1964-12-07 第47回国会 衆議院 議院運営委員会 第6号
これは昔、治安維持法のときに、どこで現行犯を逮捕するかというときに、鈴木文治がステッキを持っていて、ステッキを肩から以上に上げた。その瞬間をとらえて、これを凶器とみなして鈴木文治が逮捕された、こういうこともあるわけです。
これは昔、治安維持法のときに、どこで現行犯を逮捕するかというときに、鈴木文治がステッキを持っていて、ステッキを肩から以上に上げた。その瞬間をとらえて、これを凶器とみなして鈴木文治が逮捕された、こういうこともあるわけです。
大矢先生は、みずからの職場を通じて、労働階級の実情に深く考えられるところがあり、大正元年、鈴木文治氏を中心にしてかの友愛会が創立されまするや、進んでこれに参加し、先生の畢生の事業となった労働階級の向上と労働組合の育成のために、苦難の第一歩を踏み出されたのであります。
(拍手) 思えば、昭和十五年、いよいよ日本が戦時体制に深入りして、政党が次々と解党し、大政翼賛会が日本の良識を麻痺させた七十六帝国議会のとき、大政翼賛会のため助成金を出す予算を追加しようとした政府予算案に反対し、翼賛会に対する政府補助金の削除を求めた議員、川崎克、鈴木文治、芦田均、鳩山一郎、片山哲氏などとともに、粟山さんの名が連ねられておるのであります。
時あたかも明治より大正への転換期でありまして、労働組合運動の機運がようやく胎動し始め、大正元年に故鈴木文治君がその口火を切って友愛会を創立しました。松岡君は、大正三年に迎えられて友愛会に加入し、労働者出身の指導者として世間の注目を引いたのであります。そのころは、まだ幸徳秋水のいわゆる大逆事件の影響が残っておって、労働組合の結成には、今日では想像もできないような迫害と弾圧を伴ったのであります。
そこで、当時澁澤さんは、何とかして、協調会の成立に際して、労働組合側の代表者をメンバーに加えたいということで、鈴木文治氏に話しかけられたようであります。鈴木さんは、すでに協調会成立当時のいきさつを知っておられただけに、下手するとこのような妙なことになる団体には関係したくないというので、はっきりお断わりになっておられます。
それでちょうどそのとき立ち会ってくれましたのが衆議院議員の鈴木文治先生でありましたが、それでは医務課長、光線をはかれというわけで、学者にはからせましたところが、これはこれよりずっと少いじゃないか、この通り少い、確かに光線が少いというわけで、そのときは認められたような次第であります。
労働組合の発達というものを、日本は、かりに大正元年鈴木文治さんが友愛会をつくつてからとしましても、四十五年になりますが、イギリスが三百年というものを持つておるに比べますれば、非常に短かいし、かつまた、戦後日本がアメリカさんの指導のもとに、非常に強力な労働組合保護の規定をつくつて、そうしてアメリカさんの進駐軍が率先して労働組合を指導、奨励、扇動してまわつたときからしますと、九年でございます。
そこで推薦いたしますかたは高戸義太郎氏と申しまして、履歴は長野県松本市出身のかたで、松本高等学校卒業後、東京大学社会学科を卒業され、その後、鈴木文治氏経営の内外社会問題調査所に勤務され、更に日鉄鉱業株式会社に勤務、現在日本労働組合総同盟出版部長をしているかたでございます。その性格も非常に地味なかたでございまして、こういう專門員のお仕事には適当なかたと存じて、おりますが、如何でございましようか。
先刻申上げたように安部磯雄、北澤新次郎等を最初の先生として、出てからは、高橋亀吉、麻生久、鈴木文治、無論今の片山、水谷、西尾、從來も同僚であり、運動を多少見解では差があるかも知れんが或いは長谷川如是閑とか、ああいう人達、軍人では宇垣大將今の黒澤主一郎、等々力森藏というところですが、政界方面においては、まだ澤山、知り合いがありますけれども、これは知合いです。
関東方面は鈴木文治氏が関東方面の会長であり、私は関東の関係で鈴木文治氏の下に新潟縣、群馬縣、山梨縣、千葉縣等の農民運動に参加しておつたこういう状況であつた。
大正八年大阪の木津川セメント曾社へ社せられ、同年友愛會へ加盟、大正九年日本勞働總同盟大阪連合會會長に就任し、昭和五年國際勞働會議へ代表鈴木文治氏の随員として出張せられ、十六年日本勞働總同盟大阪連合會の解散に伴つて同會長を辭し、二十年十一月總同盟大阪連合會長に就任し、現在就任中であります。それから二十一年八月日本勞働組合總同盟副會長に就任、現在就任中であります。