2020-02-12 第201回国会 参議院 国民生活・経済に関する調査会 第1号
進学実績といいますか、そうはいっても学習支援で自立をしていくためにどうなのというところでは、やっぱりどんな子も高校は行った方がいいよねというふうに言っているので、進学実績としては九年間やっていて一〇〇%ですね。
進学実績といいますか、そうはいっても学習支援で自立をしていくためにどうなのというところでは、やっぱりどんな子も高校は行った方がいいよねというふうに言っているので、進学実績としては九年間やっていて一〇〇%ですね。
御指摘のとおり、子供の貧困対策有識者会議でお示ししております全世帯と一人親家庭の大学進学率、それぞれ算出方法は異なりますけれども、いずれも実際の進学実績に基づいて算出したものでございまして、出典を明らかにした上で両方の数値を示すことに問題はないものというふうに考えております。
今回の追加採用につきましては、推薦される人数にもよりますが、平成二十七年度の進学実績でございます約二万人が対象となると仮定をいたしますと、その人数に例えば月額五万円を貸与した場合、初年度おおよそ百二十億円が必要となると考えられます。具体的な所要額につきましては、実際の推薦状況等を踏まえながら予算編成過程の中で具体化し、所要の予算を確保してまいりたいと考えてございます。
そうすると、公立の学校からいいところだけを選び取って、結局、その目的としては、エリート校化した、大学受験を前提にしていった教育、ある意味で予備校化していく傾向があるのではないかということが指摘されたり、また、高校二年生のレベルまでに三年の部分も全部やっちゃって、だから、先行させてやって、もう三年生は受験勉強一筋というふうな形で特化をしていくというふうなシステムがその中に入って、そして進学実績ということを
○井出委員 もちろん大学の努力というものが大切なのは言うまでもないんですが、私は、大学進学実績が重視をされる、大学に入ることが目的化してしまっているのは、一つ、社会の考え方の責任もあるのではないのかなと。
○井出委員 それは恐らく多くの方がそうなのかなと思うのですが、私は、大学の進学実績ですとかそういったものが余りクローズアップされ過ぎてしまうと、教育の内容よりも成績評価の方に重きが置かれてしまって、進学したら内容を忘れてしまう、社会に出たときに、就職に学生時代の勉強がつながっていくのかなというところに疑問を感じております。
きょうは、初等中等教育における大学への進学ですとか大学進学実績、こういったものについて伺いたいのですが、私も地元で学校の卒業式に出させていただくと必ず進路先の資料というものを渡されて、それが国立大学、有名な私立大学の順に並んでいる。中には、学校の廊下にきれいな字で、生徒さんがどこの大学に入ったか、有名な大学順にそういったものが張り出されている学校もある。
秋田高校は、明治六年の洋学校設立以来、百四十年の歴史を有し、県内有数の進学実績を誇る一方で、ほぼ全ての生徒が部活動に加入し、その加入率は約九五%に達するなど、文武両道と自主自律の精神に基づいた教育が行われております。
ここで議論したいのは、実際に、どのように三年間の例えば志望者であるとか入学者であるとか進学実績、そういったものに影響を与えたのかどうか。 同じような観点で清水参考人にも、三年間でどのようにこの無償化の影響があったのかをお聞きしたいと思います。よろしくお願いいたします。
そこは非常に進学実績も高い学校でして、やはり、立派な理念は立派な結果につながるんじゃないかなというふうに思います。上野先生の学校の方も相当そういうふうな実績も残されていると思いますけれども。 ただ、私立の中では、一部、そうでもない学校もあるのかなと思ったりもするんです。
もちろん、その教育の内容、成果、また大学の進学実績率、またスポーツに至るまで、公立に比べても非常に頑張っているなという私学がたくさんあるのは皆さん御承知のことだと思います。
その場合に、どこの学校を選ぶかというと、やはり、公立の場合はですよ、明確な基準、基準というか根拠になるものがないわけですから、うわさであったり、例えば高校への進学実績であったり、あるいはもう地域の評判であったり、あるいはそこの部活動がどんな成績を収めているかとか、そういったことを基にこの進学先というのをやっぱり親御さんあるいは子供たちが選定をしていくということになるかと思います。
それで、学校評価、教員評価が入り、学力テストの平均点を上げることと進学実績を高めることなど、数字にすぐ出ることばかり評価され、気になる子供のことにじっくり時間をかけることが何か悪いことをしているように見られるとも訴えておられました。
残念ながら、様々な外的な圧力等々もありまして、いわゆる有名大学等々の進学実績を争わさせられることを強いられていると、こういう状況下に現下の高校が置かれていることも事実でありまして、ここはまさに政治、世の中全体の問題として考えて、そして改善をしていかなければいけないと、このように感じている次第でございます。
これらのことを見ていきますと、ほとんどの子供たちが今は高校進学をする中で、偏差値による高校の序列化や大学進学実績の重視、教育困難校の問題ですとか少子化の問題など、課題として挙げられるのではないかと思っております。
それはやっぱり社会の中で、どういう評価の対象にするか難しい問題かも分かりませんけれども、受験実績、進学実績だけではなくて、どれだけ社会に有為な人材を送り込んだかと。もっと言えば、どこに就職させたかということですけれども、というようなことが問われなきゃならないと。問われないままに、学校評価、学校経営者とか教員側が評価されないままでおるのではないかという問題提起でございます。
これは進学校が進学実績を上げる陰で教育困難校というのはまた深刻な問題を抱えるということがございます。その教育困難校の抱える問題というものを正面から引き受ける教師、それをサポートする仕掛けというものが、実はその多様化というものの陰で、エリート養成は重視されながら、実は教育困難校の方は本気で考えられてこなかったのではないかと、そういう面も否定できないだろうというふうに考えております。 以上です。
実績というのは大学進学実績であり、あるいはクラブ活動での実績であり、あるいは検定の合格率とか様々な数値を目標とした実績づくり、これが押し付けられてきております。 そのような中で、私たちは本当に新しく下ろされてくることをこなすことに本当にもうきゅうきゅうとしておりますが、目の前の子供たちをほうっておくわけにはいきません。子供たちも、先ほど申したように本当にいろいろな問題を抱えて悩んでおります。
そういう中で、ボランティアというふうなことを一つの人間としての基本的な何か資質を養うための手段として大変有益、有効であると考えるわけですが、泣き言になってしまいますが、現場では、世間様の期待もございまして、いかに進学実績を上げるかということのニーズが大変強うございまして、何かそうした要望に教員もこたえざるを得ないという言い方は変でございますけれども、いわゆる有名校、ネームバリューのある学校へ何人入れるかというふうな
成果、成果、成果だけ求められて学校ごとに競わされる、その目標に達しない先生は不適格とか指導が足りないとか進学実績が足りないというふうなことになってしまうと、先生自体が息苦しくなりますし、先生が楽しくなければ子供たちも楽しくない。これは私の先輩が毎回繰り返していた言葉なので、ここでもお話しさせていただきますけれども、その意味を毎日痛感しているところであります。
今日では、高校教育はすべて大学進学のためにあるかのような考え方が一部でかなり支配的で、そこでは進学が生徒や親たちの最大の関心事であり、生徒の進学実績を中心に学校を評価するような社会的風潮にだれも疑問を抱かなくなっている。そして、この年齢層の青少年に大切な人間教育や心身の健全な育成が、ともすれば軽視されがちになっている。
そして地方が数的にも多いというのは、これはやはり、進学実績をどう上げるかということが問われているわけです。二〇〇二年から学校評価制度というのが取り入れられるようになって、そこでは数値目標を四月の当初に出して、そして三月の末には、どこまで達成したのかという具体的なパーセンテージを全部数値で発表するとなっています。
学力を中心にした数値目標につきましても、これも、高校、大学は、既に進学実績という数値目標が明確にあります。ですから、殊さらに、これはマーケットベースで行われているものでありますが、最近のいわゆる競争原理に立脚した成果主義というのは、官製の数値目標を、あるいは行政的な数値目標を学校もその枠組みの中に組み込んで、それを競い合わせるという方向に向かっていると思います。
もっとも、どういう評価なんだと聞いたら、大学進学実績だ、それしかないと言っていましたので、これはびっくりしましたけれども。 単純といえば単純ですけれども、明快といえば明快でありまして、何でもいいと思うんですけれども、やはり国の責任できちっとしたものを示すということは、これから先、国際競争の場における我が国という状態を考えてみますと、非常に重要なことになってくるというふうに思います。