2021-02-12 第204回国会 衆議院 予算委員会 第9号
委員は長野オリンピックに、パラリンピックに携わっていただいたということを、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。 私も、当時の長野オリンピック・パラリンピック冬季大会の顧問をさせていただいておりまして、何度も現地に行かせていただきました。
委員は長野オリンピックに、パラリンピックに携わっていただいたということを、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。 私も、当時の長野オリンピック・パラリンピック冬季大会の顧問をさせていただいておりまして、何度も現地に行かせていただきました。
今回のホストタウン、淵源は私は長野オリンピックにあると思っているんですね。長野オリンピックでは、地域の小学校で応援する国や地域を決めまして異文化理解を深めるという一校一国運動を行いました。大変高い評価を受け、その後、オリンピックに引き継がれて、今回の東京大会においてはホストタウンという形で引き継がれているというふうに理解をしております。
○亀井委員 今の私の質問、なぜしたかといいますと、実は私、長野オリンピックのときの通訳なんです。ですから、私が見た長野オリンピックというものがあります。 選手が主役だとおっしゃいましたが、私、オリンピックを経験して、選手が主役だとは思えなかったんですね、残念ながら。 感じたことを幾つかお話しします。
○橋本国務大臣 委員が長野オリンピックで通訳として御苦労されたお話、存じ上げております。私自身も、サポートをする側の立場で長野に行っておりました。
折しも先週、私、東京オリパラ特措法の質疑の中で、オリンピック、長野オリンピックのレガシーというのは、今まで日本にはなかったボランティアというなじみのない文化が定着し、その緩やかで自発的な連帯がその後の町づくり、人材育成に役立ったというお話をさせていただきました。
さて、国際的な大会ということになりますと、私、長野県出身でございまして、長野オリンピックを二十年前に開催をいたしました。この開催のときに、各学校で応援する国や地域を定めて、異文化理解を深めるという意味で、一校一国運動というのを実は行ったんですね。二十年たった今でも、そこで生まれた交流が続いています。
私、一九九八年に開催されました長野オリンピック・パラリンピックで、実は組織委員会におりまして、そのときに、警察の方、派遣いただいて、そのときはやはり警備部の方でございました。テロ対策から始めて大会の円滑な運営に大変に御尽力をいただきまして、その後も、さまざま、県内で発生をしました、後ほど申し上げますが、大規模災害におきましても大変に御尽力をいただいたものでございます。
やはり一番は、一校一国運動というのが非常に長野オリンピックで育ったのが続いておりまして、いまだに中学とか小学校で各国とつながりを持っておりまして、たまたま今回、デンマークの水泳チームが長野市に事前合宿を決めていただいたんですが、その大きな要素が、やはり川中島中学とデンマークのツロロ校とずっと行き来しています、そういうことが縁で長野になった。
パラリンピックは本当に長野オリンピックで初めて注目を浴びて、今度の東京オリンピックでは、同じ組織委員会でオリンピック、パラリンピックが開催されるということで、大変にすばらしいことだなというふうに思っております。
私自身は、一九九八年の長野オリンピック・パラリンピックの実は組織委員会におりまして、当時、インターネットというのに初めて触れた覚えがございます。
私の支持者の中にも、長野オリンピックのボランティアに福岡県から行った方がおります。その方が、そのときのボランティアの記念品を今でも大事にとっていて、最近見せてくださったことがありました。それぐらいにやはり生きがいになる大切な機会だというふうに思うんです。確認作業をぜひ丁寧にお願いしたいというふうに思います。 続きまして、柴山大臣、お待たせをいたしました。
総務省に確認しますが、一九九八年長野オリンピックや二〇〇二年日韓サッカーワールドカップなど、我が国で開催された国際スポーツ大会でも、各組織委員会等が無線局開設の手数料、電波利用料を一貫して負担してきたということでよろしいですね。
これは長野オリンピックのときに似たようなのがあるのを御存じですかね。一国一校というので、それぞれの小学校、中学校がそれぞれの国の担当になって歓迎してやったんです。これは、今度の東京オリンピックやなんかにも、そのまま参考になっているはずなんです。一つの小学校、中学校が歓迎してと。心の交流も生まれますしね。 だから、企業全体も、農村を、地方を何とかしようと協力しているんですよ。
今回は、過去最多となる九十二カ国が参加をいたしまして、日本の選手の皆さんも十三個のメダルを獲得されたということで、長野オリンピックを抜いて過去最高となったことは、日本国民多くの皆様にとってうれしいニュースだったのではないかなというふうに思っております。 これからパラリンピックでも、同様に日本の選手たちの活躍を応援してまいりたいと思います。
今、平昌オリンピックが大変に行われておって、日本選手の活躍、とてもとてもすばらしいなと思って拝見をしておるんですが、二十年前、長野オリンピックが開催されたとき、私は実は組織委員会の方におりまして、パラリンピックの方におりました。
そのときに、長野オリンピックのときもそうだったんですが、オリンピック後は経済がある程度は落ち込んでいくというのは、これは世耕大臣も言っていらっしゃったわけでございますけれども、そういう意味では、二〇二〇年というのは、大変夢のあるオリンピックがこれから行われるということではあるんですが、それを越えた後の日本の経済というものは注視していかなければならないんだと思います。
何を言いたいかといいますと、一九九八年の長野オリンピックの後にも破産事件が大変ふえたわけでございます。二〇〇〇年、二〇〇一年、二〇〇二年は、過去十年間で最高の、破産件数がふえたわけでございます。
それから、八八年のソウル、これは初めてハイビジョン中継され、九八年の冬季長野オリンピックにつきましては、ほとんどの種目がハイビジョンで放送されたということであります。それから、二〇〇〇年にデジタル化が進み、二〇〇二年には日韓のワールドカップ、これがハイビジョン、デジタルハイビジョンで中継されたというのは記憶に新しいところでございます。
ただ一方で、私の地元でもありますけれども、例えば、では長野オリンピックはどうだったか。長野新幹線、今は北陸新幹線ですけれども、それから上信越自動車道、高速道路もつくりました。ただ、その一方で、新幹線の駅が来てよかったところとよくないところ、その結果停滞してしまったようなところも、それは私、両方とも地元なので、そのよしあしもよくわかっているんです。
以前、長野オリンピックでは、長野の地域の学校が、一校一国運動ということで、ある国の応援をされていたというふうにお伺いをいたしましたけれども、これが全国では三万五千も小中高とあるわけでございますけれども、その学校に、でき得るならばもちろん日本を応援していただく、そして、できることであれば、それぞれの学校が、あるいは一教室一国運動でもいいと思いますが、強制的ではなく、そういった海外での選手のありよう、そして
○小野次郎君 私の記憶違いかもしれませんが、過去の、あれは札幌オリンピックじゃない、長野オリンピック、何かそのときにはその関係の役職員はみなし公務員として処理されていたと思うんですけれども、そんなことないですか。
何でここまで言うかというと、一九九八年、平成十年、長野オリンピックが行われました。この後、県と市は指定管理者制度で施設を維持しているんですが、毎年赤字が続いています。途中で競技場はナショナルトレーニングセンターに指定をされて毎年一億円の補助金が流されていますけれども、それでも赤字です。長野市はオリンピック前に高額市債を借り入れて、七百三十億だった市債残高は平成二十六年度に千四百七億と倍増しました。
年問題始め、IT時代やデジタル化の基礎となる問題処理に当たったこと、文部科学大臣として、戦後六十年目にして初めて教育基本法の改正案を国会に提出し、微力ながら教育改革に足跡を残させていただいたこと、一年生議員仲間でカンボジアの地雷除去を視察し、後に犠牲となられた中田厚仁君に会い、彼らの思いを受けて、非人道的兵器と言われた対人地雷廃絶のために超党派の議員連盟を立ち上げ、会長として条約の批准に成果を得、長野オリンピック