1966-06-23 第51回国会 参議院 文教委員会 第24号
その一つの有力な徴証は、西暦三九一年の好太王の碑、鳴緑江の中流に通溝という場所がありますが、そこに好太王の碑が立っております。その碑に、倭軍がそこまで攻めて来て戦ったということが書きしるされておる。好太王の碑は明治時代になってから発見されたのですが。そういうことで三世紀の後半から国家統一が進んで、四世紀頃には完成した、こういう教え方で日本の国家統一の完成を教えておるわけであります。
その一つの有力な徴証は、西暦三九一年の好太王の碑、鳴緑江の中流に通溝という場所がありますが、そこに好太王の碑が立っております。その碑に、倭軍がそこまで攻めて来て戦ったということが書きしるされておる。好太王の碑は明治時代になってから発見されたのですが。そういうことで三世紀の後半から国家統一が進んで、四世紀頃には完成した、こういう教え方で日本の国家統一の完成を教えておるわけであります。
旧買州地区においては延吉六十名、渾春六百四十名、和龍二十名、汪精三十名、圖們四十名、嫩江三十名、龍井六十名、開山屯三十名、朝陽川十名、明月溝三名、瀋陽五千九百二十三名、撫順四百三十名、本渓湖五名、鞍山七百名、遼陽十名、長春千二百七十名、吉林千二百名、蛟河百五十名、佳木斯三百名、鶴岡千名、大連千六十名、旅順一名、安東千五十名、牡丹江七百名、穆稜七十名、仙洞五十名、東安千五十名、鶏西千三十名、通化百五名、二通溝百二十五名