2019-11-19 第200回国会 衆議院 本会議 第9号
第三次桂内閣は長州藩出身の藩閥政治であるとして国民世論の批判が高まり、明治から大正にかわって半年後の大正二年二月五日、私の地元、相模原市緑区又野で生まれた尾崎行雄代議士が、桂太郎内閣弾劾決議案の趣旨説明を行っています。この桂太郎総理に対し、「常ニ玉座ノ蔭ニ隠レテ、政敵ヲ狙撃スルガ如キ挙動ヲ執ッテ居ルノデアル、」と批判。
第三次桂内閣は長州藩出身の藩閥政治であるとして国民世論の批判が高まり、明治から大正にかわって半年後の大正二年二月五日、私の地元、相模原市緑区又野で生まれた尾崎行雄代議士が、桂太郎内閣弾劾決議案の趣旨説明を行っています。この桂太郎総理に対し、「常ニ玉座ノ蔭ニ隠レテ、政敵ヲ狙撃スルガ如キ挙動ヲ執ッテ居ルノデアル、」と批判。
また、戊辰百年のときに生まれた小熊慎司でございますが、旧会津藩の小熊が、旧長州藩河村委員長のもと、旧長州藩安倍総理を始め大臣にお伺いいたします。
今の政権には白河以北一山百文と長州藩を初めとする新政府軍が言った時代と変わらない東北蔑視の考え方があるから、大臣からもあのような発言があったのではないか、そういうお怒りの言葉だったんです。 こういうことを私たちも申し上げたくないけれども、でも、それを言わせてしまうほどのあの厳しい言葉、我々を傷つけたということについて、安倍総理、お考えをお聞かせいただきたいと思います。
江戸時代、長州藩は漁業を積極的に奨励し、特に藩の有力な財源として捕鯨に力を入れてまいりました。現在も下関市が調査捕鯨の基地となっています。 大臣は所信の中で、国際司法裁判所の判決を踏まえ、新たな調査計画に基づく鯨類捕獲調査を実施し、商業捕鯨の再開を目指していくとおっしゃっています。私は、これは大臣の強い思いでありまして、商業捕鯨再開への宣言と受け止めております。
戸籍制度の問題についてさまざまな考えがあるということは承知をしておりますが、ただ、さかのぼって考えますと、我が国は、古代、律令制度の時代から戸籍というものをつくって、それこそ江戸時代の宗門人別改め帳ですとか、あるいは、長州藩が一八二五年に戸籍法というものをつくって、それが近代の戸籍制度に引き継がれてきている。かなり長い歴史を持った我が国の戸籍制度であるわけです。
今御指摘のように、当時、長州藩は危機的な状況に直面をしていました。ふえ続ける財政赤字、天保の大飢饉を初めとする増大する民衆の不満、アヘン戦争などで高まる欧米列強の脅威というものがありました。そうした中で、村田清風は、委員が御指摘になったように、農民の救済策の充実のみならず、先般引用させていただきました毛利重就の改革を基盤に、成長産業を育成して、貿易を振興しながら、財政の再建に努めたわけであります。
先ほど明治維新と言いましたが、明治維新はまさに総理のふるさとであります長州藩が主力になってつくったわけでありまして、それと今度は逆のベクトルのことをやるということにもなるわけでありますが、ここで大事なことは、この明治維新がどうしてできたかというその基盤は、やはり、当時の幕藩体制の中で、各藩が、三百諸侯がそれなりに地域できちんとした自立した経済、政治体制をつくってやってきた。
ちょうど同じ医者で、長州藩の青木周蔵という若い医師、藩の認可をいただいて、山口県から長崎に行き、そこでヨーロッパへ向かう船に乗っていった青木周蔵という人がおられます。この方は、ドイツに行ってプロイセンの憲法を勉強されたわけであります。そこで、このプロイセン憲法は、皇帝を中心に国を構成しておりました。
私、長州藩にも三矢の教えというのがあって、一本の矢より二本の矢、三本の矢を固めろ、強いんだと、こういう話もございます。拳々服膺させていただいて、頑張りたいと思います。ありがとうございました。
要は、長州藩が幕末にいろいろ議論、議論、議論を重ねまして、坂本竜馬の一言、開国に向かおうではないかと決まった瞬間に、彼らはけんかも議論もやめて一心団結しまして開国に向かうわけですね。その姿がこれからの地域おこしのモデルだと思っております。だから、このたびの新法をきっかけにしましてその地域が本当に議論することが、これからの地域の再生になるというふうに私は思っております。 以上で終わります。
議事録からちょっと引用させていただきますが、安倍長官が長州藩家老村田清風の名前を引き合いに出して、私の地元にも幕末の前に村田清風という家老がいまして、言わば藩内において改革を断行したわけでありますが、当時も大変批判が強く、彼は結果として必ずしも幸せな人生を送ったとは言えないわけでありますが、彼のライバルの家老はむしろ財政出動を進めたということであって、当時からどちらが当たっていたのかということが言われてきたわけでありますが
その前に、長州藩は五人の藩士を密出国させまして勉強にやっているわけでございますが、グラスゴーには行かなくてユニバーシティーカレッジに行ったのでありますけれども、いずれにしましても、そういうところに目をつけたということは、日本の明治期における文教の発達に対しては大変効果的な選択であったのではないかと思います。
限られた私の知識ですけれども、そのころは長州藩、それから信州。信州教育、長州教育、この二つは当時から日本の教育界の一つのお手本として、小坂大臣、選挙区は長野県ですから、そのことはよく御存じだと思います。これこそお手本にすべきだと。それ以外のところは全くだめということはありませんけれども。 信州教育、長州教育、この二つは何が特徴だったのか。
私の地元山口県も、幕末期、長州藩として、苦しい財政の中から五人の若者の留学費用を出したわけでございまして、この五人の若者は、その後国の礎となった井上馨、そして伊藤博文、また井上勝、この人は初めて日本に鉄道をつくった人であります。また、山尾庸三というのは工業の父と言われた人物でありますし、遠藤謹助という人は造幣局をつくった人物であります。
また、明治維新のときには勝海舟が海軍操練所というのをつくりまして、これは親幕府、反幕府両方の生徒を抱えたので、蛤御門の変で長州藩が敗れた後、幕府から謹慎ということで、結果的にはその操練所が閉鎖されたと。そういった歴史とか、明治に入ってからは、ブラジル移民発祥の地ということで神戸港を出発していった、そういった記念碑が残っております。
日本の場合はどちらかといいますと、昔の薩摩藩とか長州藩みたいな経営をやっておるんじゃないかというような感じがしないでもないかと思います。臨教審でいろいろ議論しておりますが、やはり日本の大学のシステムに関しましてはかなりの改革が必要なのではなかろうかという気がいたしております。
話は戻りますが、あの差別発言と言うべきか、函南発言と言うべきか、この問題を聞いたときに私は直感的に、あの長州藩の政治僧であった安国寺恵瓊が織田信長を評して、彼は必ず高転びに転ぶぞと言った、本当は人間は旭日昇天の絶頂期が一番危ないのです。私はあなたが高転びに転んでくれることを願っているわけじゃありませんよ。人の不幸を願うことはいけないと教えられておりますから。しかし、そういうものなんです。
そういう点で神武紀元と申しますけれども、明治維新というものが、やはり王政復古、あるいは国学というような立場、あるいはそこにまた長州藩とか、薩州藩とかの尊王攘夷の立場というものもからみまして、歴史事実であるという点で押し通してきましたが、確かにそれはそれとして、近代国家の建設に大きな役割りを果たした、封建時代の日本人に国家というものを意識さした、そういう意味で明治の国原の大きな改革は進めることができたわけでありまして
もしあのときに、フランス軍は勝海舟を助けようとし、英国軍は鹿児島藩または長州藩を助けようとしたその口車に西郷南洲が乗っていたならば、日本は日本の中に三十八度線が置かれていたに違いないと思いますが、党派の利害よりも国の運命を重しとする二人の英雄によって明治維新は無事生まれたということを顧みましても、その感を深くする次第でございます。
その吉田松陰という人は、どこから出てきたか、これはたしか九州の方から長州藩へ養子か何かに来た人だと思う。また村田清風という人がたしかおったはずでありますが、その当時毛利藩は数十万両の借金を持っておった。