2020-02-17 第201回国会 参議院 行政監視委員会 第1号
それが今から何十年か前に、昭和の時代に十六の土地改良区が集まって那須野ケ原土地改良区連合というのができました。 施設はどんどん老朽化しますし、大方針として受益者負担の軽減、どうやってこのジレンマを解決していくか。今から二十数年前から小水力発電というのをやりました。ところが、いろんな規制があって、あれに使っちゃいけない、こっちに積み立てろとか、最近では、あと二年後には複式簿記会計だと。
それが今から何十年か前に、昭和の時代に十六の土地改良区が集まって那須野ケ原土地改良区連合というのができました。 施設はどんどん老朽化しますし、大方針として受益者負担の軽減、どうやってこのジレンマを解決していくか。今から二十数年前から小水力発電というのをやりました。ところが、いろんな規制があって、あれに使っちゃいけない、こっちに積み立てろとか、最近では、あと二年後には複式簿記会計だと。
また、平地が多くて山は少ない、そして海もないものですから風力も合わないとなると、やはり水力じゃないかというふうに思いまして、三・一一、東日本大震災が発生した際に、再生可能エネルギーの埼玉県の可能性ということで、私は、栃木県の那須野ケ原の土地改良区がやっている、農業用水路を生かした小水力発電というのを見てまいりました。
特に県北の那須野ケ原土地改良区というところでは、国営土地改良事業として、平成四年に全国で初めて小水力発電が計画設置しております。 このほか、いろいろなところでこの小水力発電、農業用水を使ったものが使われて、しっかりと進められているわけでございますけれども、一方で、固定価格買い取り制度、どうしてもここに行き着く議論になってしまうんですけれども、毎年見直されているわけです。
具体的には、那須野ケ原発電所、最大出力三百四十キロワット、百村第一、第二発電所、最大出力合計百二十キロワット、全部で約二百世帯分の電力を賄っておりますけれども、こういった農業施設の維持管理に使うとともに、余剰電力を売電するなど、エネルギーの地産地消が図られております。ごみがたまったりするんですけれども、それに地域の皆さんが協力して熱心に取り組んでおられました。
まして、私が残念だと思いますのは、那須野ケ原に行っても、首都がもしかしたら来るかもしれない、岐阜県に行っても、山の中に、首都は岐阜になんて書いてあった。こういうもので随分無駄な努力や無駄なお金が使われているんじゃないかなということを思ったことがあります。
渡辺大臣は、地元の那須疎水土地改良区と那須野ケ原土地改良区連合の理事長として、昨年の平成十九年の九月十日まで務めておりました。加えて、近所の蟇沼堰土地改良区の資産運用も含めて、少なくとも七億円以上の資産運用をしておりまして、その運用先は野村証券だということを、地元の人は皆さんよく知っているんですね。 政府参考人はこうしたことを知っておりましたか。
そして、翌年、議員立法で国会等移転審議会、これを設ける法律が定められまして、九九年十二月に那須野ケ原を筆頭候補にした報告書がまとめられております。 日本の国というのは、国の形を変えるときに権力の所在地を変えてきております。奈良、平安、鎌倉、室町、江戸というふうに場所で時代を区分する国は日本をおいてほかにどこにもありません。
私は、四年間、那須野ケ原というところにおりまして、小さなダムを造っている現場の工事課長をしていました。そこの受益者が組織する土地改良区というのがあるんですが、その土地改良区の理事長さんが当時、渡辺美智雄さんでございまして、お父さんであります。
私どもの地域には、広大で平たんな那須野ケ原がございます。この地域は扇状地のため、明治以前までは表流水が乏しく、不毛の大地でございました。この地の開拓は地元の悲願であり、多くの先人がその実現に努力してまいりました。この開拓を可能にしたのが、明治政府の殖産興業政策のもとに行われた那須疎水の開削であります。
日本共産党は、栃木・福島地域への移転について、那須野ケ原地域の自然環境破壊の不安、そしてまた観光、農業など主要産業への大きな影響、さらには水の確保、ごみ問題などありまして、この計画には反対です。知事がどのようにその点をお考えになっているのかということをお聞きしたいと思います。 以上です。
そうしますと、那須でも、那須野ケ原というのですか、緑の海というふうにビデオで紹介していました。 さきの通常国会で森林基本法というのが成立しまして、従来コンクリートでダムをつくっていたわけなんですが、山に木を植えて、その森林の保水能力で山を守り水害を防ごうというのも、たしかその森林基本法の理念に入っていたと思うんですね。
本県の那須地域には、その中心に那須野ケ原と呼ばれる約四万ヘクタールに及ぶ広大で平たんな扇状地がございます。この那須野ケ原の中に、東北自動車道の西那須野塩原インターチェンジに隣接いたしまして、四百ヘクタールの公営牧場など、一団の国公有地が存在しております。その上、この国公有地に隣接いたしまして民間企業一社で所有している土地を加えますと、千二百ヘクタールとなります。
那須地域は、那須野ケ原と呼ばれる那珂川と箒川に挟まれた扇状地で、約四万ヘクタールにも及ぶ広大で平たんな地域であり、新しい日本を切り開いた明治の開拓精神がしのばれる歴史と品格のある地域であります。 このうち、東北自動車道の西那須野塩原インターチェンジに隣接して、約四百ヘクタールの一団の国公有地が存在しております。
那須野ケ原は、那須疎水を初めとする開拓事業によって原野に水と緑の環境をつくり上げた代表的な事例であり、農林業によって保全されてきた自然であります。 この那須野ケ原の本格的な開発は、明治以降、大山巌、西郷従道、松方正義、青木周蔵、山県有朋ら、そうそうたる明治の元勲たちの大農場方式による入植、開拓からであり、この開拓を支えたのが那須疎水の開削でありました。
極めて平たんな、広大な、いわゆる那須野ケ原でございます。山の方は別でありますけれども、那須野ケ原は海抜二百から四百メートルの、極めて平たんな、広大な地域でございます。
栃木県の出身ということですので、栃木では、栃木ブロック協議会の会長が大橋君といいまして、九六年の那須野ケ原青年会議所理事長ということで、彼のいろいろな意見が大変我々の刺激になっております。本当にきょうはありがとうございます。
また、その中心部は、那須野ケ原と呼ばれる、那珂川と箒川に挟まれました約四万ヘクタールに及ぶ広大かつ平たんな扇状地であります。那珂川以北もなだらかな地形でございまして、福島県境まで含めますと約七万ヘクタールの平たんな土地が続いております。
那須野ケ原は、江戸時代までは原野でございました。明治維新の直後、新しい国づくりに燃える時の為政者たちが、福島県の郡山に猪苗代湖の水を引くために安積疎水をつくり、続いて栃木県の那須野ケ原に水を引くために那須疎水をつくった、殖産興業政策の一環として、そして大農法を展開してきた、そういう歴史がございます。
現地調査においては、このうち那須地域南部及び那須野ケ原などの視察を行いました。 次に、栃木県における概況説明会の要旨を御報告いたします。 まず、渡辺文雄栃木県知事からは、首都機能の移転に関しては、地方分権・規制緩和あるいは行政改革を先行すべきとの議論があるが、首都機能移転と地方分権や規制緩和は車の両輪である。首都機能移転により初めてこれらも促進される。
生後間もなくお母様を失い、栃木県那須野ケ原のおじ夫婦のもとに預けられ、その温かい愛情と那須の大自然の恵みにはぐくまれました。 長じて先生は、県立大田原中学校を経て、東京商科大学専門部を卒業されました。終戦は宇都宮の連隊で迎えられ、復員後は郷里の栃木県でリヤカーを引いて日用品の行商をされたのであります。
例えば栃木県の那須野ケ原で、環境庁みずからが特殊鳥類調査の委託調査を行っておられますが、そういうふうに打って出ることはできないものだろうか。
それからもう一つは、現地の農家の人たちも、水が一日も早くほしいということで、あの無理な事業をいたしたわけでございますから、結局あの地帯における水の問題はなかなかむずかしいことでございますけれども、幸いに私どもいま国営の開拓事業で那須野ケ原の総合開発事業ということを設計中でございますので、それをできるだけ早く、またできるだけりっぱにやり遂げて、なくなった人たちの霊を慰めたいという気持ちでおります。
何で私はこんなことを申し上げるかというと、いま那須野ケ原へ行ってみるとわかりますが、訴訟になっている裁判所の看板、立ち入り禁止の看板がちょっと歩いてみただけでも数カ所、目に触れるところにあります。