確認を申し上げたいと思いますが、これまでの国会答弁で、関東大震災の三倍を超えるものというのを想定していたというふうに承知をいたしておりますが、この具体的な部分について、大臣、いま一度お答えいただけますか。
東京市は、ちょうどこの中央卸売市場法ができた年に関東大震災が起きているわけですね。その影響で非常に遅れまして、東京は一九三五年にできています。戦前の段階で、全国八都市に開設されております。しかし、日本が準戦時、戦時体制に進み、特に戦時体制では国家統制が強くなり、卸売市場もこの機能を失ってしまうわけです。
災害等に備えつつ、まあ、関東大震災も心配をされるわけですけれども、築地市場というのは、そういう意味では関東大震災にも耐えた非常に強固な地盤の上に商いが行われている市場である、他方で、豊洲は液状化が心配をされるということにもなるわけです。 「消費者等の安心につながるように留意する。」