2020-06-15 第201回国会 参議院 決算委員会 第7号
これを江戸時代のような鎖国時代に戻すわけにはもちろんいかないわけでありまして、日本こそ自由貿易の中で大きな利益を享受をしてきたわけでありますが、その中で確かなルール、WTOのルールの中で発展してきたわけでございます。
これを江戸時代のような鎖国時代に戻すわけにはもちろんいかないわけでありまして、日本こそ自由貿易の中で大きな利益を享受をしてきたわけでありますが、その中で確かなルール、WTOのルールの中で発展してきたわけでございます。
人、物、金が動かなくなったら、江戸の鎖国時代と一緒で、皆さん方は、鎖国時代、今、日本は生きていけないんです。あらゆるものが世界のどこかの国とつながっています。ボタンを押すと連続的につながっているわけです。
食料にしてもそうですし、エネルギーにしてもそうですし、食料とかエネルギーというものを、もちろんそれを全部、鎖国時代じゃありませんし、日本だけで回すことは不可能でございますが、そういう余り外的要因に何でもかんでも振り回されないような経済というものはつくっていかなければならないし、そのシーズは地方にあるというふうに考えております。
はたまた鎖国時代のDNAがしっかりと埋め込まれたままなのか、国際競争に消極的と見られるのはどうしてなのか。あるいは政府の政策が足かせになったり、農家、農民の可能性を引き出せていない、つまり政府の施策と農業現場がミスマッチを起こしているのではないかというようなこと等も考えられるのではないかと思います。
まず、少し歴史からちょっと見てみたいんですが、我が国の養蚕業の歴史は今大臣がおっしゃったように大変古く、長い鎖国時代から、安政六年、一八五九年、開国、開港をきっかけに生糸が輸出品として国の基幹産業になったのは、今説明もありましたし、御承知のとおりであります。
これに対しまして、よく話題に上ります対馬宗家の文書というものは、鎖国時代の江戸時代におきまして、日朝の外交、また日朝両国の貿易というものを幕府から委託されてつかさどっていた対馬藩が当時の外交の実務というものを詳細に記録して保管していたものでございますが、このうちの一部の文書について朝鮮総督府が、衆議院の参考人で呼ばれました参考人の先生も説明されておりましたが、朝鮮総督府が政治的意図を持って対馬藩から
例えば、岡山県でいいますと、朝鮮通信使、鎖国時代、日本がオランダとともにただ二つ対外的な交流を持っていたのが朝鮮通信使でして、約二百年の間に十一回の使節を受け入れているんですけれども、その受け入れが、オランダは長崎だったわけですけれども、朝鮮通信使は岡山県の牛窓というところであったとか、あるいは、それ以来の両国の歴史の積み重ねの中で、最近では岡山県の日韓友好に尽くしてこられた方が、金さんという方ですけれども
また、長崎におきましては、鎖国時代から長崎は言わば外国に交流の町として独特の意味合いを持った地域でありますし、今考えてみますと、歴史遺産も多いし、郷土色豊かな独特のものも持っておられます。言わばそのような、今後、観光遺産ともなり得る、観光資源ともなり得るものも私は数多くあると思います。また、長崎にちなんだ歌は実に多いです。そういう歌に歌われるぐらいに多くの人が長崎に愛着を持っている。
これが金融鎖国時代。金融開国時代はどうですか。日本のお金は、結果的に出ていってしまうんです。 そういう、お金を出稼ぎに行かせてしまって、大量の金融資産があるといいながら、アメリカへ行ってアメリカの株価を上げるお手伝いをしている。お手伝いだけではなくて、アメリカの金と一緒になって日本へ帰ってきて、そして日本の企業を次から次と買い取ってしまう、こういう現象も目立ってきました。
江戸時代において、二百十五年間の鎖国時代、世界に開かれた唯一の窓でありました出島のある長崎選出の代議士として、強く我が国の開国を、すなわち二十一世紀に向けての第三の開国を唱えたいと存じます。 以上のような観点から、第三の開国の一つとして、今回の中央省庁等改革法案は意義深いものであり、大いに推進すべきと考えます。その観点から、幾つかの質問をさせていただきたいと思います。
私は長崎県の生まれでございますが、世界へ開港しておりました鎖国時代の長崎港におきましても、決して軍事的なものは先走っていない。坂本竜馬が長崎へ来て驚いたことは、この町の人は軍隊ということについてほとんど関心がないではないかと。長崎の庄屋に聞いてみたところが、あれは幕府の、あるいはそこでは代官と称しておりましたが、代官の皆さんがおやりになることで、私どもは関心ありませんと。
それは、日本と韓国は千五百年以上に及ぶ交流の歴史があり、日本と韓国は徳川三百年の鎖国時代さえも頻繁に往来しました。我々両国がよき隣人、よき友人として手を握り、二十一世紀を開拓していくのに克服できない障害はありません。千五百年にわたった日韓交流の歴史が我々を見守っています。
その通貨価値という概念そのものが、十年、二十年前の鎖国時代とは今違ってきたということです。為替レートによって変動を受ける。そして、この大きな金利差によって三割にたたき売り、投げ売り、放置されている。 こういう現状をどのようにお考えになっているか、日銀総裁に御意見をお伺いしたいと思います。
こんなことを皆さんの前でお話しするよりも、私は経済の素人ですから大臣の方がよく御存じですし、議員の方々も御存じですけれども、日本は長い鎖国時代から明治になって、欧米諸国と我が国の力の差をもう嫌というほど見せつけられました。
ひょっとすると労働省は鎖国時代の日本をイメージしているのかなと心配になりました。 能力開発のために世代別、目的別、男女別でどれほどの予算がかけられているんでしょうか。そして、その能力開発のあり方についてもっともっと時代に応じた改革がなされていっていいと思うんですが、いかがでしょうか。
日本には長い鎖国時代、限られた資源、使えるものを徹底的に再利用など再生してきた伝統と文化がある。そんなことを思い起こして、小さな行為の積み重ねで多少でも環境悪化にブレーキをかけようと白書は言っています。 確かに、一人一人の自覚の問題です。でも、住民運動やボランティア、そして学校教育その他で一人一人の自覚は草の根的に高まっております。
その後、自分の国の国づくりには一生懸命努力をしてまいりましたし、また戦後は新しい日本がここまで来たわけでございますけれども、今、柳川委員の言われましたように、外国、殊に先進国は一応ともかくといたしまして、世界全体のあちこちの事情、あちこちにある文化の研究というふうなことにつきましては、それは植民地を持っていなかったということも多少関係がありますけれども、ありていに申して実はまだ鎖国時代の続きじゃないかと
一部の貿易はあったけれども、ほとんどが我が国民というのはこの鎖国時代、みずからの国で生産されたもので生きてきたんだということなんです。 もっと極端に言えば、この裏から読み取れるのは、余りにも今、日本は世界各国から資源を輸入し、そして大量生産、大量消費、大量廃棄ということについての警告をしているのではないか、私はこう受け取っているのです。
徳川の鎖国時代には、五百石以上の船をつくることは禁じられておりました。そんな関係で、我が国の造船技術というものは外国から見て大変おくれを喫した、こういう現実というのはあるわけでありますが、明治維新以後は、政府による造船、海運に対する助成は大変なものであったということを私も聞いております。
日本の戸籍制度なんというのは、結局もとをたどりますと近代国家成立以前の問題になってくると思いますけれども、やはり日本は明治以前、鎖国時代でございましょうが、よそからの人が入ってこないで、閉鎖社会の中で文化が非常に醸成されていったということから、そういう社会の一種の監督組織といいますか、管理組織といいますか、これは市民法的なものだけではなくて、例えば税金を取るためであるとか、それから、お寺さんでも檀家