2004-03-23 第159回国会 参議院 予算委員会 第15号
例えば武道なんかは、言うまでもなく心身を鍛練し、礼儀を学ぶことによって自己を律する力をはぐくみ、相手を理解し尊敬する心を育てる。また、けいこや試合で感じる痛みは他者の痛みをも教えてくれる。これは相手を思いやる心をはぐくむことにもなると。まだまだ武道の効用というのはたくさんあります。
例えば武道なんかは、言うまでもなく心身を鍛練し、礼儀を学ぶことによって自己を律する力をはぐくみ、相手を理解し尊敬する心を育てる。また、けいこや試合で感じる痛みは他者の痛みをも教えてくれる。これは相手を思いやる心をはぐくむことにもなると。まだまだ武道の効用というのはたくさんあります。
人間の価値というのは必ずしも身長だけで、身長は大きいことはいいことでありますが、しかし、二メートルにも三メートルにもなったらばこれは大変なことになりますから、そんなには伸びられないと思いますが、身長に比例してやっぱり内臓が丈夫であり、筋肉が鍛練をされ、そしてバランスがとれ、なおかつ知育や徳育というかそれぞれの頭脳も持たないと、むしろ大きいなるがゆえに驕気になりがち、そういう思いを現在いたしているのもまた
○参考人(山口廣君) 私自身もこれがもう特効薬で、すべて鎮静化されるというふうに考えているわけではありませんが、ただ現実にオウム真理教でもそうですし、ほかのカルト的団体でもそうなんですが、修行あるいは宗教上の、何といいますか、鍛練と称して、霊感商法をさせてみたりあるいはビル建築に携わせてみたりという形でやるわけですね。つまり、別の団体をつくって、そこでもただでこき使って、そこで収益を生む。
ここに提案の概要を持っているわけですけれども、少し御紹介をいたしますと、「純真なる〔本内地農村青少年の現地訓練により、真の建国農民たるに必要なる精神を鍛練陶冶するとともに、満州開拓を促進し民族協和を徹底し、以て満州建国の理想実現を期す」、こういうふうになっています。
ノルウェーの小さな村も確かに非常に美しくて、ああいうところでオリンピックが持たれたということの意味も大変意味があるなという思いがいたしますし、またそこで、世界から若い人たちが集まって、日ごろからの鍛練の、その集積された極限のものをそこでぶつけ合うという、それをテレビを通じて見ることができるというのは大変すばらしいことだと、そこにさまざまな感動が生まれ、またその感動を世界の人々が共有することができるということは
これは哲学ですから、具体的にこの部分はどうだったとか、プールの中のこれがこうだったとか、学校で鉄棒からおっこったからどうだとか、こういう問題ではなくて、全体的な日本の世相の中に、社会的な奉仕あるいはそういう鍛練というものについての一つの方向を見出していかなくちゃならぬ、そういう時期に直面している、こういうふうに思いますので、これは政府委員でも結構ですが、お答えいただきたいと思います。
体育関係者と話をいろいろいたしてみましたが、北京でのあの状況でありますとかあるいは最近の国際試合におきます、活躍しておられる選手ももちろんたくさんいらっしゃるわけでございますが、やはりちょっと図太さに欠けるとかあるいは試合の本番で平常の力が出し切れなかったというようなことがあるのでございますが、それはやはり選手が試合を通じて場数を踏むという経験を持つ中で、一つの図太さといいますか、言いかえれば精神力を鍛練
先ほど先生から御指摘がございましたが、競技を通じてフェアプレーの精神を学ぶということ、さらにまた、つけ加えさせていただきますならば、いかなる厳しい鍛練にも、練習にも耐えていくという強い精神力を養う、そういったような意味で部活動の持つ意義は大変大きいと思っております。
ここでは、義務教育諸学校の児童生徒を、自然に親しませ、自然の中での集図宿泊生活を通じて、情操や社会性を豊かにし、心身を鍛練し、健全な少年の育成を図ることを目的とした社会教育施設で、かなりの利用状況でありました。 次いで、泉水地熱利用花き生産組合に参りました。
○本岡昭次君 それでは答申の次、第一部第四節の中にある「教育環境の人間化」、まあこれはこの文書の中で一番光っているんじゃないかと思って私は読んだんですが、学校において「児童、生徒の間あるいは児童、生徒と教師の間に、心の触れ合いや人間的なつながり、友情、信頼」を強め高めていかなければならないんではないか、あるいはまた「教師ひとりひとりが子どもの心や体を理解」し、「自然環境のなかで心身を鍛練できるような
努力、忍耐、自己抑制、愛情、勇気、信仰心、あるいは人間相互の理解などの人間としての不可欠な要件を見失おうとしておりますし、肉体的にも鍛練の機会をみずから排除してしまう、そういう傾向が結果的には体力の退化現象をもたらしておるというように考えます。 私は、科学技術の進歩は人類の幸福への手段であって目的であってはならないと考えております。
だから、乗っている車は六百万、七百万の車を若い諸君がおやじをだまくらかしてはでに使っているけれども、やっていることは野蛮人のやっていることで、それこそ車社会の中で鍛練された近代人からすると、本当に危ない凶器が走っているという感じじゃないでしょうか。 ここ一、二週間前の新聞にことしの死亡者数が出ました。もう昨年度のやつを超えるというのでしょう。
この福祉事業をもっと推進させていって、そうでしょう、薬で治すよりもリハビリテーションだとか鍛練だとか、そういうことで治す方がずっといいわけですから。いわんや子供なんてそうなんですよ。薬で治すよりも、子供の心理だとか、そういう訓練だとかいうもので健康回復を図ってやる方が私は本当にいいと思うのです。余りかたくなにおっしゃらないで、もうちょっと真剣に子供の立場に立って考えてやってほしいと思うのです。
専門家の方も、このような集団鍛練療法というのを通じて、患者の積極性が、また、ぜんそく症状もきわめてよい傾向を示す例がかなり見られるというふうな報告を出しておられますし、それからお医者さんの立場からも、外来の診療だとか入院と異なって、患者と生活をともにするということによって、必要十分な観察ができる利点があって、以後の治療に役立つことが多い。
それが先ほどいみじくも礼と節、義理と人情、愛国心と親孝行、しかも青少年の健全育成というところで、四十七年三月十五日に財団から出された文書の中には「真に日本を担う次代の若者をつくるには、その心身を鍛練し、国を愛し、公衆道徳を守る心と国難に敢然と立ち向かえる気力と肉体をつくる」と書いてあります。この後法人として認可をされまして、こういうものが出されていくわけなんです。
その施設というものも、一種の鍛練施設、精神修養施設でありますから、普通の体育施設等に常識的に盛り込まれるような施設の内容というふうなものはずいぶん欠けておるというふうに中身である。三年後にもらえるかもしらぬという利用率を上げるために体育館と併設をしたり、あるいは幼稚園、保育園の子供をスクールバスでみんな運んで、そこへ行って遊ばせることによって人数の総枠、利用者の総枠をふやして報告をする。
やはり教師は研修に努め自己を鍛練し磨くことによって権威を高めていくことだと思いますし、あるいは生徒に対するできるだけ手厚い指導ができるような教師になること、あるいは先ほどから申し上げました変わりつつある子供に対する目ができているのかどうか、そういう先生に成長することであると、そのことによって権威を高めていくことだと思います。
者がもう少し鍛練を積んで、記号式であっても必ず考えてきちっと見直しつつマルをつけるという自信がついた時期において検討すべき問題ではなかろうか、私はこういうふうに思っております。
この間、君は早稲田大学の講義録を読破して知識の吸収に努められるとともに、柔道に熱中し、心身の鍛練に若き情熱を注がれました。若くして、こうした苦労を身をもって味わったことが、君の質実剛健の気風を形成し、常に働く者の側に立って正しいと信じたことは万難を排して行動する反骨精神を培われたのであります。
まず「青少年をとりまく社会環境についての認識」についてでございますが、「青少年は、大人に比べて特に心身の修養や鍛練に心がけねばならないと思う」がどうかという質問を二十五歳以上の大人にしておるわけでありますが、「思う」という答えが七五%、「そうは思わない」というのが八%になっております。
鍛練してといいますか訓練としてといいますか、多少無理をさせることによってその機能をよくするというようなところがいまの現代環境の中でどうしても抜けてくるのでしょうね。見ておりましても、十年前にはあんなところちゃんと歩いていたはずなのになと思うようなところを子供が二丁場でもバスに乗っかっていく、塾に行くのにかばんを提げて行きますね、というようなことはちょっと考えられなかったみたいなものです。