2020-11-05 第203回国会 参議院 予算委員会 第1号
東北出身の総理大臣は、戦前は平民宰相原敬、そしてお二人の海軍の軍人でありました斎藤実、そして米内光政、戦後は鈴木善幸総理大臣であるわけでございます。そして、菅総理は東北で五人目の内閣総理大臣、秋田県では初めての方であるわけでございます。 総理は、高校を卒業して東京へ出て、一念発起して大学に通い、それから神奈川県で地元の国会議員の秘書として随分と苦労されたと、このように思うわけでございます。
東北出身の総理大臣は、戦前は平民宰相原敬、そしてお二人の海軍の軍人でありました斎藤実、そして米内光政、戦後は鈴木善幸総理大臣であるわけでございます。そして、菅総理は東北で五人目の内閣総理大臣、秋田県では初めての方であるわけでございます。 総理は、高校を卒業して東京へ出て、一念発起して大学に通い、それから神奈川県で地元の国会議員の秘書として随分と苦労されたと、このように思うわけでございます。
そのときの鈴木善幸総理のことは忘れられないんです。今の、漁民のために尽くせですよね。漁船にどういう人が乗っているか。漁民の方は土地がなくて漁業をやっているんだと。それで、あんちゃんたち、兄貴らは漁業権漁業をちゃんとやって、一人で一人前として、そこに入れると。
当時の総理大臣は鈴木善幸総理大臣、法務大臣は奥野誠亮、セイリョウさんと呼ばれることもあるんでしょうけれども、奥野法務大臣でございました。 私も、毎日のように、その国会質疑、いろいろな質疑を読ませていただいております。ロッキードという言葉を検索します。五十八年が判決ですけれども、五十一年から五十六年だけを検索しても、会議数千百七十六回、該当箇所は八千九百十九。
代表的な答弁では、鈴木善幸総理あるいは角田法制局長官など複数のものがあります。しかし、これを安倍内閣は突如解釈変更によって可能にしました。 しかし、実は、憲法九条の条文を変えない限りできないと言われていた集団的自衛権が突如可能になった、その安倍内閣の合憲の根拠はたった一つしかありません。(資料提示)今私が手に持っている昭和四十七年政府見解、今から四十四年前に作られた。
ちなみに、先ほどお示しさせていただきました議事録がございましたけれども、この議事録二ページ目のやり取りの文末に鈴木善幸、当時の総理大臣の答弁が出てまいりますけれども、実は鈴木善幸総理大臣の答弁におきましても、括弧でくくっている部分ですけれども、一番終わりの方ですね、したがって、集団的自衛権というようなことになりますためには、現行憲法の改正というものがなければ現在の憲法では集団的自衛権というものは私としては
そして、御承知のように、その後、いわゆるA級戦犯が合祀をされる、これはA級、B級、C級、全てでありますが、合祀されていった中において、特にA級戦犯が合祀をされたという中において、このA級戦犯が合祀された後も、大平総理、そして鈴木善幸総理も参拝をされましたし、その後、中曽根総理も参拝をしておられます。そして、突如、中国がこれに対して抗議をしてきたという経緯があります。
それで、今度大事なのは、総合安全保障関係閣僚会議ですけれども、鈴木善幸総理です。非常にごたごたがあったんです。そして、余り軍事が突出するのはよくないということで、これをわざわざつくられたわけです。 それで、下の方をちょっと見ていただいたら、会議メンバーのところに農水大臣も入っているんです。そして、事務局の構成というのを見てください。室長はやはり外務省から来ておられるんです、アジア局審議官。
鈴木善幸総理のときですね。そのぐらい本当は政治の言葉は重いんですよ、政治家の言葉というのは。 ですから、やはりその政治の言葉に信頼を与えるためには、これはやっぱり大臣も結果を出さなきゃいけない、やっぱり行動ですよ。
一九八二年、鈴木善幸総理大臣のときに人事院が、当時は四・五八%引き上げるべしと勧告した。しかし、鈴木内閣はやらなかった。危機的な財政事情ということでやらなかった。(発言する者あり)引き下げをやらなかったなんという問題ではないでしょう。同じですよ、事実上。四・五八%上げろというのを上げなかったんですから。それで組合から提訴されましたよ、ILOに提訴されたけれども、内閣は引かなかった。
あれはかなり昔でしたけれども、鈴木善幸総理と伊東正義外務大臣のころです。しかし、今や日米同盟は軍事同盟だと言ってだれもはばからなくなってきているんじゃないかと思います。しかし、日米同盟、言葉では同じですけれども、内容は変質してきているんじゃないかと思います。 そういう点で、私は慌てて読んだんですが、実はこれはけさ読んだんです。
今まで繰り返し、これはもう佐藤総理、中曽根総理、あるいは鈴木善幸総理も、これで戦後処理は終わりにするんだ、戦後は終わったということを繰り返し宣言してきておられますが、いまだに、六十一年たってまだこういう議論を続けなければならない。
しかも、鈴木善幸総理大臣は、イギリスの王立協会のスピーチで、ワシントンのナショナルプレスクラブのスピーチで、日本の非核三原則はナショナルポリシーだというふうに言っています。これを内閣の政策だから取っ外してしまえというのは、乱暴な議論だと思います。
しかしながら、それから昭和六十年の、五十四年から六十年の中曽根総理の参拝までは、歴代総理としては大平正芳総理、鈴木善幸総理、六年間、中曽根総理も含めて六年間期間がありましたけれども、中国は一回なりともその文句を言ったことはないんです、これは。それが、六十年の中曽根さんの参拝以降に、そうしたA級戦犯を合祀している靖国神社に参拝するのはけしからぬと、こうした問題が出てきている。
そしてその後、鈴木善幸総理、これは八〇年、八一年、八二年と、これ約八回ですね。この方が、実は非常に八月十五日ばっかり行っているんですね、毎年必ず八月十五日、欠かさずに行かれております。 その後を受けた中曽根総理、これも延べで十回参拝をいたしております。この中曽根さんも、八五年八月十五日まで三回参拝されております。
それは鈴木善幸総理のときでありまして、一九八一年五月、鈴木総理が訪米をされて、日米共同声明を出された。その共同声明の中に、日米は同盟関係にあるという文言がありました。これに対して、帰国されてからの国会で、野党側から、それは軍事同盟を含むのかという質問が出まして、これに対して、鈴木さんは大変正直な方といいますか、今息子さんが閣内におられるわけですが、軍事同盟は含みませんという答弁をされたんですね。
我が国の場合も、戦後、例えば鈴木善幸総理大臣のときに、伊東正義外務大臣が更迭されることになりました。日米関係について、同盟だとはっきり言った伊東外務大臣、同盟ではないよと鈴木総理大臣、対立いたしまして、結局外務大臣がやめる羽目になった。これは、デタントから新冷戦へと国際社会の環境が大きく変わる中で起きた国際政治上の一事件として記憶にとどめられているわけであります。
たしか四国四県よりも広い県だと言われておりますが、そういう中で、いろいろ歴史的に見ても人材を輩出し、原敬総理ですか、戦後では鈴木善幸総理、さらには文化人では石川啄木、宮沢賢治、いろいろすばらしい人材を輩出しているいいところだなと思っております。
そのことについてはちゃんと報告書が出ると思いますが、公式のいろいろな方々とのお話の後、根室と釧路で婦人団体の方たちと、前から存じ上げているということもあって、忌憚のない話をした中で、どうも二〇〇〇年には北方領土が返ってくるというところまで行くのは難しそうなんだけれども、実は、北海道開発庁長官はおいでになっているけれども、総理大臣は鈴木善幸総理大臣がおいでになってから一度もいらっしゃっていないし、外務大臣
ブラジルにお見えになられたのは八二年の鈴木善幸総理のとき以来、十四年ぶりでございました。 さらに、ついこの間、史上初めて天皇、皇后両陛下がブラジルとアルゼンチンを訪れられまして、官民挙げての自発的な歓迎を受けて大きな成功をおさめられました。私もすべての行程にお供いたしました。
○浅野委員 そのときの春先、赤字国債は発行しないと明言したのに、急速に景気が悪化して、秋には三兆九千億円の特例公債を発行せざるを得なくなり、臨時国会でその手当てをした後、鈴木善幸総理は公約をたがえた責任をとって退陣されました。