2021-03-16 第204回国会 参議院 予算委員会公聴会 第1号
これ、日本では例えば鉱山の閉山とかそうした経験もありますので、どう地域の社会経済を別の方向に組み直していくのかという観点で政策を立てていくということは重要になるんじゃないかなと思っております。
これ、日本では例えば鉱山の閉山とかそうした経験もありますので、どう地域の社会経済を別の方向に組み直していくのかという観点で政策を立てていくということは重要になるんじゃないかなと思っております。
これは鉱山が枯渇したのではなく、まだまだあります、そんなのは、中国の安売りにコスト競争力がなくなって閉山しただけのことです。だから、ここら辺も大きな誤解がありまして、中国は確かに今レアアースに関しては世界を牛耳っていますけど、何もそこだけにあるというわけではないということですね。 そういった意味じゃ、レアアースは枯渇するのかという、よく聞かれるんですけど、枯渇することはないです。
コロナの影響もあって、例えばパラジウムの鉱山が閉鎖、閉山するというような措置がとられた場合に、これはパラジウムの価格が高騰することもあり得ますよね。どうなんですか。今何か落ちつきを見ていると言いましたけれども、逆に高騰する要素だってあるんじゃないですか。
余りに風紀と治安の乱れで小学校ですら隣の町に移転してしまいました、炭鉱の町で閉山になって、日本にもありましたね、地域振興の目玉だといって誘致したはいいが、人口が十五万人だったのが今は三万八千まで落ち込んで、とてもじゃないけれども青少年に顔向けできませんというのが地方自治体の職員の皆さんの話でしたよ。
こういった旧産炭地の対策、閉山対策、さまざま打ち出されたというふうに思っていますけれども、その政策が終了して、一たび時間がたっているところでございます。ただ、やはりそう考えたときに、あのときに打っていた閉山対策が果たして政策的にどうだったのかな、しっかりきいていたのかな、そこをどうか、やはりもう一回見直す必要があるんじゃないか、あるいは総括する必要があるんじゃないかなと思うわけです。
旧産炭地域の閉山対策につきましては、昭和三十八年に第一次の石炭政策を策定して以降、平成十三年度までに約四十年間行ってきております。 具体的に申し上げますと、石炭産業の合理化、構造調整の支援、それから生産縮小や閉山に伴う雇用対策、さらには産炭地域における新産業の創出などの振興対策、こういったものを実施してきておりました。
育ちましたからって、今、選挙区がそういうところでしたし、石炭が閉山してからというものは人口が急激に減ったところでもありますし。そういったところで、悲惨なことになりましたので、政治家になるということを決めたのも、決めざるを得なくなったのはそういう背景がありましたのでね。 したがいまして、今の話、決して、おまえ、金持ちだから知らなかったどうのこうのなんて勘違いしてもらっちゃ困るよ。
ここは元々炭鉱の町として栄えておりましたが、閉山によりカジノを誘致いたしました。なぜカジノを誘致したのか。それは、地域経済の立て直し策として政府が核廃棄物処理場、産廃処理場、こういうことを提案されましたが、それは住民に拒否されまして、最後に提案されたのがカジノだったわけです。
しかし、その後、これは日本でも起こりましたが、炭鉱の町で、閉山が続いて大変な思いをするので、地域おこしのために必要悪として、しようがないから、江原というのは炭鉱の町でしたから、カジノを誘致したわけですよね。今、しかし、目の前にある現状というのは本当に目を覆わんばかりのものです。
一方で、昭和四十五年、一九七〇年以降、炭鉱の閉山や、過疎化に伴う利用者の減少等を背景に路線廃止が進められており、現在、JR北海道の路線延長は二千五百五十二キロということになっておるということでございます。 今申し上げましたとおり、北海道の鉄道は歴史的に道内各地の開発に大きな役割を果たしてきた、これは言うまでもないことでございます。
今日までにほとんど閉山いたしましたけれども、それまでに培った技術を活用することで、現在では都市鉱山などを原料として金属のリサイクルを行うようになったということだと承知してございます。 また、急速な経済発展に伴う深刻な公害問題を経験いたしましたが、それを踏まえまして厳しい環境規制を法的に整備してきたという経験がございます。
そういう意味では、私は、石炭の閉山に追い込まれたときもありましたけれども、楽観的にやってこないとやれぬものなんだと思ってはいるんですけれども。
それは例えば、ちょっと規模はでか過ぎますけれども、炭鉱の閉山対策とか、それから基幹産業を大きく変えていく、例えば、仮に、大きな高速道路等とか、例えば河川もそうです、改修も、そういったことによって地域が大きく変化をしていく。そうすると、そこの産業も変わらざるを得ない。
この地区は、余り地域エゴみたいな話はしたくないんですが、言うなれば、昭和四十年代、国のエネルギー政策の転換によりまして、炭鉱が一気に閉山になりました。当時いた八十万を超えておりましたこのブロックの人口も今や三十六万人と、もう半減以下になりました。この大きな国策の転換によって地域が受けた経済やまちづくり等々についての影響というのは、今もまだ爪跡が残っております。
水の確保であるとか、あと鉱山の場合、閉山した後、先ほどの大きな穴、そのまま残るところも多いんですけれども、そこでどういう対策をしていくかというのも掘った後の課題として残ってきております。
日本は、二〇〇五年ですよ、山口県の喜和田鉱山閉山して、今一〇〇%輸入です。この生産量と埋蔵量見てください。赤で書いたのは中国ですよ。生産量は八十多分三%だったと思います。埋蔵量も六〇%ぐらい中国ですよ。いつでも供給できないようにできますよ。 次はアルミ。これも大事な金属なんですね。
大正以降、高層アパートが建築されまして、最盛期には五千三百人が居住し、その後、エネルギー政策の転換から、昭和四十九年、一九七四年に閉山をいたしました。そして、無人島であります。その外観から軍艦島と呼ばれ、今では長崎港からのツアーが盛況です。人気の観光スポットの一つにもなっております。 そこで、最大の問題は、保存整備にかかわる費用であります。
そのときにはそこに従事する人がたくさんおられたんですけれども、大学でも、鉱業というんですか、それを教える先生方もたくさんいらっしゃったのでよかったんでしょうけれども、石炭をどんどん閉山することによって、今、その鉱業、穴を掘る学問の方を教えている大学が、たしか学部が二校ぐらいしかなかったというふうに聞いているんですね。 地質学もなかなかマニアックな世界なんだと思うんです。
続いておりますような状況でもありますので、あの辺、元々地震がないところでありますので、東京におられた方は震度二とか三とかいえば別にああというようなものなんでしょうけど、震度三がありますと大体炭鉱は全部潰れますので、もし今から三十年前に今の炭鉱があったら、一番方の時間でしょうから、一番方ですと数十万人の人が生き埋めになっていたというようなことになっていただろうと予想されますので、その意味では、炭鉱が閉山
そういった意味では、これはなかなか金があってもできる話ではないのであって簡単な話ではないなと、自分の炭鉱閉山の後のことを考えますとつくづくそう思いますので、是非そういった意味では、地域によって事情が違うなということだけは実感としてそう思います。
鉱山が、当然この日本の、世界的な流れで閉山に追い込まれたときに、夕張とは違って何をやったかというと、そこの鉱山技術を利用して、夕張のように遊園地とかをつくらずに、今度は、携帯からレアメタルをとる、そういう都市鉱山。