1950-04-28 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第21号
建軍関係は、玉福才が部隊長で、その下に連隊長が二人、中村金之助と横澤連隊長、その下に鵜川大隊、小川大隊、鵜川大隊の中に五中隊、福田中隊、佐伯中隊、田代中隊、安孫子中隊、外山中隊、そのうち佐伯中隊を自分がやつたのであります。
建軍関係は、玉福才が部隊長で、その下に連隊長が二人、中村金之助と横澤連隊長、その下に鵜川大隊、小川大隊、鵜川大隊の中に五中隊、福田中隊、佐伯中隊、田代中隊、安孫子中隊、外山中隊、そのうち佐伯中隊を自分がやつたのであります。
連隊長も逃げてしまつておる。それだからあとに残つた兵隊は、すべて自分たちで行動して行かなければならないというような状態でありまして、非常に多くのわれわれの仲間がそうした不的確な命令指揮のために、また将校あるいは将軍の自己保身に汲々として兵を顧みなかつたというようなことのために犠牲が出ておる。
細菌関係、そういう人たちの軍事的な意味における現職摘発といいますか、罪状摘発、イデオロギーの闘争がそういうふうな形態にかわつて行くのでありますから、かつてそのポジションにあつた人たちは、自分たちのいわゆるすねの傷を隠すといいますか、そういう意味において、本心でなくてもデモクラートという意味において出発し、ここに一つの証明として関東軍罪悪史、あるいは私自身の收容所で言うならば、本田というかつての歩兵連隊長
私は終戦当時、関東軍の戦車第三十五連隊長でございました。開戦と同時に新京警備の命を受けまして、新京防衛に当つておりました。途中終戦になりまして、二十年の八月二十日、夜中に公主嶺に帰つて参りまして武装を解除されました。爾後千五百名川臨時編成の大隊に改編されまして、同年十二月一日、プラゴエスチェンスクに到着、爾後シベリア本線によりまして南下し、十二月八日外蒙古のスフハートルホト、国境でございます。
橋本中将は私が少尉任官当時の連隊長で、私としては最大の恩顧を受けた先輩でございましたので、この方についても本日か明日のうちにお宅に参上して御報告しようと、こう思つておつたところであります。その外の移動に関しては私は存じません。
○淺岡信夫君 そうしますと、この連隊長小川中尉、或いは原口、今記憶しておる人、そういう人を伴つてあなたは所長に話をされたわけですか。
○証人(高山秀夫君) 連隊長の中曽根中佐は常に戰線の状況について、連隊本部に所属するものについてはその当時の状況を話しておりましたし、それから後退しつつ師団長或いは参謀長と前後してずつて捕虜になつた東京城附近まで下つて行きましたから、本体牡丹江方面の戰闘の状態は砲兵上等兵でありましたけれども、よく分つておりました。
においても、俺は社会党に日本に帰つてから入る、四月の総選挙において代議士に立候補しなければならない、だから俺は早く帰りたいということをソヴィエト側のさつき言つたゴロフニン中尉、こうした人にも洩らし、そうしたものが小針君や、その他の人達が帰つて後においても、ソヴィエト側のいわゆる笑いの種になつておるということにおいて、同じく小針君の部隊から残つた北川昇君、これは先日の細川証人の証言にもありました、当時連隊長
その外副連隊長をしておりました。そのときに、第一、第二中隊から高橋栄次郎君、これは北海道の出身であります。彼は最も熱心な民主主義者でありました。私なんか非常に彼に学んでおつたのでありますが、彼が突如名簿から拔かれておりました。そこで司令部の方に行つて、收容所長に会つてその事情を聞いたのでありますが、これは間違つて落ちたのだから、この次に機会に帰すからというので、そのままになつてしまつた。
その途中に私の部下の一ケ連隊が……連隊長が馬に乘つて武裝解除のまま連れてどこかへどんどん前進しているのを見ました。それから牡丹江に参りましてからは、もう自分の部下とはすつかり離れて、部下はとにかく順調に山から下つたということは確かめました。
それから十二年の秋に連隊長になりました。四八の連隊長になつたのでございますが、それ以後は少將になつても中將になつても、ずつと支那の戰線におりました。十四年に支那に渡りましてからずつと戰線におりまして、二十年には例の桂林作戰に参加をしまして、廣西省の端から貴州省まで私は歩いておつたのであります。
その翌る日の六日にも若干の事件が繰返されたのでありますが、ときたまたま岐阜のアメリカ第八軍の二十四連隊よりは、ジープ十台並びに特別列車によりまして百七十五名のアメリカ軍隊の出動を見、さらに第二十四連隊長は飛行機によつて浜松市に急遽來飛されたというような事件であります。 これに対しまして、当初浜松市の警察署は全力をあげてこの時件の解決に当つたのであります。
その解放方を再三連隊長にお願いしておるのであります。一ケ所しか練習場を持たないからこの隊がおる間は駄目だということを言つておられますが、二十四師團長にもお願いしまして、是非とも使わさして貰うようにお願いしておるのであります。