2009-03-17 第171回国会 参議院 国土交通委員会 第4号
私は、この治水ということは極めて大事であればこそ、まさに近代合理主義の必ず現象は統計学的に説明し切れると言っているのに、実は先ほど言ったように河川改修等をして百年確率の雨が降っても六分の一である、しかしそのときに残念ながら言われた言葉は、二十四時間単位の一時間ごとの雨の降り方が想定とは違ったのでそうなったのかもしれないというお話です。
私は、この治水ということは極めて大事であればこそ、まさに近代合理主義の必ず現象は統計学的に説明し切れると言っているのに、実は先ほど言ったように河川改修等をして百年確率の雨が降っても六分の一である、しかしそのときに残念ながら言われた言葉は、二十四時間単位の一時間ごとの雨の降り方が想定とは違ったのでそうなったのかもしれないというお話です。
まさに私は、今のサブプライムローンでアメリカの企業、大手の金融企業、何兆円って損していますけど、あれも私は一種の近代合理主義の、核兵器、それから地球温暖化、今はサブプライムローン、人間が科学というのを発見して、もうそれをコントロールできなくなって、結局全体の秩序が、地球そのものが病気になると。
それから、人間の一つの生命でいうと、生命と肉体とは一体どういう関係なのかということを考えなければいけないんだろうというふうに思っていて、別に哲学の議論をするわけじゃありませんけど、今近代合理主義と言われています、現在をつくり上げたのは。その近代合理主義は二元論だと言われていて、結局その主体と客体との関係、肉体と生命との関係を解明しようとしたけれどもできなかった。
それから、経済あるいは科学技術とかそういったものは、核兵器を造ったということでひとつ近代合理主義というのは限界になりましたよ。原子力を使えばすばらしいエネルギーができる。しかし、同時に核兵器を使えばもう人類は崩壊してしまうと。 もう一つは地球温暖化ですよ。どんどんどんどんこの百年間、私は環境基本問題調査会長を五年やっておりまして、影の環境大臣を五年やらせていただきましたよ。
やはり、今申し上げましたような歴史的な流れからすると、私はもう既に近代合理主義というものは行き詰まってきているというふうに思えてならないわけであります。
今の高度産業社会の源というのは近代合理主義にある。その近代合理主義の源を更にたどれば、デカルトの二元論にあるんではないかと考えます。デカルトは、主体として考える自分、それは人間の生命とか精神とも言えますが、それと客体としての肉体ですね、これは物質とか自然とかあるいは環境とも言えるんですが、この関係をとらえようとして結局、デカルトはとらえることができなかった。
それは、近代合理主義というのがもう行き詰まっているんだ、欧米の哲学、理念ではこれからの世界を掌理していく、ほどよく治めていくということはできないという意味合いのことを再三いろいろな書物でも書かれていたし、御発言もございました。
近代合理主義精神、民主主義精神について最も造詣深い方だと思います。議会人であられるあなたが、なぜ議会での正面からの議論を避けるこのような特例政令にサインされたのか、お尋ねします。 自治大臣にお尋ねいたします。あなたも、若いときから青年団運動から政治に入られ、そして県議会での議長の経験もあられます。私と同じ出身地の尊敬すべき先輩であります。
しかしながら我が国の場合は、先ほど申し上げましたように、まだこの近代合理主義というものに接して百年前後であろう、こういうふうに思います。
○木島委員 いまちょっと、各大臣には大変失礼な御質問を申し上げたと思うのでありますけれども、いずれにしても、私がいま申し上げたようなことは、近代ということからくるいわゆる近代合理主義、そこから産業社会、それがいろいろなひずみを出しておる。
近代合理主義はそういうものがなくなってくる。そして、物質文明は進む。ここに、産業社会が進むに従って物質文明と精神文明といいましょうか、そのアンバランスがますます拡大していくことが、将来のこの国を、あるいは地球をと言ってもようございますが、どういう方向に持っていくかということを私は心配するのですが、いま大変該博なるところの文化論をお述べいただきました自治大臣にお聞かせ願えますか。
○木島委員 いま総理がおっしゃいましたように、いわば近代合理主義とでも言うのでありましょうか、あえて近代をつけます。合理主義というのは、どの時代にもその時代に生きた人たちは、その時代は合理主義だと思っておったに違いありませんから、現在は現在として、ですから近代合理主義という言葉を使いますけれども、近代合理主義、そこからおっしゃる物質文明が出ておる。だから、産業社会と使ってもいいわけでしょう。
ヨーロッパ近代における物理学中心の科学、これから抜け出さなければならない、そういう点で、ヨーロッパの人たちは日本の仏教思想になだれを打つように入ってきておりますけれども、私は、こういうふうにあわてふためいてヨーロッパが仏教に進んでくる、そういうのは少し困る、ヨーロッパはヨーロッパなりで自分の近代合理主義の限界というものをとことんまで突きとめていただきたい、そうして西と東の理論の貫く普遍的なところに立
しかしながら、われわれはこの過程で自然と人間との調和あるいは自由と責任の均衡、精神の内面に根差した生きがい等に十分な配慮がなかったという反省の上に立って、急速な経済成長のもたらした都市化や近代合理主義に基づく物質文明は限界に来て、もはや経済中心の時代から文化重視の時代に至ったという認識を示した。そして、文化の重視、人間性の回復を施策の基本の理念に据えて、家庭基盤の充実や田園都市構想を推進をする。
この事実は、もとより急速な経済の成長がもたらした都市化や近代合理主義に基づく物質文明自体が限界に来たことを示すものであると思います。いわば、近代化の時代から近代を超える時代に、経済中心の時代から文化重視の時代に至ったものと見るべきであります。」
○大平内閣総理大臣 西洋型の近代合理主義では権利とか義務とかいうようなことで割り切って物を考えるのでございますが、それだけではとても解決できない問題が多いのではないか。日本型と申し上げましたのは、そういうことを超えた相互の助け合い、思いやり、そういったものが考えられなければならぬのではないか。
この危機は、総理の言われるように、「近代合理主義に基づく物質文明自体」の「限界」などというものではありません。それは、正しい意味での近代合理主義に反する大企業本位の高度成長政策の破綻によって、すなわち歴代自民党政府の国民不在の経済政策によって、もたらされたものではありませんか。 以上の点について、総理の見解を求めます。
この事実は、もとより急速な経済の成長のもたらした都市化や近代合理主義に基づく物質文明自体が限界に来たことを示すものであると思います。いわば、近代化の時代から近代を超える時代に、経済中心の時代から文化重視の時代に至ったものと見るべきであります。
この事実は、もとより急速な経済の成長のもたらした都市化や近代合理主義に基づく物質文明自体が限界に来たことを示すものであると思います。いわば、近代化の時代から近代を超える時代に、経済中心の時代から文化重視の時代に至ったものと見るべきであります。
そういう意味で、私たちはいまその近代合理主義というものの矛盾といいますか、そうした単純化が果たして人間生活を豊かにすることにつながるのかどうか、それが「文化の向上に寄与する」のかどうか、もう少し多様な価値感というものを生かしていく、そうした文明論といいますか、文化論というものがあっていいのではないだろうか、その点で、官僚的な統一化、画一的な統制というもので計量単位を考えていくということは私は間違いだというふうに
しかし、同時にまた、私たちの祖先が持っておりました非常にすぐれたもの、そういうものが近代合理主義のすべて生産のみの考え方の中で失われてきていることは確かでございます。