1975-06-26 第75回国会 参議院 文教委員会 第17号
これを受けて当時の天野文部大臣が教育勅語にかわるものとして国民道徳実践要領を提示したという記憶があるわけです。このような歴史的な事実を見ますとき、私は何かしら政治の不始末を教育で始末するといいますか、政策の失敗からくる国民の不信を教育の責任にすりかえるといった感じを実は一面持つものであります。
これを受けて当時の天野文部大臣が教育勅語にかわるものとして国民道徳実践要領を提示したという記憶があるわけです。このような歴史的な事実を見ますとき、私は何かしら政治の不始末を教育で始末するといいますか、政策の失敗からくる国民の不信を教育の責任にすりかえるといった感じを実は一面持つものであります。
それから二十六年の十一月に、当時の文部大臣でございました天野文相が、国民道徳実践要領というものを発表され、これは個人的なものとして発表されたようでございます。それから二十七年の八月、教育課程審議会が、社会科の改定の答申の中で、道徳の育成をうたったわけでございますが、三十年四月に社会科指導要領を改定し、社会科における道徳教育の観点を明示をいたしました。
さきの吉田内閣当時における天野文相は、教育勅語にかわるべき国民道徳実践要領を提議されたのでありますが、世のいわゆる何でも冷笑し、ひやかすことをもって誇りとしている学者や評論家の反撃にあって、日の目を見るに至らなかったこともありまする。
○岩間正男君 これはこの前の国民道徳実践要領のときもあなたはそういうことを言われた。天野個へ、こういう言葉は奇々怪々である。いやしくも文相の椅子にいて、これが最高の責任を負つて、而も世人注視の的である。どこかのお茶屋に行つて話したとか、その辺の茶飲み話で話したということならこれは我々は了承できるのです。
道徳実践要領の問題といい、或いは国歌の制定の問題といい、修身科の復活の問題といい、これらは一つの抽象的な形で提案されておりますけれども、その日本の現実と照応して考えてみますときに、その果す役割、これは文部大臣の主観的な意図如何にかかわらず、果す役割というものは、客観的には非常に日本の、今申しましたところの逆コースの態勢の中においては、意外な大きな精神的な一つの逆コースの仕事を果すのであります。
天野文相の国民道徳実践要領よりも、これらの新らしい道徳の先駆者を擁護する政治こそが新らしい国民道徳確立への唯一の道であることをお考え願いたいと存ずるのであります。若しも政治に携わる議員皆様の手によつて、明るい前途が約束されるならば、これらの善良なる納税者はこの白堊の殿堂に満腔の尊敬と信頼を寄せて、自己の義務を履行し、民主国家を謳歌して民族の将来について希望のスクラムを組むに至るでありましよう。
天野文相が国民道徳実践要領というものを出して、世の中の物笑いになつて撤回せざるを得なかつたけれども、その根底には、再び天皇中心主義と天皇━━をつくり出そうとしておるものがあるのである。それだけではない。
○岩間正男君 それからもう一つお聞きしたいのでありますが、やはりこれは道徳実践要領の問題と関連して参るのでありますけれども、しばしばこれは今までも繰返えされたと思うのでありますが、こういう問題が明らかに処分されないうちに、やはりこれは文部省としてはああいうような道徳憲章のようなものが大臣の個人名であろうが、どうであろうが、お出しになる、こういうことは非常に自己矛盾に陷るのではないかと思うのであります
それでは本日はこれを以て散会いたしますが、道徳実践要領という表題はどのようになりますか、これは愼重に検討したいという関係上参考人を更にお呼びしたいと思いますが、それは次の国会開会劈頭にいたしたいと思つております。御了承願います。それではこれを以て散会いたします。 午御四時四十九分散会。
そうしてこれが、道徳実践要領というものが、一体どういう時代的意味を持つているか。予算委員会においても私はこれを指摘した。天野個人の意思なんかは問題ではない。
曾つてやはり全面講和というようなものに署名をした文相が、今日単独講和の閣僚になつているじやないか、曾つて教育憲法を出すことに反対したところの文相が、今日道徳実践要領を出そうとしているのである。これは右する左するの今の論議に対して私は答えることになると思うのでありますが、我々はこういうような一つの矛盾に対しましては、やはり残念ながら鋭い批判を持たざるを得ないのです。
そういうような人々にこのような国民道徳実践要領、こういつたようなものが読まれる場合を考えてみますと、私どもはよほど慎重にしなければいけないのではないか、こういうふうに考えます。
(拍手)天野文部大臣は、国民道徳実践要領なるいわゆる天野勅語を近く制定されると聞いておりますが、(笑声)正義と道徳の範を示すべきところのみずからの役所から醜悪極まる汚職の火の手が上るということは、一体何たる矛盾撞着でありましよう。これでは百の道徳実践要領をお出しになつても、恐らく一つの成果をも期待し得ないのではないでしようか。
(「ますます道徳実践要領を徹底しなければならん」と呼ぶ者あり)ただこの事件はまだ司直の手にかかつておりますので、その全貌が明らかになり次第、私は万遺漏のないような処置をして、今後こういうことが起らないように努力する考えでございます。(拍手) 〔国務大臣根本龍太郎君登壇、拍手〕
天野文部大臣は、本会議の答弁等においても、道徳問題等について、個人的であるか、或いは大臣としてであるかわかりませんが、文教責任者として道徳実践要領かを広く頒布し参考に資するというようなこと等もお考えのそうでありまするが、これらはすべて学校教育、現場の教職員の肩にかかつて来る問題であります。
第二にお伺いしたいのはこの道徳実践要領でありますが、これを天野個人として発表するというお話でありましたが、文部大臣天野個人、こういうことでありましたが、文部大臣天野個人と天野個人ということは私は非常に違うと思う。その証拠には文相が文部大臣の地位を下がられてそういうものを発表されたならば一番明確である。