2000-04-21 第147回国会 衆議院 決算行政監視委員会第三分科会 第2号
第一次大戦後、こうした亜鉛精錬所は日本のあちこちでできましたが、その多くは数年たたずして操業中止になったところが多いようですが、三島市の北沢地区でも、大正七年、鉱毒被害と思われる事件が発生して、当時の新聞は、鉱毒問題紛糾、錦田村、当時そういったのですが、大恐慌と見出しをつけ、蚕児続々斃死と伝えているわけであります。
第一次大戦後、こうした亜鉛精錬所は日本のあちこちでできましたが、その多くは数年たたずして操業中止になったところが多いようですが、三島市の北沢地区でも、大正七年、鉱毒被害と思われる事件が発生して、当時の新聞は、鉱毒問題紛糾、錦田村、当時そういったのですが、大恐慌と見出しをつけ、蚕児続々斃死と伝えているわけであります。
例えば、有名な足尾銅山の鉱毒被害の場合には、山元での対策が不十分な上、廃水によって生じた深刻な農業被害の拡大防止や回復も行わずに、かえって被害民との小額での永久示談、さらには、被害を被っだ下流の谷中村に土地収用法を適用し遊水池化を進めたのである。
○佐藤三吾君 ここまで十五年に制定した法の趣旨からいって、やはり鉱毒被害が次々出てくるというそういう情勢を受けて私は立法したと思うんです。そういった法の精神から照らして、私はやっぱり公害が出ないように、人に被害が加わらないように監督指導するのが通産省の立場じゃないかと思うんですが、通産省、この問題についてどういう指導をやってきたのか。
また、渡良瀬川沿岸における鉱毒被害事件は、足尾銅山から排出される廃棄物鉱滓が水田等に流入したことにより農作物被害をこうむった渡良瀬川沿岸の農民と古河鉱業株式会社との間における補償をめぐる事件でございまして、八十年にわたる紛争の歴史的な重みに加え、被害と加害行為との間の因果関係の立証、損害額の算定等が非常に困難な事件でございましたが、鋭意調停手続を進めた結果、被害が最も広範囲であった群馬県毛里田地区の
○小平芳平君 まあそう苦しい御答弁はされますけれども、私が先ほど来申し上げていることは、被害者が鉱毒被害を訴え始めてすでに百年近くなる。それから鉱毒ため池をつくって少しでも鉱毒がたんぼへ入るのを防ごうとして県がつくったのが昭和二十七年、二十八年のことです。農林省が試験田をつくってやったのが四十六年、七年、八年のことです。被害者としては市へ行っても町へ行ってもけりはつかない。
また、渡良瀬川沿岸における鉱毒被害事件は、足尾銅山から排出される廃棄物鉱滓が水田等に流入したことにより農作物被害をこうむった沿岸農民と古河鉱業株式会社との間における補償をめぐる事件でございまして、八十年にわたる紛争の歴史的な重みに加えて、被害と加害行為の因果関係の立証、損害額の算定等が非常に困難な事件でありましたが、鋭意調停手続を進めた結果、被害が最も広範囲であった群馬県毛里田地区の農民九百七十一名
○小平芳平君 では、水俣病のことについてはまだ数多くの問題点がありますが、きょうはこのくらいにいたしまして、別の問題で通産省に伺いますが、休廃鉱につきまして、私たちは各委員会で休廃止鉱山による鉱毒被害についての各地の問題点を取り上げて、そうして政府が対策を強力に進めるべきだということできたわけですが、国が三分の二、県が二分の一、そういうようなことで防止工事をやるということから一歩も進んでいないわけですか
すでに平金鉱が稼働している時代でも、鉱毒被害を受けたという記録もあるのです、その沿岸住民が。それから、昭和三十五年から四十年には、乳児の奇病、これは脳水腫あるいは水頭症、この報道では両方使われておって私的確には把握できませんが、しかし被害者の家を私は何軒かお尋ねをしました。
それでは環境庁の政務次官に担当の官庁だからお伺いしますが、先ほどの渡良瀬川の鉱毒による農業被害の問題は、これは明治にさかのぼろうと大正にさかのぼろうと、それが足尾銅山による鉱毒被害の損害だということは、とっくにはっきりしているのだけれども、いろんな論争があるわけですが、その補償の責任は当然古河にあるわけでしょう。土呂久と同じだというけれども、土呂久の場合はすでに鉱業権を放棄しちゃっている。
○小平芳平君 農林省では、こうしたたんぼの鉱毒被害に対して、日原という町とそれから津和野町という町なんですが、この両町に被害を及ぼすのですが、島根県ではすでに昭和二十八年あるいは昭和二十七年に農業試験場において研究ができているわけですよ。いまから十年前のこの島根県農業試験場における結果報告によりますと、いまのままでは米はできないと報告しているんです。
○岩本説明員 奥岳川の沿岸農地に長年にわたって累積されております銅、亜鉛、カドミウム等によります鉱毒被害を除去する目的をもちまして、すでに四十五年度に鉱毒対策事業として奥岳川地区を採択いたしまして、現在工事の実施設計を進めておるところでございます。
それで、この稲の被害状況とイタイイタイ病とが完全に場所が一致するかどうかということは、萩野先生と私とが共同しまして調べたのでありますが、患者の分布は萩野博士が調べ、そして稲の鉱毒の被害地は私がよく知っておりましたので、二つのこの被害の場所を調べましたところ、完全に一致しておったということがわかりまして、一人の患者としてこの稲の鉱毒被害の起きなかった場所から発生したような患者はなかったのであります。
そうすると、これは鉱毒被害によって四千町歩あるいは顕著なものは九百六十四町二反の地域に被害を及ぼしているのですから、普通水害でたんぼへ冠水をしたというようなものと違うわけですね、鉱毒だから。それは先ほど重松先生がおっしゃったように、土壌に沈でんしているわけですから……。こういうものが出ておるにもかかわらず、その後何ら対策をやっておらない。しかもここにはさらに詳しく分析の結果も出ているわけです。
○上田説明員 昭和十八年当時の調査によりまして、鉱毒被害が認められる、それに対して何がしかの対策をとらなければならないというような事情にあったということは、その後、県当局からの要望なり状況説明がとだえておりましたので、承知いたしておらなかったわけでございます。
○恩田参考人 私は群馬県の東部の農民でございますが、かねがね足尾鉱山からの鉱毒被害に何十年来悩まされておる農民といたしまして、本日この委員会に出席できまして委員先生方に意見を申し上げる機会を得られましたことを深く喜びとし、感謝する次第でございまして、何とぞわれわれ農民が被害から免れるような法律を十分作って、対策を立てていただきたいと考える次第でございます。
、この栃木県の南部の稻作地帯ではこの水をみな使うわけですが、今でもその水を一度田に流します——とちょうど女のお乳のような色をして流れてくる水ですけれども、その鉱毒を、どうしても旱天が続いた場合には、やはり農民としては、ちょうど子供がお乳をほしがるように、田の稲が水をほしがっているときですから、少しぐらいいいだろうというので、今でも長い経験を持っていながらやるのですけれども、それがやはりものすごい鉱毒被害
少しく場合が違いますが、例えば鉱毒被害のようなこともあるし、又大きな漁師が濫獲をして、そうしてそうした方面は非常に利益を得ている。ところがそうした弊害の結果小さい漁民は食えなくなつている。一つの失業状態である。それでやむを得ずそれじや他に道があるかといえばないので、そうした段々畑のほうに頼つて行かなければならないという事情がこの問題に存しているのではないか。
その内訳を申上げますと、一般災害と鉱毒被害とございまして、一般災害で申しますならば、例えば二十二年に発生しました災害が二百六十五億五千万円ありまして、それが二十六年度まで、本年度までに二百五十三億の工事が完成されることになるわけでございます。従いまして二十七年度以降になお残ります災害というものは十一億七千万円、全体のうち五%だけ残つている。こういう数字になります。