2004-02-23 第159回国会 衆議院 予算委員会 第15号
日本で心の教育というと、もうだれでも必ず道徳教育、道徳教育と言うんですね。それは既にもう限界が来ているわけでして、アメリカの挑戦は、私はあのときは、これはいい挑戦だなと思って見ていたんですが、その後、クリントン政権が妙な形で終わっていく、そういう中で、人格教育というのは若干弱まったのかなとは思いましたけれども、今さらに、引き続きアメリカの社会には人格教育というものの波が広がりつつあります。
日本で心の教育というと、もうだれでも必ず道徳教育、道徳教育と言うんですね。それは既にもう限界が来ているわけでして、アメリカの挑戦は、私はあのときは、これはいい挑戦だなと思って見ていたんですが、その後、クリントン政権が妙な形で終わっていく、そういう中で、人格教育というのは若干弱まったのかなとは思いましたけれども、今さらに、引き続きアメリカの社会には人格教育というものの波が広がりつつあります。
例えば教室の中で、道徳教育道徳教育なんておっしゃるけれども、あなたのやったことはいいことなのか悪いことなのかと、こう聞かれたときにきちんと判断しなきゃいけない。よくもない悪くもない、慎重さを欠いて残念だったなんて、先生はそう思うよなんて、そんな授業というのはないと思うんですけれどもね。 大体、高石さんに事情を聞かれたのは、大臣が直接お聞きになったわけじゃないんでしょう。
同時にまた道徳教育——道徳教育は私ども反対ではございませんけれども、昔の修身科を復活するがごとき、そういう道徳教育の押しつけを推進してきた人物。それからまた、教育は政治に中立でなければならぬといって、教員の政治的中立というあの法律を十年前に企画し、推進したところの人物が内藤君であります。
道徳教育、道徳教育と言いますけれども、おとなが模範を示しておる。それはもう終戦後幾多の腐敗、堕落の姿がある、それから政治の中にもそういう問題があると思います。造船疑獄のざときはまさにその一つだ。