2015-04-24 第189回国会 参議院 本会議 第15号
ここまでの歩みを続けることができましたのも、ひとえに家族を始め、郷土香川、そして全国の支援者の皆様のおかげであり、厚く御礼を申し上げます。 私の国会への挑戦は、昭和六十一年七月の衆参同時七夕選挙でございます。当時、県議会議員であった私は、父の引退の後を受けて立候補いたしました。
ここまでの歩みを続けることができましたのも、ひとえに家族を始め、郷土香川、そして全国の支援者の皆様のおかげであり、厚く御礼を申し上げます。 私の国会への挑戦は、昭和六十一年七月の衆参同時七夕選挙でございます。当時、県議会議員であった私は、父の引退の後を受けて立候補いたしました。
(拍手) それから二十五年、八回連続当選させていただいたのも、先輩諸兄を初め、郷土香川県の皆様のおかげと心から感謝をいたしております。また、一時体調を崩したときは、家族が一致団結して献身的に支えてくれました。(拍手) 政界では主として運輸畑を歩きました。
一方、党にあっては、本州四国連絡橋対策特別副委員長、香川県本部委員長等の要職に就任され、政策の推進と党務の処理に臨み、郷土香川の発展にも取り組まれました。 毀誉褒貶を顧みず、郷土愛あふるる君は、常に我々香川県選出国会議員の先頭に立ち、党派を超えて瀬戸大橋の建設、新高松空港の建設と香川県開発のための大プロジェクトを推進され、県民の期待にこたえてその実現を見ることとなったのであります。
今日の私の栄誉は、これひとえに先輩、同僚議員各位の、また、郷土香川県を初めとして全国国民多数の方々の長きにわたる温かい御厚情と御鞭撻のたまものでありまして、衷心より厚く感謝申し上げる次第であります。(拍手) 思えば、私は、昭和十二年、不幸なる日中事変となりました盧溝橋事件勃発の翌八月、二十歳にして、赤紙の令状によりまして召集を受け、一兵卒として、同年九月には早くも上海戦線に送られたのであります。
なお、多年にわたりまして御支援を賜わりました郷土香川の皆ざまに対しましても、心から感謝の意を表するものであります。(拍手) 私は、昭和二十二年、初の議席を得て以来、常に大衆のための政治を指針として政治生活を送ってまいりました。 顧みますれば、当時のわが国は焦土と化し、占領体制のもとで国民は失意と混乱のさなかでありました。今日の繁栄を見ますとき、まことに感慨無量であります。