1983-03-07 第98回国会 衆議院 予算委員会第三分科会 第3号
○寺松説明員 御承知のように東北大学の附属病院に関しますものと第二薬局と言われております辛酉薬局に関するものと両方ございますが、大学の方につきましては約一億円、それから辛酉薬局につきましては約二千九百万でございます。それから、保険金の返還でございますが、いま先生の御指摘のとおりでございます。
○寺松説明員 御承知のように東北大学の附属病院に関しますものと第二薬局と言われております辛酉薬局に関するものと両方ございますが、大学の方につきましては約一億円、それから辛酉薬局につきましては約二千九百万でございます。それから、保険金の返還でございますが、いま先生の御指摘のとおりでございます。
「二月十一日ということは、日本書紀の「辛酉年春正月庚辰朔」」といって書かれたことをグレゴリウス暦によって換算した結果であり、いわゆる実証的な根拠がないのだということを明らかにされております。
そのほかには御在世中に幾つか改元のケースがございますが、これは吉凶禍福あるいは辛酉・甲子というような節によります改元でございます。
しかし、実際には、元号というのは多分に呪術的な意味を含んでおりまして、代がかわったとか、あるいはめでたいことがあった、不吉なことがあった、あるいは十干十二支で言う革命、革令の年、辛酉・甲子と申しますが、そういう年には元号を改めるというようなことが行われてまいりまして、実に頻繁な改元が明治維新まで続いたわけでございます。
それで、これからは、改元事由というのは、そういうことで法律ではっきり明定をされたわけでございますが、いま室長のお述べになった改元事由というものを、多い事例を調べてみますと、災異による改元が百十一、代始め改元が七十一、それから革年改元が三十五、いわゆる辛酉革命、甲子革令というやつですね。それから祥瑞改元が十三、未詳十六というような改元事由になっておるようです。
それから、もう一つのグループといたしましては、辛酉あるいは甲子の改元と言われておりまして、これは辛酉あるいは甲子と申しますのは、十干十二支の方から来ているその言葉でございますが、そのような説、この根拠になります、識緯説と言われておるようでございますが、その説に基づきまして、辛酉の年あるいは甲子の年に改元をするという例が、やはりこれもかなりあったというふうに記録されております。
これは、この間にいわゆる中国の辛酉革命の思想に基づいて、推古天皇の六年、いわゆる「かのととり」という年を基準として一蔀二十一元、千二百六十年ごとに革命があるという向こうの思想で、その当時国家紀元というものをあとで教育的につくろうという意図のもとに、千二百六十年さかのぼって神武元年になっておる。
さて、いまから千数百年の昔に編さんされたわが国最古の歴史書である日本書紀によれば、神武創業の起点となりました推古天皇九年は、由緒深い辛酉の年であり、これは厳然たる歴史的事実であります。
日本書紀による辛酉年春正月朔日とあるのは、新暦採用後、明治六年、紀元節制定の際、換算の結果、二月十一日となったのであって、これに昨日出席された平田参考人の説にもあるごとく、塚本氏の三正綜覧によってもその真実性が立証されるはずであります、また、この辛酉年春正月朔日の建国が、いまから約千二百五十年前の日本書紀に書かれ、それを多くの日本人が長い長い年月を、最も古い歴史書として尊重してきた事実や、二月十一日
また、讖緯の説に基づいて歴史を解釈した人もおりまして、たとえば三善清行という人は平安時代において、ちょうど延喜元年が辛酉の年に当たっている。それで繊維の説は歴史的に正しい、神武天皇は辛酉の年に即位された、あるいは天智天皇が変革をされた年も辛酉の年である、今年は辛酉の年であるから改革の年である、そういう考えが延喜以後盛んになりまして、辛酉の年にはいつも年号が変えられるようになった。
さっきお話がありました讖緯説とか、辛酉茶命の思想だとか、こういうお話が盛んに出たのですが、これは中国において、あるいは日本においてこういう思想が一体どういう事情で出てきたのかということ、それが当時の国家体系だとか、社会機構といいますか、経済機構といいますか、そういうものと何か関連がある思想なのかどうか、それからこういう辛酉革命というような思想が一体歴史的にいつごろまで支配した思想なのか、こういう点についてちょっとお
○参考人(末富東作君) 私は日本書紀の、いわゆる神武天皇即位の年の辛酉の年正月一日という考え方は、これは聖徳太子によってでき上がったものだと思っているのであります。
(拍手) 提案者の言われる、日本書紀の中に辛酉正月庚辰朔、天皇橿原の宮に即位、この年天皇元年となすと記録されていることをもって、神武天皇の即位は二千六百十八年前の辛酉の年なりとするがごときは、今日の歴史学より見て全く根拠のない独断論であることは、多くの歴史学者の主張するところであります。
さきに一月二十九日が神武紀元の日であると算出した方法は、日本書紀の辛酉の年春正月朔日は大陰暦の一月一日であるから、これを太陽暦に換算すれば一月の二十九日になるというのであります。これくらいむちゃな話はないのでありまして、神武時代の暦のない時代であり、これをどうして太陽暦に換算できるかということであります。
がはっきりしていることでありますればそれに越したことはないのでありますけれども、これはなかなか古いことですから簡単に決定はできないのでございまして、しかもこれはいわゆる純粋科学の、歴史学の問題よりもむしろ国民感情としての政治問題であり、これが決定されたことは日本の正史日本書紀が千三百年もずっと信ぜられて伝わってきた、それを根拠として、明治維新当初において当時の学者その他の方々が十分に研究されまして、二月十一日が、「辛酉
そういう当時にこれを作ったのであって、しかも作るときに、辛酉庚辰春正月というこの文字が日本書紀になかったら、私はおそらく日本の紀元節というものはこのときに制定されなかっただろうと思うのです。
日本書紀に辛酉の日とあるから、この日をきめる以外にないというように申しますが、しかし、神武天皇の時代に暦自体がなかったという事実は動かすわけには参りますまい。十干十二支もずっと後に大陸文化として入って来たものだったのですから、このような怪しげな根拠によって建国記念日とすることは、衆議院の名誉と威信とに対し影響なしというわけにはいかないでしょう。
何といってもこれは辛酉の日に即位をしたということで、橿原神宮がやはり大きなウエートとして、好むと好まざるとにかかわらず浮んでくるわけであります。そういたしますれば、橿原神宮のみならず、さらにその渕源である皇大神宮もクローズ・アップされましょうし、その他神社の問題がやはりこれに関連して出て参るわけであります。
根拠のない日を建国の記念日と定めるということは、それこそこじつけであって、日本の歴史の上に間違った記録を作ることでございまするから、私は、そのことよりも、やはり一応日本の正史といわれている日本書紀に現われているところの辛酉の春正月のこの日を定めたところの明治の先覚者の二月十一日説という方が、より根拠があるのですから、やはり根拠のある日を建国の記念日としなければならぬと思うのでございます。
○小川半次君 しいて複雑に考えようとすればまたそういう考え方も起ってくるのではないかと思いますが、やはり日本の正史といわれているところの日本書紀に、日本の建国の日は辛酉春正月ということが文献として残っているのでございますから、われわれは日本の先覚者、日本の先輩の学者たちが苦心して作ったものを、そう根本から否定するとか故意に反対するとかということはできないのであります。
そこで日本の正史であります日本書紀に、辛酉の正月元日に即位なさった、こういうことが出ておるわけでありましてこれに対しましては、いろいろ学者の間で意見があります。那珂先生の意見が非常に重要視されて参っておりますが、しかしそれに対しましても反対の議論があり、これでもってまだ那珂博士の説を信ずる人が多いですけれども、近ごろの新しい歴史学の中に、まだ反駁が出ていないのであります。
ただ十一日を建国記念日にされるという主張の根拠を日本書紀の辛酉の年である、神武の即位が辛酉の年である、こういう日本書紀の主張、これはここで議論しても仕方がありません。これは間違っておるのですよ。これはこの前私が申し上げた通り要するに中国に辛酉の年には天地の異変があるという思想があった。迷信哲学があった。日本書紀の編さん者がその思想を持ってきたことは明瞭なのですよ。
○纐纈委員 辛酉の年という問題の起ったことは、あとから繊緯説の辛酉革命説がもとになって、そういうふうに逆算してきた、こういうことなのです。そこで私どもの承知しておるところでは古事記あるいは日本書紀が作られた当時には、繊緯説という迷信が日本にはまだほとんど行われておらなかった。
その伝説によれば、きょうは畝傍の東南麓の橿原の宮で、辛酉の年の正月一日にここで天皇がひもろぎを囲んで即位の式をあげられたところである、こういうことを一応説明する。
それで繊緯説の例の辛酉革命、つまり十二支十干、この計算で六百年目に一度起るというこの革命説などを基準にして、ちょうどこのあたりへ結びつけたらという一つの東洋、西洋の英雄的な中心人物を、神武天皇に持ってきたのではないかという想定もできるのではないかと私は思うのです。
○纐纈委員 今繊緯説、辛酉革命のお話がありましたが、あの当時は、御承知のように、民族がお互いに争っておりますから、ときどき小さい争いとか、そういうものはしばしばあったわけで、それをシナのいわゆる繊緯説によります辛酉革命論を持ってきたということが、日本の紀元を引き延ばした一つの大きな原因になり、同時にあとからそれをあれしたということでありますが、これはこの前も稲村先生の質問に対して私はお答えしたわけであります
それから日本書紀の紀元は推古九年の辛酉の年から千二百六十年逆算してきめたのだ、この説。この説にも十分批判の余地があると思う。それから卑弥呼比定の問題、神功紀年代の比定の問題、それから朝鮮、シナ――漢韓史との年代の比較問題、こういった問題が学問的には取り上げられなければならぬのであります。こういうことがまだほとんど論議されておりませんで、そうしていつの間にか学界の定説などと言われてしまった。
いわば常識として持っておる判断でありますが、その日本書紀の性質や二月十一日となっておりますその神武天皇即位の文章につきましては、おそらく後ほど井上さんの方からこまかにお話があると思いますので、それに譲りたいと思いますが、とにかくこのあいまいな、史実とされておる、あいまいな表現となっておるこの二月十一日神武天皇即位ということにつきまして、これは私の解釈では、奈良時代に日本書紀の編さんをした人たちが、辛酉
○井上公述人 井上でございますが、私、きょうここで申し述べますのは、いろいろ問題が多岐にわたるのをおそれまして、ただ日本書紀に出ております神武天皇即位の年を西暦紀元前六百六十年、辛酉の年の正月の朔としていることが歴史的事実であるかどうか、ただそれだけに問題を限ります。
ただいまの御質問のように、いつ二月十一日を紀元節としたかということは、ただいま申し上げましたように、太政官布告できまったわけでありますが、ただ神武天皇がいわゆる辛酉の年の一月一日に御即位になったということで、元日のお祭とともに、一月一日にそうした意味を含めてある程度お祝いしたという事実はあったように思うのであります。
○纐纈委員 日本書紀の第三巻に辛酉の年の春に神武天皇が橿原の宮で御即位になった、こういうことが書いてある。それを、先ほど小川先生もちょっと言われましたように、明治になって記念の日を祭りたいということで調べたところ、ちょうどたまたま神武天皇が正月元日に御位につかれたのですが、その年はちょうど一月二十九日であったわけです。ところが、旧暦と新暦とは毎年日が違ってくる。
ただいま昔の天皇の在位の年数が非常に長いということ、それからいわゆる辛酉革命説というものがあって、辛酉の年に神武天皇の即位を持ってきたという那珂博士の説を御引用になったのでありますが、実はこれは朝鮮の古い、たとえば高句麗の始祖の東明王から十一代の東川王まで二百六十…年ですが、これは平均五十三年になっておるのであります。
そしてその間においてうるう年というものが出てきて、また四百年目には一回うるう年がなくなる、こういうことでありますから、そういうことをすべて詳しくあれして逆算いたしたのでありますから、少くとも日本書記におきまして、辛酉の年とまた庚辰という日が出ております。
次に、二月十一日を選んだ根拠としては、我国の正史である日本書紀、巻三に、「辛酉春正月、庚辰朔天皇橿原宮に即位、是年を天皇元年となす」と明記されており、また明治に至りわが国が維持を断行し、近代国家としての体制を確立した際、すなわち明治五年十一月、神武天皇即位の年を日本紀元元年として、日本紀元を定められたことによるものであります。