1980-12-22 第94回国会 参議院 本会議 第1号
太平洋戦争に入るや、鉄鋼統制会の理事兼総務局長の要職に抜てきされ、次いで終戦後は鉄鋼協議会専務理事に就任されました。このとき同君は三十九歳でありました。
太平洋戦争に入るや、鉄鋼統制会の理事兼総務局長の要職に抜てきされ、次いで終戦後は鉄鋼協議会専務理事に就任されました。このとき同君は三十九歳でありました。
永野さんは鉄鋼統制会の、これも役員です。稲山さんもこれまた当時の岸さんと官財相握ってやった、早く言うならば、これは昔からの古いなじみのつき合いじゃないですか。同士みたいなものじゃないですか。その永野さんや稲山さんや木下さんが加わってほかのところには買わせない。そうして値段は安いかというとマレーやその他より高い。不景気になったが、値上げをする。
そこで鉄鋼統制が廃止になって、講和条約で独立後、鉄鋼政策は転換をいたしました。鉄鉱石の輸入は米国圏からアジア圏に切りかえることとなって、そこで日本はまずフィリピンの鉄鉱石——これはもう地理の関係から日本が買わなければよそには売れないのですから、日本だけがお得意さんです。
私はなるほど軍需大臣の時代に鉄鋼統制会というものを作り、統制会の役員で、今名前が上っているような人が関係をしておったということは事実であります。しかし私がかるがゆえに今お話のような疑惑を受けるというようなことは、いかなる根拠によるか、全然私には理解できませんし、私としては断じてそういうことがないということを明確に申し上げておきます。
それがあとになつて、鉄鋼統制会に発展したのでありますが、そういうような意味合いから見まして私どもとしては価格を吊り上げるというよりは、そうではなくて、価格を安定させる方法をどうしてもこれは講じなくてはならない。
ところが、入らなかつたらどうするかということだつたのですが、入らなくてもしようがないじやないか、三軒でもいいからやつてみようじやないかといつて唱道をしましたところが、皆さん御賛同くださいまして、鉄鋼統制会の前身であります日本鉄鋼連合会ができて、昭和十六年に鉄鋼統制会のできますまで四年間継続いてしたわけで、そういう関係で、鉄に関しては私どもはそうしなければいけないんじやないかと実は考えておるわけであります
○渡邊(義)證人 たとえば日本の経済復興であるとか、その他の実情調査であるとかわれわれが一番初に接触いたしましたのは爆撃調査團というような調査隊がありまして、これは直接向うの軍の人たちが参つたわけですが、それらの人たちが鉄鋼部門につきましては鉄鋼統制会の方へ直接面談に見えました。これはおもに戰績の結果を調査する目的で見えた人たちのようであります。
○渡邊(義)證人 私は昭和十六年の十月に日本製鉄の常務をよしまして、それから十八年の一月に鉄鋼統制会の理事長に就任いたしまして、引続き鉄鋼統制会におりました。当時の鉄鋼統制会の会長は豊田氏でありまして、豊田氏が軍需大臣に就任せられることになりましたので、そのあと鉄鋼統制会会長に就任することになりました。
○藤澤證人 そこのいきさつはよく存じませんが、私が鉄鋼統制会長の部屋に呼ばれましたときに、すでに鉄鋼二社がきまつておつて、バラード大佐のところに行つたとき三社が來ておりましたので、ははあこういうふうにきまつたなと察したのであります。
○藤澤證人 私は終戰当時鉄鋼統制会の生産局の原料部長をやつておりまして、終戰後引続いて統制会の原料関係の整理をやつておりまして、十一月一日に兵器処理委員会の第一回委員会が開催されました節に小松委員長から事務局長に指名を受けまして爾來今日に至つておるのでございます。
○小松證人 それは鉄鋼統制会におきましてはあつたかもしれません。私は鉄鋼統制会におりませんので存じませんが、鉄鋼統制会の会長に御相談を初めからしておるのでございます。非鉄につきましては私は何も存じません。ほかにどんな会社があるかよく存じておりません。
○徳田委員 別の委員会であるけれども、鉄鋼統制委員会は主として日鉄、日本鋼管が握り、その他非鉄金属の方は扶桑金属とか、神戸製鋼だとか、古河とか、そういうものが握り、あるいはそれらの兄弟会社として、財閥として附き合つておる三井、三菱その他が大体握つておるのじやありませんか。そうすると、それらの五社が配分を実際上は左右するようにできておるのではないですか。
○細井證人 それは当時の鉄鋼統制会の会議室で日鉄の日本鋼管、それから鉄鋼統制会の関係者に集つていただきまして、私どもも列席いたしまして、鉄の部門ではどういうふうにやるのが一番よかろうかという相談をいたしましたときに——今から考えますとはなはだ杜撰なやり方ではないかとおしかりを受けるかもしれないのでございますが、みんなの意見が期せずして、これは日鉄と日本鋼管で担当するよりほか、非常にやりにくい仕事でもあるし
○菅波證人 私の想像では、この両氏は当時鉄鋼統制会の会長、及びもう一人は鉄鋼統制会の役員でありましたが、そういう鉄鋼統制会の役員という意味でやつたのではないかと思います。
なるほど鉄鋼局が鉄鋼課に縮小されたのは、鉄鋼行政の権限が廣汎に日本鉄鋼協議会に委讓されたからでありましようが、鉄鋼行政の権限が依然として政府官廰に集中され、さらには司令部との連絡、独占禁止、過度経済力の集中排除、企業の整備、賠償工場の措置、残存工場に対する生産方策、鉄鋼統制令廃止による生産資材の割当等のごとく、その所管内容がきわめて厖大なるにおきましては、一鉄鋼課をもつてしては、とうてい背負いきれるものでないことは
たとえば昭和十九年十月現在を見ますと、当時軍需省の鉄鋼局は、それだけで百十二名の職員があり、さらにそれ以外に外廓團体としての鉄鋼統制会において協力をしておられました人員を合せますと七百六人という表が出ております。現在も鉄鋼会がありまして、形は変りましたが、民間においての十近くの各種の團体が、現にそれに協力しておりますが、その人員も現在七百名くらいになると思うのであります。
そもそも戰時中におきまして、鉄鋼四百万トン生産に際しまして、軍需省に鉄鋼局が設置され、他方民間には鉄鋼統制会が設けられ、両者併せて三千五百名余の人員が生産事務に從事しており、昭和十九年度を例にとれば、商工本省には百十二名、鉄鋼統制会本部には五百九十四名、計七百六名の人員が、東京においては鉄鋼の中央行政事務に当つていたのであります。
しかし私がたとえ自分が委員長に選ばれても、自分の子分をもつてくるとか何とかそういうことは全然考えず、業界で選んで出してもらつた人でなければならぬという考えで、当時鉄鋼統制会の原料の方を担当しておつた藤沢君が事務局長になりました。私は藤沢君はそれまではあまりよく知つておらなかつた人であります。顔は知つておりましたけれども、一緒に仕事をした人でもなく、何も関係がある人ではありません。