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170件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

1950-04-10 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第23号

連隊長も逃げてしまつておる。それだからあとに残つた兵隊は、すべて自分たちで行動して行かなければならないというような状態でありまして、非常に多くのわれわれの仲間がそうした不的確な命令指揮のために、また将校あるいは将軍の自己保身に汲々として兵を顧みなかつたというようなことのために犠牲が出ておる。

高山秀夫

1950-04-01 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第16号

細菌関係、そういう人たちの軍事的な意味における現職摘発といいますか、罪状摘発、イデオロギーの闘争がそういうふうな形態にかわつて行くのでありますから、かつてそのポジションにあつた人たちは、自分たちのいわゆるすねの傷を隠すといいますか、そういう意味において、本心でなくてもデモクラートという意味において出発し、ここに一つの証明として関東軍罪悪史、あるいは私自身の收容所で言うならば、本田というかつての歩兵連隊長

吉田幸平

1950-02-06 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第10号

私は終戦当時、関東軍の戦車第三十五連隊長でございました。開戦と同時に新京警備の命を受けまして、新京防衛に当つておりました。途中終戦になりまして、二十年の八月二十日、夜中に公主嶺帰つて参りまして武装を解除されました。爾後千五百名川臨時編成大隊に改編されまして、同年十二月一日、プラゴエスチェンスクに到着、爾後シベリア本線によりまして南下し、十二月八日外蒙古のスフハートルホト、国境でございます。

長命稔

1949-12-23 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第5号

証人高山秀夫君) 連隊長中曽根中佐は常に戰線状況について、連隊本部に所属するものについてはその当時の状況を話しておりましたし、それから後退しつつ師団長或いは参謀長と前後してずつて捕虜になつた東京城附近まで下つて行きましたから、本体牡丹江方面の戰闘の状態砲兵上等兵でありましたけれども、よく分つておりました。

高山秀夫

1949-05-12 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第24号

においても、俺は社会党に日本に帰つてから入る、四月の総選挙において代議士に立候補しなければならない、だから俺は早く帰りたいということをソヴィエト側さつき言つたゴロフニン中尉、こうした人にも洩らし、そうしたものが小針君や、その他の人達が帰つて後においても、ソヴィエト側のいわゆる笑いの種になつておるということにおいて、同じく小針君の部隊から残つた北川昇君、これは先日の細川証人の証言にもありました、当時連隊長

津村謙二

1949-05-12 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第24号

その外副連隊長をしておりました。そのときに、第一、第二中隊から高橋栄次郎君、これは北海道の出身であります。彼は最も熱心な民主主義者でありました。私なんか非常に彼に学んでおつたのでありますが、彼が突如名簿から拔かれておりました。そこで司令部の方に行つて收容所長会つてその事情を聞いたのでありますが、これは間違つて落ちたのだから、この次に機会に帰すからというので、そのままになつてしまつた

小針延次郎

1949-04-08 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第14号

それから十二年の秋に連隊長になりました。四八の連隊長になつたのでございますが、それ以後は少將になつても中將になつても、ずつと支那戰線におりました。十四年に支那に渡りましてからずつと戰線におりまして、二十年には例の桂林作戰に参加をしまして、廣西省の端から貴州省まで私は歩いておつたのであります。

赤鹿理

1948-04-13 第2回国会 衆議院 本会議 第41号

その翌る日の六日にも若干の事件が繰返されたのでありますが、ときたまたま岐阜アメリカ第八軍の二十四連隊よりは、ジープ十台並びに特別列車によりまして百七十五名のアメリカ軍隊の出動を見、さらに第二十四連隊長は飛行機によつて浜松市に急遽來飛されたというような事件であります。  これに対しまして、当初浜松市の警察署は全力をあげてこの時件の解決に当つたのであります。

川合彰武