2015-08-25 第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第12号
(資料提示) これは、韓国の朴槿恵大統領が、北朝鮮の砲撃、韓国軍は挑発砲撃と呼んでいるようですが、この砲撃が行われた翌日に、朴大統領が韓国陸軍第三野戦軍司令部を訪問して軍に指示を出した、そのときの写真でございます。ここに迷彩服を着て現れた朴大統領が軍に指示したことは、北朝鮮のいかなる追加的挑発に対しても徹底して断固たる措置をとれと、こういうことでございました。
(資料提示) これは、韓国の朴槿恵大統領が、北朝鮮の砲撃、韓国軍は挑発砲撃と呼んでいるようですが、この砲撃が行われた翌日に、朴大統領が韓国陸軍第三野戦軍司令部を訪問して軍に指示を出した、そのときの写真でございます。ここに迷彩服を着て現れた朴大統領が軍に指示したことは、北朝鮮のいかなる追加的挑発に対しても徹底して断固たる措置をとれと、こういうことでございました。
○玄葉国務大臣 今おっしゃった李英浩氏、例えば、野戦軍の司令官の経験があって、強硬派であるとか、いろいろな言われ方がされているということであります。 ただ、それ以上どう分析していくか、あるいは分析しているかということについての答えは差し控えた方がいいんだろうなというふうに思っています。
といいますのは、集団的自衛権というのは、かつてのようなヨーロッパ正面で野戦軍が向き合っているような戦争状態はもはや考えられない。各国ともに小規模、機能的、機動的な緊急展開部隊を保有しています。日本も中央即応集団というのを既に保有しようとしています。この機能運用思想というのは、文字どおり野戦軍同士のぶつかり合いよりは、緊急展開して一気に問題解決すれば戻るような言わば瞬発力ですよね。
これは中国の組織図でございますが、中国の国防を担う武装力というのは、野戦軍である人民解放軍のほかに地方軍、民兵等を含めた非常に広範な概念で軍事力というものを把握しておりますし、正規軍は陸海空軍のほかに戦略核ミサイル軍の四軍種から成り立っております。
陸上自衛隊の使い方につきましても、一体、第一線部隊のいわゆる野戦軍の装備、それから訓練、それの用途、そういうことでやっておられるが、そんなものが一体わが国の防衛のために果たすべき陸上自衛隊の主務なのだろうか。外征軍ならそれはそれなりにあるかもしれませんよ。しかしわが国のこの日本列島だけを守るのが任務だ。
そもそも当時の野戦軍の軍法会議の実態を見るに、起訴、不起訴の決定は、当該軍司令官、師団長などの専権に属し、起訴、不起訴の決定には当該指揮官の恣意が強くこれを左右し、またその量刑も各戦域の戦況により軽重の差がはなはだしく、きわめて不当な裁判でありました。
もう一つの面では、海外の通常兵力の大幅削減とあわせてC5Aギャラクシーの配備、あるいはFDLの開発によって戦略野戦軍を緊急導入できるような能力を強めていこうという方向と、いわゆるグァムドクトリンでいわれておる同盟国の自衛戦力の肩がわり、あるいは多角的な地域統合の促進、ドル防衛、こういう観点から自衛隊が米軍基地を管理することと、必要に応じて在日米軍がこれを使うのを認めていく、こういう方向が打ち出されておるように
ところが日本の国内におきましては、駐留米軍は野戦軍でございまして、学校を持つておりませんので、特別に向うへ派遣いたしまして、科学的、能率的な方式というようなものについてよく勉強をして来るようにということで派遣をした次第であります。
それからただいま書類をいただきましたが、その編成を見ましても、アメリカの野戦軍をそのまま模倣しておることでございます。かつ予備兵力がありませんから完全装備をとつておる。完全装備をとつたアメリカの野戦軍の編成そのまま模倣してつくつておる。第三には、訓練すなわち演習の関係がアメリカの教範、すなわち運用方法によつてなされておる。第四には、その配置も国の治安維てお持の任務から配置せられてはいない。
現在の編成は、御承知の通り日本の国内治安維持を建前とする編成とはやや趣を異にしまして、米軍の一野戦軍の編成に近いものと見るのであります。第一幕僚監部の林さんの編成にしても、あるいは米軍の一野戦司令部の編成によく似ておりますし、それから各管区の編成は、米軍の戦時編成に酷似しておると思う。しかも戦時編成に近いものをとつておられるところが非常に非能率的であります。
日本の国内の平和と秩序を守るということが保安隊の使命であるとすれば、その編成がかくのごとく幕僚も、実行部隊も米軍の野戦軍と似通つた編成がいいとお考えになるのか。
ハルビンに出て来るまでの間は、いわゆる第四野戦軍の遼吉軍区に勤めておりました。ハルビンに出て来てからは、東北人民政府の工業局の紡績工廠、これの化学部の方の技師として働くようになつたわけです。そして一九五〇年まで、一年余りの聞、紡績に必要なところのロート・オイルというものを製造しておりました。そうして、ちようど一九五〇年の一月に北京に無断で出て来たわけです。
天津を解放した年に、まだ国府軍がいるうちに第四野戦軍とともに解放地に入つたのです。それから軍隊留用生活四年半か五年で、一九五〇年の三月に、志願して留用を解除してもらつたのです。そのとき、私ももうすでに三十一になつておりました。ある人の世話で結婚したのが動機で、留用解除になつたのです。そして天津では経済的にとつても恵まれました。
第四野戦軍の林彪の病院に何年か御奉公しておつたのですが、八路軍に、おれは金より酒をくれなくちや働かぬのだと言つて、言いたいことを言つて、酒をもらつた働かしてもらつていたのです。ですから、心臓は悪いし、軍隊をやめたときも、やはり体がだめなものだから、急に内地に帰りたくなつたから帰してくれと騒いだのが動機で、天津で復員させられた状態なのです。