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13件の議事録が該当しました。
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該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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2016-02-25 第190回国会 衆議院 予算委員会第一分科会 第1号

ヘリコプターについて二点お伺いしましたが、私の地元郷土部隊であります新発田第三〇普通科連隊ヘリコプター部隊としての指定を受けておりまして、地元意見交換する際にも、やはりヘリコプターについての議論というのが非常に多くなりますので、二点確認を申し上げました。ありがとうございます。  引き続きまして、自衛隊員方々の処遇について、私からもお尋ねをしたいと思います。  

斎藤洋明

1995-03-16 第132回国会 参議院 厚生委員会 第4号

満蒙開拓青少年義勇軍郷土部隊募集二関スル件」では、「過般本府主催係ル郡小学校長会議二於テ決定相成候標記郷土部隊編成補充募集ニ関シ一市郡平均五名送出準備都合モ有之候条貴職ニ於テ夫々貴市郡小学校長会長ト緊密ナル御連絡ノ下ニ応募者氏名来ル二月十一日限本職業課必着以テ通知相成度」、こんなふうな通達が行っているわけです。  

西山登紀子

1991-08-30 第121回国会 衆議院 内閣委員会 第1号

また、それぞれにゆかり郷土部隊の歴史を残していきたいという関係者の御希望等もございまして、そういうような資料も、自衛隊資料等含めまして展示する資料館等を設けている場合が多うございます。  ただいま委員が御指摘になられました陸上自衛隊新発田駐屯地資料館でございますが、そこにもそのような資料館がございますが、その中には、当該駐屯地ゆかりの旧陸軍歩兵第十六連隊関係資料が出ております。

日吉章

1989-05-25 第114回国会 衆議院 内閣委員会 第5号

まず、あらかじめ厚生省の方に事前に確認をしていただくようにお願いをして、わかりましたということになっておるわけですけれども、この湘桂作戦等の作戦で多大の犠牲で戦死者が出ております私の郷土部隊歩兵第一三三連隊(嵐六二一四部隊)の戦没者遺族名簿というのが一三三会として出されております。

角屋堅次郎

1981-03-31 第94回国会 衆議院 内閣委員会 第3号

特にその点に触れるのは、私がということよりも、私ども郷土部隊というのが大体中国戦線フィリピン戦線あるいはビルマ戦線というところに関係が深いわけでありまして、そういう方々戦友意見の中でも、当時の中国状態から見れば、他の南方地域と同じような取り扱いでいいのではないかといったような議論を聞いたりするわけであります。

角屋堅次郎

1977-10-26 第82回国会 衆議院 大蔵委員会 第3号

吉江説明員 各旧戦域にいわゆる戦友会とかあるいは遺族会郷土部隊方々等がそれぞれの慰霊碑をお建てになっておるということは、私どもは仄聞をいたしておりますが、その団体の方々がそれぞれの方法で土地を確保されてお建てになり、お守りになっておるというように了解をしておりまして、全体については私どもは詳細に把握しておりません。

吉江恵昭

1976-07-15 第77回国会 参議院 内閣委員会 閉会後第1号

で、一朝有事の際におきましては、たとえば北にそういう問題が起きれば支援の部隊を内地から派遣をするということでこれに対応することを考えたらどうだろうと、そこでいま申し上げましたように、まあ郷土部隊という性格を強く打ち出して、その部隊の中身について再検討をしてみたらどうかという一つの試案として、ただいま先生から御指摘がありましたように、北海道については人員充足に非常に苦労しておるという点から考えて、それを

丸山昂

1966-10-28 第52回国会 参議院 内閣委員会 閉会後第4号

日本でもおそらく単なる地方の一小部隊というようなところでないことは御承知だろうと思いますが、そういうようなところでございますし、また熊本にしても、これは広い意味における郷土部隊でございますが、そういうように、そういうところの視察をする場合、各幕僚長から専門的な意見を聞くということは、これはきわめて私は必要なことであると思うわけでありますが、それについて命令だとかあるいは自発的に単に行ったんだとかいう

上林山榮吉

1966-10-28 第52回国会 参議院 内閣委員会 閉会後第4号

私は、最初事務当局に申しましたのは、鹿屋や国分や熊本部隊——言いかえますならば郷土部隊どうしても北海道と九州は早目に視察したいものだし、まあ郷土部隊もひとつ見たいものだ、それと並行して県庁や県警本部町村役場どもこの機会にひとつごあいさつをしたい、こういう点は確かにあったわけで、衆議院に伊藤委員も来てよく聞いておられたようでございますが、どうか私の心境を正直に言えといえば、これが正直な見解でございます

上林山榮吉

1966-10-17 第52回国会 衆議院 決算委員会 第3号

かつまたそれに対して何を言ったかということにつきましては、これは本来ならば長官がお帰りになってから、長官御自身がお答えになるべきでございましょうけれども、現在の長官心境の一端を伝える電報といたしまして、ワシントンの十三日の共同特派員電報——これはもちろん私は長官のすべての意向を伝えているとは考えられませんけれども、その中から感じとられますことは、「お国入り鹿児島熊本郷土部隊巡視とを一緒にやったので

長谷川仁

1966-10-17 第52回国会 参議院 内閣委員会 閉会後第3号

いずれ長官帰国後に当然発言があると思いますけれども、御参考までに申し上げますると、去る十三日のワシントンにおきまするところの某通信社特派員との一問一答の中で、私がふなれなことから云々というおことばと、私がお国入り鹿児島熊本郷土部隊巡視とを一緒にやったので混同して受け、取られる点があったとしたら、いま考えてみて私としては少し配慮が足りなかったように思うというような談話が、これは私、非常に縮小された

長谷川仁

1952-06-28 第13回国会 衆議院 内閣委員会 第36号

当時山形県下の防衛のため郷土部隊が編成されますや、本人は六十四歳の老躯をひつさげ、みずから率先して国土防衛のため中隊長としてたこつぼ戦術だとか竹やりの訓練に努めたのであります。本人としては銃後の守りは当然軍人のやるべき仕事であるとしてやつたのであります。ところが満州に出征していた子供は裸で帰り、孫は病気で寝込み、何もなくなつて食うにも困る状態になつたのであります。

石丸志都磨

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