2004-01-19 第159回国会 参議院 本会議 第1号
その後、熊本高等工業学校、現在の熊本大学工学部を御卒業になり、日本鉱業に就職されますが、一年ほどで戦時召集を受け、当時の満州の国境守備隊に配属、つらい軍隊生活だったそうでありますが、持ち前の根性と体力で乗り切り終戦を迎えられました。
その後、熊本高等工業学校、現在の熊本大学工学部を御卒業になり、日本鉱業に就職されますが、一年ほどで戦時召集を受け、当時の満州の国境守備隊に配属、つらい軍隊生活だったそうでありますが、持ち前の根性と体力で乗り切り終戦を迎えられました。
父は日本軍人に志願し、二年の軍隊生活、八年のシベリアでの抑留生活、生まれてから起こったこと全ては、「時代の流れで仕方がなかった」とよく言っていました。当時は、黒パン一切れでも日本人と分け合った仲と、自分だけが辛い経験をしたとは思っていません。 日本政府に対して、恨みつらみが爆発した提訴ではなく、何十年もの間、ひとりの人間として、平等を願う、自分の存在を認めてほしいという思いの提訴でした。
私は軍隊生活を経験しまして、そしてやはり殴られもし、また殴りもしました。先生がそういう軍隊の一面的な面を見まして、日本人の男性がすべて暴力的だということに対しては、私自身の軍隊での経験からいきまして、あの日本の軍隊というのは一つの特殊な社会だった、そのように思いますし、日本の軍隊イコール日本人のすべての男性が暴力的だということには私はならないのじゃないかというように思います。
軍隊生活の中でも、いろんな経験をしてみても、地雷に対する対策というのは戦時中にはどうも私らの記憶にはないんですね。 一番苦しかったのはむしろ毒ガスですよ。完全装備をして、上から下まで毒ガス用の装備をして、そして葡萄前進をするなんということはまさに目が回るといいますか、気が遠くなるような思いをした記憶があるんです。息ができないくらい苦しいことはないですからね。
実は、私も全くこれと同じ感情を持って軍隊生活を送ったわけでございます。 こういうふうな気持ちから申しますと、ここでこういうふうな形での、「多数の兵士は戦争の「犠牲者」であったとしかいえない。」ということをはっきり作間さん書いておられます。そして、「兵士の遺族もまた同様である。しかしそれは決して「犬死に」ではない。まして断じて「侵略の加担者」ではないのである。
○下村泰君 私は、軍隊生活の経験がありますので、申し送りというのは大変大事な要項でございますから、これはしかと申し送っていただかないと、これから私は後の質問が嫌になりますから、どうぞよろしくお願いします。 さて、あと時間がわずかです。緊急一時保護についてお尋ねいたします。
私の場合は、申し上げて恐縮でありまするけれども、三年余りの軍隊生活で、戦地にも、南方の方にも行っておりましたが、あれがシベリアでやられておったならば私は命はなかったかと思いますけれども、暖かいところで抑留をされたからまだ助かった、体重が二十キロばかり減りましたけれども、まだ助かった。
先生は、昭和十五年、大学を出られた後、年の暮れには兵役に服し、三年間の軍隊生活を送られましたが、父重政氏は、除隊後の先生を陸軍省南方総軍軍政最高顧問としての自分の秘書として採用し、シンガポールに終戦まで在勤させられました。 また、御自分の死期を悟られたのか、昭和三十年二月の総選挙の際は、わざわざ愛媛二区の選挙区に伴い、最後の戦いをともにされました。
それが私に苦しい軍隊生活を耐えさせたもの、力となりました。 そのようなことを思いますと、先ほど電話の話もしましたけれども、今日日本の便利になりました余り、お手紙を書かない時代になってきました。特に若い世代にそうでありますけれども、お手紙というものは電話とはまた違った味がある。
けれども、現実に軍隊生活をした者として、命令を乱発することによって部下を統制し、統帥権を振り回すことによって確保されております団結の部隊とともに共同作戦をするときには、大変な注意をしてやらなければならなかったのです。
少なくとも訓練中止——昔の軍隊だってこんなに時間がかかるということは全く考えられない、私もささやかな軍隊生活の経験は持っていますけれども。 いみじくもこういう報道がされていますね。中止指令から九時間後、前田海幕長は、項目は全部できた、つまり演習項目は全部完了した、こういう談話が載っているわけですよ。つまり真相はこういうことでしょう。
そこで一つ問題は、内地の場合は、いずれにいたしましても戦地での戦争中のいろんな話や記事や何かを見ますと、私も短い期間ではありましたけれども軍隊生活をしておりました。終戦末期でありますから、当時の軍隊はいわば非常に殺伐としておりまして、道理が通ずるという世界ではありません。
(拍手) 若き日の川口君に大きな影響を与えた一つは、県庁在勤中、用水改良事務所に派遣され、そこで見た飯場の実情であり、第二は、川口君は応召し、中国大陸を転戦して青島で終戦を迎え、二十一年三月、復員されたのでありますが、この軍隊生活で得た「平和への希い」であったのであります。(拍手) 川口君と私は、党派の違いを忘れ不思議に心の通う、言うところのウマの合う友人でありました。
私は、二十歳から十年軍隊生活を送り、終戦直後、市会議員、県会議員を通って参議院に当選させていただきましたが、本日、はえある表彰をいただきましたことは、先輩、同僚、皆さんの御指導と御鞭撻により、あるいは終始変わらない全国の支持者の方々の温かい御支援のたまものと深く深く感謝申し上げる次第です。 顧みまして、夢と希望のみが大きくて、なすことの余りにも少なかったことを恥じ入っておる次第です。
えりを正せと言うと、軍隊生活は反対だ、こういうふうな形になってくる。一々そういうことでしょう。そして授業参観で監督に行こうとする。新しい先生方は、教育大を出て理想に燃えてやろうとしても、経験がないから、その若い先生方は先輩や教頭さんたちに指導してもらいたい、現場でのそういう勉強を手をとってほしいと思っておるのです。ところが、歩きますると、すぐその後から日教組が出てきて校長室に押しかける。
私自身も戦争で軍隊生活を送り人生がめちゃめちゃになった。子供の幼い好奇心を利用して兵器で遊ばせる自衛隊のやり方は戦争に対して子供の意識を知らず知らず麻痺させることになるのじゃないかというふうに述懐をしておられるわけですけれども、文部大臣、この五十九歳の方のこういう言葉をどう思いますか。どのような感想をお持ちですか。
そして戦争の悲惨さ、敗戦のみじめさを、日常生活・軍隊生活・外地引揚の体験を通じて詳さに知ったのであります。そこから生れた私の政治活動の原点は、「二度と戦争をしてはならない。させてはならない。まきこまれてはならない」の一点であるといってよいと思います。
○中馬(弘)委員 時間が参りましたので終わらしていただきますが、軍隊生活の経験が必要だとか、あるいは教育勅語の時代がよかったといった戦前の諸制度をなつかしむものではなくて、民族交流の新たな実験に挑戦する勇気を持って教育改革に取り組み、国際化時代にあって、世界に尊敬される国家、日本の基礎づくりをしていただきたいということを願いまして、質問を終わらせていただきます。
○中山(利)委員 いまの消防団員は、昔のように軍事教練とか団体教練とか軍隊生活というものの経験者は全然皆無でございまして、一挙手一投足初めから教えなければできないわけであります。教育には大変な手間と時間がかかるわけでございます。
ところが、実際に軍隊生活をした私どもから考えますならば、自分の着ておったものを洗ってもあくる日の演習に間に合わぬ。乾かない。もたもたしておったら上級兵にぶんなぐられる、戦地においてはいつ何どき敵の弾が飛んでくるかわからぬというようなときに。そんなときにのんびり洗たくもしておられませんが、汗をかいたままでも仕方がない、着たままでも寝なければならぬ。