1949-09-13 第5回国会 衆議院 考査特別委員会 第36号
シヤツや軍衣袴、こういうものが平にあつた。いまだに私はこれはあると思つておるのです。
シヤツや軍衣袴、こういうものが平にあつた。いまだに私はこれはあると思つておるのです。
いわゆる軍衣袴であります。それをそちらの方に振り向ける、すなわち信越、東北十縣で約五百万石からの米が供出滯納しておる。その分に振り向けたら米が出るだろう。
おそらくそれは軍衣袴という言葉で話があつた、こう記憶しております。さらに申し上げたいことは、隱退藏物資の中に軍衣袴すなわち軍服があつた場合に拂下げてほしい、こういうような話が出たのであります。それは多分議会であつたと思うのであります。
こういうふうに金が動いておるのでありまして、東京第二區から衆議院議員選擧に立候補して落選いたしました自由黨公認の中曽根幾太郎が、本年二月頃面識を得ました鹽月學及び藤川文六兩名から、當時内務政務次官であり隱退藏物資摘發處理委員會副委員長でありました、世耕弘一が、その摘發にかかる軍衣袴多數を一着につき百圓の政治獻金を條件として、一着六十圓乃至六十五圓の價格で拂下げるということを言明したと聞知いたしまして
これは終戰當時海軍黒潮部隊が三重縣、和歌山県の沿岸に置去りにした物資の一部で相當横流ししていたために、數多のブローカーが縣當局と氣脈を通じ、問題化し檢察當局の調査が開始されるや、管理人の河井某は三月二十日に自殺し、檢事局方面では松井縣會議員がもみ消し運動をし殘品、軍衣袴十萬著、くつ、綿布、毛布等奈良縣下高田町乾繭倉庫へ移轉した。