1964-06-04 第46回国会 衆議院 外務委員会 第29号
それに基づいて、日本政府機関及び軍によりまして、中国大陸の占領地域から一般住民及び軍事俘虜を捕えまして日本に強制連行したという事実が発生した。次に、日本の敗戦直後に、ポツダム宣言の第十条、降服文書及び連合国最高司令官の総司令部一般命令第一号などで、日本が捕虜にいたしました連合国の軍人、それから抑留した外国人に対しまして、次のような原則が立てられました。
それに基づいて、日本政府機関及び軍によりまして、中国大陸の占領地域から一般住民及び軍事俘虜を捕えまして日本に強制連行したという事実が発生した。次に、日本の敗戦直後に、ポツダム宣言の第十条、降服文書及び連合国最高司令官の総司令部一般命令第一号などで、日本が捕虜にいたしました連合国の軍人、それから抑留した外国人に対しまして、次のような原則が立てられました。
「特に私共所謂「戦犯軍事俘虜」に関する問題が若しも交渉の上に暗影を投ずるがごときことあってはなりませぬ。勿論一日も早く祖国に帰還し其の復興に参与することが私共の唯一の希望であったのでありますが、然し乍ら之が両国交渉の障碍になるに至っては、事此処に終わんぬであります。之は私共大部分の者の真意であります。何卒此の意志を祖国の朝野に御伝え下さい。」
○政府委員(田辺繁雄君) 赤十字社名簿に載っている人たちにつきましては、既決軍事俘虜名簿というのがあります。すなわち、判決を受けた軍事上の俘虜名簿という意味であろうと思います。そのほかに現実に二十七年以降通信の来たものが百四十名おるわけであります。従って、その人がソ連におることは確実かと考えております。
○佐多忠隆君 そうすると、ソ連が言っている既決軍事俘虜以外にそういう現地通信者がいるとすれば、そういう者の数字は、ただ通信によって確認をしておるのみならず、ソ連との間に何か交渉をされて、確認をするような努力を今までにされたのかどうか。そういう点では何ら今までに措置はとられていないのか。その辺の事情はどうなっておりますか。
それから今の既決軍事俘虜以外の現地通信者百四十名、あるいは推定の三百人、そういう者に対しては、こちらからは通信が許されているのかどうか。あるいは許されるのかどうか、その辺の事情はどういうふうになっておりますか。
その内訳は、軍事俘虜が四百二十名、地方人が三百八十九名ということに相なつております。子供二人は正式の引渡人員の数には入つていないのであります。この軍事俘虜と地方人のわけ方につきましては、当方におきます軍事俘虜と一般邦人とは必ずしも一致していないのでありまして、軍事俘虜四百二十名の中にも一般邦人が入つております。
そしてこれは八百九名のうちで軍事俘虜と地方人に分けておる、軍事俘虜四百二十名、地方人三百八十九名、そういうふうに分れておる。軍事俘虜というのはこれは軍人が主でありますが、一般人も混つておる。それで私のほうで昨日までに帰つて来た人の身分を調べますというと、軍人、軍属が四百三十四名なつておる、日本側の調査でございます。一般邦人が三百七十七名、婦人、子供は全部この三百七十七名に入つております。
ですからほかの軍事俘虜の收容所はみんなが選挙によつて民主委員を選出するという権能を與えられたけれども、われわれは五年の間その自由を許されません。全部ソ連側の任命した人間だけで構成しておつたわけであります。
私どもは——ほかの軍事俘虜でも同じでございましようが、軍事俘虜であつて、そんな全般なことがわかるはずはございません。ほかの捕虜の人の証言にあるかもしれませんが、捕虜の中でも、私は一番よく知つている立場にあります。それでも私にははつきりした数字はわかりません。従つて私としては大体帰還途上で見た数とか、聞いた話とか、そういつたものを総合して考えるよりほかありません。
所長代理の中尉シヤフイーエフという人が、収容所のクラブに、数日前新しくウズベツクスタンのタシケント地方から移つて来たところの日本人の軍事俘虜並びに抑留者を集めまして、収容所側からは所長代理のシヤフイーエフ中尉と、それから政治部将校の上級中尉のエルマーラエフという人が出席しました。
一九四九年のソ連政府の声明が出たあとは、あの声明通りだから、お前ら軍事俘虜はみな帰るのだ、取調べ関係以外の者はみな帰るのだ、こういうことであつた。
その頃カラカンダ地区におきましては、軍事俘虜と抑留者というものが区別されておりました。満鉄とか、特務機関に勤めていたところの優秀な通訳は、特別收容所第二十九分所という別の抑留者ばかりの收容所で取調を受けておりました。それで軍事俘虜の間には通訳の優秀な人がいないというので、私は独学でありましたが、その頃相対的に優秀でもあり、政治、文化についての話は幾らか心得があつたわけであります。
樺太から処刑人としてソ同盟に連れて来られて、刑を二年なり、三年なり終つた、そうしてその人達が帰国する場合に、軍事俘虜の方はどんどん帰るのに、その人達は收容所にも收められず、一応生活の安定は得ておりましたけれども、自分達帰国については非常に不安であるというので、自分もその委託を受けまして收容所本部へ数回行きましたけれども、あれは軍事俘虜とは取扱は違うのだ、お前達と一緒には帰れないのだ、こう言うのです。
すなわち本年十一月末までには、在ソ残留中の日本人抑留者並びに軍事俘虜九万五千は、その戰犯追究中、調査中の一団を除いては送還し終るであろうというところの声明を出しました。收容所といたしましては全員非常に喜びまして、われわれの帰期も時間の問題であるということで、みなが希望を持つて生活し始めたわけであります。
在ソ軍事俘虜及び抑留者の帰国問題に関しましては、帰還を遅らしているものこそ——であり。現吉田内閣でありもそれを取巻く一連の反動であると主張しております。
懇 請 書 在ソ日本軍事俘虜及抑留者引揚促進は停戰後に於ける日本の重要、国策にして、之が具現に関し進駐軍の絶大なる努力と国民の総力を挙げ居るところにして洵に感激に堪えざるところなり然るに第九九地区(カラカンダ)第九分所に被收容中同所長代理中尉シャヘーフ治政治部将校ヒラトフ少尉(通訳日本人管某)は思想教育の為全員集合の席上俘虜の帰還質問に対しヒトラフ少尉は左の如く言明せり 「日本共産党書記長徳田球一氏