1980-10-31 第93回国会 参議院 安全保障及び沖縄・北方問題に関する特別委員会 第3号
陸軍の幼年学校に入ってから、昭和二十年ポツダム宣言を受諾して日本の陸海軍が解散するまで、四十年近い間の軍人生活と、大正三年ですよ、これも時代が違うんですが、青島に兵を出しましたな、あの青島出兵以来、大日本帝国といった日本がやったあらゆる事変や戦争、シベリア出兵もしかり、満州事変、支那事変、大東亜戦争しかり、ことごとく私は不思議に直接そのことに介入してまいりました。
陸軍の幼年学校に入ってから、昭和二十年ポツダム宣言を受諾して日本の陸海軍が解散するまで、四十年近い間の軍人生活と、大正三年ですよ、これも時代が違うんですが、青島に兵を出しましたな、あの青島出兵以来、大日本帝国といった日本がやったあらゆる事変や戦争、シベリア出兵もしかり、満州事変、支那事変、大東亜戦争しかり、ことごとく私は不思議に直接そのことに介入してまいりました。
ただ、昔の軍隊と今日の軍隊の違いますのは、機動力と申しましょうか、装備力、こういうものが根本的に変わっているのでございまして、旧軍人と今日の軍人が、どこが強いか、どこが弱いかということを判断することは、少なくとも、しろうとの、軍人生活をやったことのない志賀防衛庁長官としては、判断のつきかねるところでございます。
それでまたさっき申されましたいわゆるレーダーがどれだけの能力があって、そうしてサイドワインダーはどれだけの命中率があって、ファルコンはどれだけの命中率があるか、こういうことはわれわれは航空自衛隊の幹部として今度の評価に当たりまして、そういうことをやらないで帰るというようなことは考えられないのでありまして、これは長い間軍人生活をやりました私たちが、行って飛行機だけ見て、その飛行機がどれだけ相手を落とせるだろうかということを
また体験のおもなるものは、明治四十年から昭和二十年に至るまでの軍人生活、ことに大正の末期には参謀本部部員兼海軍軍令部参謀といたしまして、直接国防用兵、作戦計画立案の任務を担当したこと、昭和二年ジュネーヴの海軍軍縮会議に列席し、次いで国際連盟の全般軍縮会議の準備委員といたしまして、軍縮問題に直接ぶつかったこと、また実戦の体験といたしましては、満州事変及び上海事変には参謀本部からの派遣参謀として、もしくは
これは四十年近くの軍人生活の体験に基く信念でございまするから、ほかの人から批判されようが、攻撃されようが、なかなか動きそうもないということだけはここで明言しておきます。
しかもそれが四十年間の軍人生活の結論であり信念であつてかわらない、こういうふうに拝聴いたしましたが、あのマレー戦場における軍人としてのあのお働きも、おそらく私は信念の上に立つたお働きであると、今日まで非常な敬意を持つて参つた次第でありますが、ただいまのお話を承りますと、あなたの信念が百八十度大転換をしておる。その転換されました動機について後輩として承りたいと思います。
○遠藤公述人 私明治四十年に軍服を着ましてから終戦によつて軍服を脱ぐまで、かれこれ四十年近くも軍人生活をやつて来たものでございます。その後開拓農民として百姓をやつておりますので、まことに野人礼にならずで失礼なことを申し上げるかもしれませんか、あらかじめお許しを願います。
私は軍人生活が長かつた関係上、急に考え方の切りかえができなかつたので、反動将校として隔離を命ぜられ、約三箇月間は、他の部下と、あるいは他の同胞と談話の自由を許されなかつたというような過去もあつたように思います。
○証人(石井春朗君) それで、初め入りましたときは、軍人生活から入りましたものですから、会社の仕事に馴れていないので、庶務で見習をやれというようなことでありまして、殆んど吉田庶務課長の命令を受けてやつておりましたけれども、当時は新聞記者なんかを各地方工場を案内しましたり、それから又庶務のいわゆる雜務というような仕事に使われておりました。