2020-01-22 第201回国会 衆議院 本会議 第2号
足尾鉱毒事件で有名な田中正造は、今から百年以上も前に、真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべしと喝破しました。翻って現代の日本社会を見ると、山は荒れ、川は汚れ、村は廃れ、そして世界じゅうで人の命が奪われています。生活環境と自然環境が整ってこそ、安心して子供を産み育てられる持続可能な社会となります。そして、何より平和が必要です。
足尾鉱毒事件で有名な田中正造は、今から百年以上も前に、真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべしと喝破しました。翻って現代の日本社会を見ると、山は荒れ、川は汚れ、村は廃れ、そして世界じゅうで人の命が奪われています。生活環境と自然環境が整ってこそ、安心して子供を産み育てられる持続可能な社会となります。そして、何より平和が必要です。
我が国では、足尾銅山鉱毒事件辺りから環境と工業化というものの対立概念というものができていって、戦後も、四大公害を始めとして経済活動と環境というものが対立概念として意識せざるを得ないファクターとして登場してきたというふうに思います。
しかし、これは体制は違いましたけれども、足尾鉱毒事件のときには、当時の政府が谷中村を廃村にしました。そして、チェルノブイリでも同じく、これはソビエト連邦時代ですけれども、廃町にしました。 そうしたことを考えると、もしこれから帰還困難区域を除染して、役場を初め学校だとか病院だとか買い物の場を整備して、五年後、では、どうぞ、帰ってくださいとなったときに、本当に帰ってくる人がどれだけいるんでしょうか。
これは環境委員会ですからEということにしますが、我が国においては足尾銅山の鉱毒事件から始まり、戦後の四大公害から現在の東電の福島の原子力発電所、そういった環境に対する大きな負荷といいますか、そういったものを企業の経済活動が結果として与えてしまったと。それによる外部経済性がそれまでの稼いできた利益を帳消しにする、それどころか逆に大きな損失を生んでしまうと。
例えばでありますが、これは時代や国家体制も違いますけれども、我が国でも足尾鉱毒事件がありました。そのときの谷中村は、政府が強制的に廃村にしました。また、チェルノブイリはソビエト連邦の時代でありましたけれども、これもやはり同じようにしました。
そういう意味において、私はなぜこの話を申し上げたかというと、明治の時代に足尾鉱毒事件が実はございました。もう御承知のとおりでございます。これは、日清、日露戦争、それから富国強兵という当時の明治政府の政策の犠牲でもありました。死者は千人を超すと言われているし、また、谷中村、今の渡良瀬遊水地ですね、ここはもう強制廃村です。そしてまた、煙害によって廃村になったところが三カ所あります。
時間が来ましたので終わりにしますが、環境省は環境を守る番人なので、ぜひ、明治時代の足尾鉱毒事件で天皇陛下に直訴した田中正造の言葉を贈って、終わりにします。 真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし、こう言っています。 環境省は、日本の環境を守る、その先頭に立つ役所ですから、ぜひしっかり考え方を改めてほしいということを要望して、質問を終わります。
古くは足尾鉱毒事件にまで端を発するような、国が常に自分の責任をどこかになすりつけ、そして曖昧にし、そういう形で来たその全てのツケを、NSC法案や特定機密のように六十七年を総括されるために法律を出すならば、どうしてこういう点をもう一回総括していただけないのかと思うんですよ。
かつて、一九〇一年十二月に、田中正造氏が当時の明治天皇陛下に、馬車をとめて、そして、足尾鉱毒事件にかかわってさまざまな被害が出ているということを直訴された事件がありました。これは、田中正造議員も、議員を二カ月前に辞職して、そして直訴に及んだということでございます。
大臣の誕生日を祝しますが、大臣の選挙区は足尾鉱毒事件の田中正造のまさに選挙区であります。田中正造は、少なくとも、いろいろな課題もありましたけれども、被災者の側に立った、そういう意味での人生を歩まれたと思います。大臣も同じ立場であることを私は理解をしておりますが、今度の水俣で行われる政府主催の国際会議もそうですけれども、慰霊祭が行われるんです。その慰霊祭、この汚染水で水俣の方は心を痛めたと思います。
先日も申し上げましたけれども、足尾鉱毒事件のときは、栃木県の谷中村という村は廃村になったんです。そして、一部の人が北海道へ移住をいたしました。私は、今回の原発事故でもそういうことが十分考えられるんじゃないかと思っています。 ですから、地域の人たちの健康やこれからの生活再建、特に子供たちの健康を考えたら、それこそ若い親御さんは絶対帰ってきませんよね。
栃木県で足尾鉱毒事件というのがありました。有名な田中正造翁が本当に命をかけて闘った事件でありましたけれども、そのときに栃木県の谷中村という村は廃村になったんですね。 今回のこの事故に当たって、私が双葉郡の現職の町会議員や元職の人と話し合ったときに、こんな話をしておりました。
○三原委員 今まさに大臣がおっしゃったように、銅を製錬するときには、御承知のように、ずっと昔は田中正造さんの足尾の鉱毒事件というのがあったでしょう。それでまた、近くといっても数十年前ですけれども、四国の瀬戸内海の四阪島というところでも製錬でやはり煙の問題があったりした。
そこで、私は豊かさということになぜこれをつなげていきたいかと申しますと、もう一つ環境問題の原点に足尾銅山の鉱毒事件があります。 私は、つい最近、新潟大学の大熊孝先生が書かれた「利根川治水の変遷と水害」という本を読んで、実は慄然としたんです。
ここで私はつぶさに見ておりますけれども、やはり足尾の方は、有名な田中正造さんという方が国会でいろいろ論議をして、鉱毒事件、どちらかといえば水質汚濁といいますか、渡良瀬川に鉱石といか残滓、鉱滓類が流れ出して、水田始め、あるいは谷中村が滅亡するというような、そういう大変悲惨な状況があったわけでございますが、足尾も、製錬所、鉱山の方に行きますと、全山枯れ山といいますか、現在は大分植栽がされておりまして緑が
我が国におきましては、古くは足尾銅山の鉱毒事件でありますとか、あるいは昭和三十年代、四十年代に特に顕著でありました大気汚染あるいは水質汚濁に伴う公害の発生ということがあったわけでありますけれども、まず最初に、我が国における公害の歴史といいましょうか、の概括について総括をしたお話をいただきたいと思います。
秋田、秋田といえば、昔、鉱毒事件がたくさんあったところですけれども、そういった秋田の何か鉱山施設か、そういったところの方へ持っていっているようである。 この法案でもう一つ言いたい拡散防止の措置といったこともございますけれども、今こういったところで汚染土壌が場外に、あるいは遠く離れたところまで搬出されている、こういった事実は御存じでしょうか。
このお二人の理念といいますか、それをこの社史の中から酌み取りますれば、特に黒澤氏は足尾銅山の鉱毒事件で被害に遭われた農民の方々に対して農民救済運動という形で若いころ活躍をされた方でありますので、その方の理念といいますのは、北海道でありますから、デンマーク農業を通して、酪農を通して農地を豊かにしていく、健土健民、豊かな農地をつくり、豊かな農民をつくっていくという理念のもとでの雪印、組合の設立であったのかな
明治三十四年十二月に、第十六回の帝国議会開会式に出席された明治天皇の列に、足尾鉱毒事件の問題解決のために、天皇に走り寄って直訴をされた田中正造の言葉でございます。 御承知のように、足尾銅山の鉱害の問題で、渡良瀬川流域住民の立場に立って、必死になってその対策を訴え求めて、頑張ってこられた栃木県の先人でございます。
私お尋ねしたいのは、こういう日本の環境行政の痛苦の教訓として歴史に刻まれているのが、この鉱毒事件だと思うのです。ぜひ環境庁はこの教訓を一層生かしていただきたいと思うわけです。ましてや、今、ガイア足尾計画だとかあるいは渡良瀬遊水地への空港建設問題などが起きております。この公害反対闘争の発祥の地に再びまた騒ぎを起こすようなことがあってはならないと思うんです。