1998-04-07 第142回国会 参議院 総務委員会 第7号
この中には、一九四四年十一月、河南省で歩兵部隊が林県南部地区に進攻し撤退するとき、これは鈴木啓久という中将が言っておりますけれども、第一一七師団長でございますが、撤退するとき、私の命を受けて十二軍の防疫給水班は三、四カ村でコレラ菌を散布した、後に私は軍医部長から林県において百名以上の住民がコレラにかかり死亡者多数という報告を受けたなどと供述しております。
この中には、一九四四年十一月、河南省で歩兵部隊が林県南部地区に進攻し撤退するとき、これは鈴木啓久という中将が言っておりますけれども、第一一七師団長でございますが、撤退するとき、私の命を受けて十二軍の防疫給水班は三、四カ村でコレラ菌を散布した、後に私は軍医部長から林県において百名以上の住民がコレラにかかり死亡者多数という報告を受けたなどと供述しております。
北澤中将、それから塩沢中将、塩沢中将の部下である野村少将、それからやはり同樣に師団長である鈴木啓久中将というような七名の方が、何か一つの軍関係のグループじやあるまいか、こう想像できます。その次が第五軍司令官であられる清水中将、その参謀長の川越少将、その軍に属しておる師団長である椎名中将並びに人見中将、これが清水軍に関係あるいわゆる第五軍に関係した一つのグループ、こう考えられます。
鈴木啓久、桑田貞三、藤田茂、清水規矩、中山淳、有林、ちよつと名前は忘れました。この中山と有林は入院しております。新美二郎、今利龍雄、岡部通、津田賜、福士、これはちよつと名前は知りません。若井、これも存じません。齋藤義夫、青木謙、もう一人後藤という方がおりましたが、これも古いのでちよつと名前を失念いたしました。土谷直二郎、この方は亡くなられて、遺族に通知して置きました。