1971-12-21 第67回国会 衆議院 文教委員会 第6号
しかし、これはいわゆる開放制と称せられておりまして、学生が好んでとる場合に免許状が取得されるわけでございまして、入りました大学の何学部の何々学科というのを必ずとるというような仕組みのものではございません。概して申しますと、中学校なり、特にまあ高等学校の一つの免許状をとって出るというのが実態でございます。
しかし、これはいわゆる開放制と称せられておりまして、学生が好んでとる場合に免許状が取得されるわけでございまして、入りました大学の何学部の何々学科というのを必ずとるというような仕組みのものではございません。概して申しますと、中学校なり、特にまあ高等学校の一つの免許状をとって出るというのが実態でございます。
○北川説明員 三十年から、ベンジジンの製造につきましてはいろいろ指導をしておりましたけれども、三十二年から開放制のものを閉鎖制にするように強力に行政指導をいたしております。本工場につきましても、三十三年二月からクローズドシステムに切りかえております。
教員または学術研究者の需要供給の関係が各都道府県ごとに完全に計画的に行ない得るものとしたら、現行の一年の猶予期間で十分でありますが、児童生徒の減少、教員または研究者の志望者数の変化等の事情もあり、また、教員養成について開放制のたてまえをとっていることでもありますので、その需給関係を完全に計画的に行なうことは不可能といわなければなりません。
過不足になってくる事情もありますし、教員養成のいまの方法が御承知のように開放制をとっておりますから、どこの大学でもどこの機関でもできるというふうになっておりますから、需給関係もしたがって計画的に行なうことがなかなか容易ではないわけなんです。自分で就職したくてもできない場合に、さっき申し上げました計画的でございませんために、助教諭になっておったり、あるいは非常勤講師になっておったりするわけです。
教員または学術研究者の需要供給の関係が各都道府県ごとに完全に計画的に行ない得るものでありましたら、現行の一年の猶予期間で十分でありましょうが、児童生徒の減少、教員または研究者の志望者数の変化等の事情もあり、また、教員養成について開放制のたてまえをとっていることでもありますので、その需給関係を完全に計画的に行なうことは不可能と言わなければなりません。
教員または学術研究者の需要供給の関係が各都道府県ごとに完全に計画的に行ない得るものでありましたら、現行の一年の猶予期間で十分でありましょうが、児童生徒の減少、教員または研究者の志望者数の変化等の事情もあり、また、教員養成について開放制のたてまえをとっていることでもありますので、その需給関係を完全に計画的に行なうことは不可能といわなければなりません。
教員または学術研究者の需要供給の関係が各都道府県ごとに完全に計画的に行ない得るものでありましたら、現行の一年の猶予期間で十分でありましょうが、児童生徒の減少、教員または研究者の志望者数の変化等の事情もあり、また、教員養成について開放制のたてまえをとっていることでもありますので、その需給関係を完全に計画的に行なうことは、不可能と言わなければなりません。
そういう点では、私は開放制の免許制ということを原則的に厳守した上で、その点についての運用がもし適正を欠いた場合には、これは国立大学であろうと私立大学であろうと、かりにも教職の課程を終えて免許状を出すという限りは、免許法に忠実でなければいけない。その運用のレベルで妥当を欠いた場合には、これはそのレベルで問題が処理されなければいけない。
ただ私はここでちょっとお伺いいたしたいと思うのでありまするが、教員養成大学においてすらそういう問題が起こるとすれば、今日の教員養成は先ほどのどなたかのおことばにもございましたが、開放制が叫ばれておりまするし、確立しておりますから、その他の一般大学からたくさんの教員が養成されて出てくるわけでございますけれども、逆にいいますると、いままでそういうような一般の大学で教員が養成されてきておったのだけれども、
私立学校の開放制、免許制というのがある。それは教師に、必要だという形容詞を置いてもいいと思うが、その学問をやった、その学問に到達した証明であるということは事実でしょう。その制度でしょう。そうでないと言えますか。それに対して建議案のほうでは、そのままでは免許状を与えない。教壇に立てて、技術と態度を確認したときにやるのが試補制度で、一年あとに免許状を与えるという制度でしょう。それが建議でしょう。
しかしながら一方教員の養成という面から見たり、あるいは教育が地方社会との結びつき、地方社会の向上に役立つようにしたいという願望からいたしますと、免許取得の開放制という戦後新たに導入されております考え方も、なかなか捨てがたい長所を持っておると思うのであります。
ただ、戦後の教員養成の実際においては、開放制のたてまえをとり、どこの大学でも必要な単位を履修すれば教員の資格が得られるのでありますけれども、その要求される単位というものが非常に低くなってきた。
そうして開放制をとっても、もし、それで足りなければほかのものを入れたらいいじゃないですか。もし、これを教員養成大学にしぼって、今度は免許法でもってしぼったらどうですか。私立大学は猛然としてこれに立ち上がりますよ、ごらんなさい。あなた方の力でやってごらんなさい。私立大学は猛然としてやりますよ。ぼくはにらんでいます。そのとおりだと思う。私立大学はそんなことをして門戸を閉ざされてはたまらない。
戦後単線型の新制大学が発足をして、直後大学の開放制、こういうことでたいへんに高い理想を掲げてまいったわけです。ところがその高い掲げてきた理想というものを、大学制度の改革の中で文部省は次第にこれを複線型に変えてまいっておりますし、大学における格差というものを次々につけて、政府による大学のコントロールということを進めてまいっているわけであります。
開放制がどうであるとか、あるいは免許状のあれがどうであるとかいうようなこと、あるいはもっと意地悪くいえば、いまの教員はどうであるとかいうような一種の偏見を持った考え方を持って教師の資質というようなものを判定する、そうしてこれをある方向に教育するというような考えが、もしあるとするならば、私は教員養成の建前からいって、これほどおそろしいことはないと思うのです。
○政府委員(小林行雄君) すでにその当時から、要するに開放制に利害得失があるわけでございまして、開放制のためにまあ比較的資質も一十分でない先生も出てくるということが言われておりますし、その点は私ども当たっておるところがあると思います。